中村桂子のちょっと一言
2023.09.01
「平和」という言葉を考える
最近思うのです。「平和」という言葉を考え直したらどうだろうと。
人間とはなにかについて考え続け、晩年になって「永遠平和」について語ったカントは言います。「人々は平和を戦争と戦争の間と捉えている」と。確かにそうです。
「戦争と戦争の間を平和」とする考えは、戦争はあるもの、あって当然のものとしています。明治以来の日本の戦争史を読むと、戦争こそ国を大きくし、利益をもたらす重要な行為と考える人々が国を動かしていたことが分かります。結局は、自分の出世や賞勲のために事を進め、多くの人に人を殺めさせ、自身の命を失わさせていくのです。今も同じなのではないでしょうか。科学技術が最新兵器に使われ、子どもたちの上に爆弾を落とすことが当たり前になってきました。権力者の勝手な思いによって命を失う人は戦士だけではありません。
私たちにとって大事なのは「日常」です。家族と共に食事をし、友達と遊び・・・という日常こそ生きるということです。日常こそ人間が生きる基本です。それを奪う戦争は「本質的にあってはならないもの」です。これまでがどうであろうと、21世紀に生きる私たちはそう考えるのがあたりまえです。
「人間は生きものというあたりまえのことを基本に考えるのが生命誌」と言い続けてきた者として、「戦争」に対置するのは「日常」です。「平和」というと、そんなのは理想論だ、お前は世間知らずだとバカにされますが、「日常」ならそんなことは言えないでしょう。もちろん「平和」という言葉は大切ですが、特別の状態であり、現実味のないものとされては意味がありません。
私が大事にするのは「日常」です。これを奪う戦争くらいバカげたことはありません。今は21世紀です。地球について、生きものについて、人間について、生きることの意味について、たくさんのことを学んだ私たちは、戦争の無意味さが分かっています。異常気象も大きな課題ですが、気象を何とかしたいと思っても残念ながらすぐに変える力を私たちは持っていません。でも戦争を止めることはできるでしょう。
「生命誌」は「日常」の中にしかありません。くり返します。自然・生命・人間について学び、生き方を考えるのは「よい日常」のためです。「日常」を奪う行為は許してはならないものです。「永遠平和」であれば、それが日常です。
人間とはなにかについて考え続け、晩年になって「永遠平和」について語ったカントは言います。「人々は平和を戦争と戦争の間と捉えている」と。確かにそうです。
「戦争と戦争の間を平和」とする考えは、戦争はあるもの、あって当然のものとしています。明治以来の日本の戦争史を読むと、戦争こそ国を大きくし、利益をもたらす重要な行為と考える人々が国を動かしていたことが分かります。結局は、自分の出世や賞勲のために事を進め、多くの人に人を殺めさせ、自身の命を失わさせていくのです。今も同じなのではないでしょうか。科学技術が最新兵器に使われ、子どもたちの上に爆弾を落とすことが当たり前になってきました。権力者の勝手な思いによって命を失う人は戦士だけではありません。
私たちにとって大事なのは「日常」です。家族と共に食事をし、友達と遊び・・・という日常こそ生きるということです。日常こそ人間が生きる基本です。それを奪う戦争は「本質的にあってはならないもの」です。これまでがどうであろうと、21世紀に生きる私たちはそう考えるのがあたりまえです。
「人間は生きものというあたりまえのことを基本に考えるのが生命誌」と言い続けてきた者として、「戦争」に対置するのは「日常」です。「平和」というと、そんなのは理想論だ、お前は世間知らずだとバカにされますが、「日常」ならそんなことは言えないでしょう。もちろん「平和」という言葉は大切ですが、特別の状態であり、現実味のないものとされては意味がありません。
私が大事にするのは「日常」です。これを奪う戦争くらいバカげたことはありません。今は21世紀です。地球について、生きものについて、人間について、生きることの意味について、たくさんのことを学んだ私たちは、戦争の無意味さが分かっています。異常気象も大きな課題ですが、気象を何とかしたいと思っても残念ながらすぐに変える力を私たちは持っていません。でも戦争を止めることはできるでしょう。
「生命誌」は「日常」の中にしかありません。くり返します。自然・生命・人間について学び、生き方を考えるのは「よい日常」のためです。「日常」を奪う行為は許してはならないものです。「永遠平和」であれば、それが日常です。
中村桂子 (名誉館長)
名誉館長よりご挨拶