研究セクターのスタッフが、日常で思ったことや実験の現場の様子を紹介します。
月二回、スタッフが交替で更新しています。
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“トワ”という名前の、乳白色でフルーティーなお酒を知っていますか?
トワは、私の研究調査地でもある、マレーシアのお酒です。マレーシアには、熱帯雨林とよばれる森があり、60m以上の巨木を見ることができます。どんなに調査が大変でも、巨木のふもとにたたずめば、魔法のように元気になれます。研究を始めて間もない頃、この巨木の下で、私はトワに出会いました。調査地の周辺に住んでいるイバン族のおばあちゃんが、手作りのトワを売りに来たのです。70歳くらいなのですが、日に焼けた笑顔がなんともかわいらしく素朴です。おばあちゃんは、その小さく痩せた背中に、ラタンという植物で編んだ手作りの籠(かご)を背負っていました。籠の中には、野生のバナナと、しょうゆビンに詰められたトワが入っていました。トワひと瓶を900円で買って欲しい、とおばあちゃんは言いました。私は、もっと安くして欲しいとお願いしました。交渉の末、半額にしてもらうことが出来ました。ところが、私が半額の450円を払うと、405円もおつりをくれるではありませんか!?これでは、トワひと瓶はたったの45円です。びっくりした私は、なぜなのか尋ねました。しかし、当時の私には、おばあちゃんのマレー語があまり分かりませんでした。そしておばあちゃんは、手を振りながらまた森へと帰っていったのです。
その夜、おばあちゃんの言葉を辞書で引き、なにがおこったのかやっと理解できました。そもそも、あのトワは、900円ではなく90円だったのです。なるほどね!90円なら、半額は45円!謎が解けた喜びに満たされた直後、すぐに後悔の念が押し寄せてきました。あのトワを作るのに、何日かかったのだろう?どんな気持ちで作ったのだろう?家族はいるのかな?あの瓶はどれほど重いのだろう?どれほどの道のりを運んできたのだろう?その道はどんな道なのだろう?何回休憩したのだろう?肩や腰は丈夫なのかな?帰り道に何を思ったのだろう?
おばあちゃんに直接会って、残りの45円をどうしても払いたい、私は強くそう思うようになりました。そこで、早速その週末から、おばあちゃん捜索大作戦を開始しました。村の村長を尋ねたり、町の市場で探したり、おばあちゃんが消えていった森に入って、歩ける道を調べたり。その結果、少しだけ、おばあちゃんの足取りがつかめました。おばあちゃんは森を抜けてから、車道沿いを歩いたようです。それ以外に道がなかったからです。自分の足でその車道を歩いてみると、あまりの暑さに立ちつくしてしまいました。ただ暑い、といより陽射しが痛い。こんな道を歩いて来たの?!これじゃあ植物だって、へたっちゃうなあ。自分の足で歩いてみて、おばあちゃんの生命力と、それが放つ輝きを実感しました。おばあちゃんが、すぐ近くにいるように感じられました。
しかし、どれだけさがしても、おばあちゃんを見つけることは出来ませんでした。あの日から4年以上の月日が流れた今でも、私はおばあちゃんをさがしています。あの巨木の下や、あの暑い車道を通るたび、思わず私はふり返ります。そこにはもうおばちゃんの姿はなく、巨木たちが私を見守るだけです。おばあちゃんは、どんな人生を歩んできたの?だれにトワの作り方を習ったの?おいしいトワの作り方は? 私はひそかに、トワを“永久”と呼んでいるよ。おばあちゃんの“永久”は、最高傑作だったよ。また、おばあちゃんの永久を飲みたいな。おばあちゃんが消えちゃう前に、マレー語が話せたなら、いろんな話をしたかったよ。
もう会えないおばあちゃんと、森の巨木たちは似ているかもしれません。お年寄りになるまで生きぬいてきたというところ、シワクチャなところ、力強いところ、と言っても癒やし系なところ、いなくなってから会いたくなるところ。あと、一度消えてしまえば、絶対に、二度と会えないところ。森が消える前に、巨木たちが交わす言葉を覚えて、いろんなことを聞いてみたい。いままで、どんなことがあったの?そこから、何が見える?今、誰かが遊びに来ていますか?ひょっとして、永久を作っているおばあちゃんの姿がみえますか?
さ い ご に。
消えゆく熱帯雨林において、巨木語や昆虫語といった生き物の言葉を、私たち若手研究者がいきいきと研究できるのは、多くの方々からの、おしみないサポートと絶えまない励ましがあるからです。この場をおかりして、心より感謝申し上げます。
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写真1:むらせと、森の巨木たち |
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写真2:野生の猪出現!
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写真1.2ともマレーシアにて撮影 |
[DNAから共進化を探るラボ 奨励研究員 村瀬 香]
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