館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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【大きな枠として生命を】
2003.8.13
先日、米国在住の作家冷泉彰彦さんの米国の現状報告を読みました(JMM.No227)。子どもを対象にした性的犯罪や銃で遊んでいての誤射の多発に対処するために、「子どもを悪い人から守る」「判断力のない子どもが危険な状態を作ることから守る」という意味で、十二歳までの子どもは常に大人が見ていなければいけないということになったというのです。冷泉さんは必ずしもこれをよい社会と思っているわけではないと断りながら実情を紹介しています。隣家で長時間子どもが留守番をしているのに気づいたら警察を呼ぶというのです。その時決して「私が預かりましょう」とはなりません。なにかトラブルがあったら困るからです。子どもが商店街を一人で歩くこともNOです。物理的な保護だけでなく、映画やテレビも、暴力や性的な作品には規制があります。この制約に対してのバランスは、十三歳になったら自由という形でとっているのだそうです。アメリカらしいやり方ですね。 この方法が最良かどうかは別として、社会の中での子どもという存在に対する大人の責任ということはどうしても考えざるを得ません。少なくとも、たとえば「小学生だけで渋谷へ行く」ことはさせないという判断は、社会としての常識にするくらいの責任はとるべきでしょう。もちろん、子どもを対象とする事件を起こす大人の罪は厳しく問わなければなりませんが、社会としての責任を具体的な形にするなら、すべての大人が子どもの日常に関わるということ以外ないわけです。 ただ、私には、できることならそれが警察に届けるという対処ではないとよいのだがという気持があります。現状の中で守るというだけでなく、先回書いた「いのちを大切にというあたりまえのこと」があたりまえになるような社会をつくることで大人の責任を果たしたいという気持です。子どもを守るというのも、結局は生きることを大切にしようという気持の現れなのですから。それは結局、先回書いたような複雑さを複雑として受け止めるということになるわけで、ここまで世界が広くなり、すべてのことを明確にすることを求められる時代には、とても難しいことだと思います。小さな社会でならなんとなくわかり合えて、あたりまえで通じることが通じない。ですから今、いのちを考えるのはとても難しいというのが実感です。それは、生命科学が進めば進むほど、いのちの大切さを考えるのが難しくなっていくというところとも重なります。 世界が広がることも、科学が進むことも否定すべきことではありません。けれどももう一つ大きな枠として「生命」を置いて、いのちそのものについて考えることを同時に行わなければ、子どもを守るにはどうすればよいかという問いに対する答は出て来ないと思うのです。難問ですが、それを探したいと思っています。 暑い夏に、ちょっと面倒なことを書いたかなと思いますが、実はこれが今の私のテーマなので。 【中村桂子】 ※「ちょっと一言」へのご希望や意見等は、こちらまでお寄せ下さい。 |