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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【いのちの大切さってどう考えればよいの】

2003.8.1 

中村桂子館長
 研究者として考えれば生きものの研究はとても面白いけれど、日常暮らす社会がいのちを大切にしていると実感できるものでなければ、これを本当に面白いと思い、楽しむことはできない。「生命誌」を「研究館」という場で始めたのはその思いからでした。「生きものの研究はどんどん進むけれどいのちは大切にされていない」という状態は、どう考えてもおかしいですよね。高槻に建物ができてからちょうど10年。おかげさまでこの考え方に共感して下さる方はふえています。けれども・・・けれどもです。社会はどう見ても“いのちを大切に”というあたりまえのことが無視されているとしか言いようのない方向へ動いています。
 “いのちを大切にというあたりまえのこと”と言いましたが、このあたりまえのことが難しい。まず、大切ならそれを失わないようにすることが基本ですが、生きものの世界は、自分のいのちを保つためには、どうしても他のいのちが失われないわけにはいかないという面をもっているからです。そもそも生きもののしくみそのものが、“新しいいのち”を産み出して育てるためには、いのちが消えていくようにできています。死が組みこまれているのです。しかも、暮らしていくには食べものが必要です。私たち動物は自分で自分の食べものをつくり出す能力を与えられず、他の生きものを食べるようにつくられています。闘いによって相手のいのちを奪う行為まで、生きることそのものの中に組みこまれているかどうかは議論のあるところですが、現実問題としては、人類が戦争し続けてきたことは確かです。ですから、“いのち”の場合、大切にと言ってもことは簡単ではありません。“思い出のたくさんこもったグラスを大切に”という時の大切は、決して壊さないように気をつけるということですが、“いのち”の場合はそうはなりません。壊れることばかり。でも“大切に”しなければならない。具体的にどうしたらよいのだろう。生命誌、つまり生きものの物語を読みとることの意味の一つは、これを考える素材を手にすることですので、今こそ生命誌について考えなければならないと思っています。
 こんな事を書き始めたのは、小学生や中学生を巡ってやりきれない事件が起きているからですが、今回は前置きで終りになってしまいました。続きは次回に(などというととても素晴らしい論が出てきそうな雰囲気になりますが、私のことですから、例によってあたりまえのことです。あまり期待せずに、でも次回もお読み下さい)。この問題についてお考えがありましたら是非書きこんで下さい。



【中村桂子】


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