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研究館より

中村桂子のちょっと一言

2020.04.15

人間が生きものであること

先回、今眞剣に考えてみたいことがあると書きました。それは「人間が生きものであること」です。

新型コロナウィルスの感染が広がり、WHOはパンデミックという言葉を使いました。世界各国が人の移動を制限し、日常生活が自由に行えなくなり、経済も政治もどうなるのか見えなくなりました。とくに日本は、夏のオリンピック・パラリンピック開催が延期となり、混乱に陥りそうです。

天然痘やハシカなど以前は日常の病気として存在していた感染症にワクチンで対処してきたことはよく知られています。実は先日軽い帯状疱疹になり大急ぎでお薬をいただいてなんとかおさめたところです。ヘルペスウィルスが体のどこかに潜んでいるようで、動き出したら闘うという体験はこれで三度目です。これからもこのウィルスは私の体のどこかで存在し続けるのでしょう(ウィルスは生きものとは言えませんので、存在し続けるという表現になります)。

こんな風に長い間のおつき合いがありながら、ふだんはとくに意識せずに過しているウィルスですが、今回のようにその存在を意識せざるを得ないことが起こるのが自然というものなのです。ワクチンはなく、薬も何が効くかわからず不安に陥っている状況と、ついこの間AIがあれば思うがままの社会をつくれるかのように語っていた傲慢さとのギャップをどう受け止めたらよいのだろうと悩みます。

何かおかしい。けれども具体的に何もすることができない。どうしよう。ここでハッと思いました。デジャブ(既視感)です。9年前、つまり2011年3月11日の東日本大震災の時に感じた疑問と無力感をあの時より強く感じていることに気づきました。そして、実はあの時に「生命誌」を考え直してみよう、その中でとくに大事なことを探し出してみようと考えたことを思い出しました。その時に書いたのが「科学者が人間であること」(岩波新書)です。書きながら、私は自分にできる小さなことをやって行こう。きっと社会はここで大きく変わるだろうから、その中で私の小さな活動の意味もはっきりしてくるに違いないと思ったのでした。夜になると空が暗くなり、星が見える街を家へと戻りながらそんなことを考えたのです。先日、本当に久しぶりに夜の銀座へ行き、以前よりもキラキラ度が高くなっているのを見て、あの時のことはすっかり忘れていると肌身で感じました。

それでも懲りずに思うのです。今度こそ変わらざるを得ないだろう。その中で私にできるのはやはり「生命誌」の考え直しだと思っています。今書きたいのは、「科学者が人間であること」よりもっとふつうに、「人間が生きものであること」です。ストレートのボールを投げ、それを自分で受け止めてみようと思います。

こんなことを書きながら、ふと手にした雑誌『中央公論』(2020.4)に作家の平野啓一郎さんの「文学は何の役に立つのか?」という文を見つけました。この「身も蓋もない問いに対し、最近僕は答えるのに苦慮しない一つの答を見つけました。それは“今の世の中で正気を保つため”です。僕は最近ほとんどそのためだけに本を読んでいます。」

「今の世の中で正気を保つため」。よくわかります。「生命誌」は今の私にとってまさにこれです。「役に立つとは時間的なコストと財政的なコストに関して、対費用効果的に見合うか」ということで判断され、これを続けているうちに障害者を社会の中で生かしておくことに意味がないと思う人が出てきてしまったのが今である」という平野さんの捉え方は、その通りだと思います。

そこで、「正気を保つため」に何かをやらずにはいられないのです。辛い世の中ですけれど、一人一人が自分の正気を保つためのものを持って生きることだと思います。

中村桂子 (名誉館長)

名誉館長よりご挨拶