館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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【<社会>という言葉に気乗りしない理由】
2007.10.15
小泉・竹中時代になって以来、社会のためにとか社会の一員としてという気持にどうしてもなれなかったのです。人間や生命について考えることを許さない状況を作り出す政治をなぜ人々が認めているのかわかりませんでした。慶應義塾の小林節教授が「小泉政治の傲慢さと軽さに耐えられなくなった。(中略)言葉を、法律というものを、徹底的に無視している」とおっしゃっています。まさにそうでした。小林教授は自民党のブレイン。決して考え方が同じということではありませんが、この感覚は100%共有します。最近になって、雑誌や新聞で私が長い間抱き続けてきた疑問と同じ疑問を呈する話がやっと出て来るようになり、少し気持が落ち着き始めました。 その中で、基本的で興味深かった一つが、大澤真幸さん(東京新聞論壇時評)の「われわれの社会が今失ないつつあるもの、それはほかならぬ<社会>という価値である」という指摘です。社会とは「互いに直接関係をもたない大規模な住民・人口の間の連帯原理」であり、具体的には、社会的所有、つまり全人口を対象とする義務的保険や医療・教育などが公的にしっかり配備されている状態だとありました。それを新自由主義政策が衰退、更には消失しかねない状態にしているのが現在であり、ここでいう「自由」は「社会」の等価的代理物にはなれず貧困と格差を生んだというのです。自由というけれど実際は無責任な経済至上主義ですからそうなったわけです。「科学と社会」という近年盛んになった動きになんだか気乗りがしなかったのは、本来の「社会」が存在しなかったからだとわかりました。科学の話も、経済活性化や産業界に役立つ人材養成の中で語られています。しかも、科学がそのまゝ経済活性化につながることなどほとんどないわけですから話はインチキくさくなります。今若い人たちに伝えなければならないのは、経済至上主義の中での科学の宣伝ではなく、本当に人間が人間らしく生きる連帯原理が失なわれている不幸を実感し、もう一度社会をとり戻そうという呼びかけだと思います。このような疑問を抱かずに安易に「科学と社会」と唱え、予算がもらえて幸せとしているのでは本当に科学を愛する人とは言えないでしょう。 【中村桂子】 ※「ちょっと一言」へのご希望や意見等は、こちらまでお寄せ下さい。 |