館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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【魚はどこへ行ったのか】
2013年3月1日
空海の本は本当にたくさんあるので、まだ続いていますが、今回はちょっとそこから離れて・・・と言っても無関係ではありません。
水俣の漁師さん緒方正人さんのことはここにもだいぶ前に書いたような気がします(ここではなかったかもしれません)。とにかく本当に“すごい人”でいつも教えられることばかりです。
水俣について考え続けようという「本願の会」の季刊誌「魂うつれ」の2013年1月号に緒方さんの『「神隠し」された海の魚たち』という文があります。この十数年、不知火海でエビ、カレイ、アナゴ、カニ、タイ、タチウオ・・・とにかくあらゆる魚が獲れなくなっているのだそうです。社会は「水俣病をのり越えて再生した豊かなる不知火海」というイメージで、今年は熊本県で「全国豊かな海づくり大会」が開催されることになっているとのこと。私も海は豊かになっているのだろうと勝手に思っていました。しかし漁協は破綻寸前、漁師の表情は暗く、後継者もいないのが実情だとあります。その原因は、温暖化によって海水温が上昇していたところへ急に冷えるなどの天候異変、稚魚の生育する海藻の壊滅、森や河川が荒れていることなどなど複数です。緒方さんは、「悠久の生命史における生命循環の働きが総体的に収縮している“いのちの縮小化”」と書いています。そして、これらを被害金額という「ゼニに価値変換」してきたことに違和感を覚えると強い口調です。「魚はどこへ行ったのか。ひょっとして人間に愛想をつかして天空の彼方へ逝ってしまったのではあるまいか」。ここが緒方さんの漁師という天職を踏まえた独自の発想で、説得力をもつところです。生き物を「量的な物」として捉えるのは間違っている。生き物に「物性」でなく「事性」を見ると、そこには物語りとしての重要なメッセージがあるというのが緒方さんの気持であり、事実、「神隠し」された魚たちからのメッセージを受け止めているのです。以前緒方さんに「生命誌」には通じるものを感じると言っていただいたことを大事にしてきましたが、またこれまで以上に重い話です。でも、生きものの話をするなら動詞が大事と思ってきたのは、物でなく事という見方と重なりますし、つながりに眼を向けています。簡単にこんなことを言うとお叱りを受けそうですが、空海も今ここにあるものではなくいのちのつながりを見ていると思うのです。