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SYMPOSIUM

対談

身近な自然・里山
ー ヒトと昆虫の営みの場

今森光彦写真家
永田和宏JT生命誌研究館館長

1.生きものの関わりの妙

永田

非常に面白い講演をありがとうございました。ラフレシアの話では、ハエ、ネズミ、ヒレブドウが関わる複雑なプロセスを教えていただきました。繁殖の効率から見ると、シンプルであればあるほど良いように思いますが、なぜラフレシアはこの3つを経ないと生育しない戦略をとるのでしょう?

今森

ラフレシアの種は1つに数十万個でき、ネズミがいろいろな所にまき散らして、たまたまヒレブドウの上に落ちた時にだけ発芽します。ラフレシアにとっては、細い橋を渡るような危険な行為ですが、ネズミにとっては餌をたくさん食べることになります。他者を生かす行為の中に豊かさがありますね。

永田

ものすごい量の種が全て発芽すると、生態系のバランスが崩れるのかもしれませんね。ラフレシアが3日で枯れるのも非常に素晴らしいタイミングです。枯れたものが最後に残ることは、今年の研究館のテーマ「生きものの時間」と重なります。時間が刻んだ進化の妙ですね。ヒレブドウにとって、ラフレシアを発芽させるメリットは何でしょうか?

今森

まだ分かっていません。ヒレブドウが無ければこの生態系が成り立たないことは確かなので、何かしらメリットはあるはずです。

永田

共生は、どちらも利益を得るのが基本的な考え方ですが、この場合のハエはただ働きですね。先ほど、オスが情けないと言われたツチバチもただ働きですか?

今森

ハンマーオーキッドは、ハチの繁殖シーズンが過ぎて、メスがいなくなってもあの機能を残します。受粉が済んだにも関わらず、あぶれたオスのために、遊ばせてあげているようです(笑)。オスも交尾相手がいなくなると飛ぶ意欲がなくなるはずですが、それを分かって楽しんでいるように見えます。

永田

受粉した植物は枯れてもいいはずなのに不思議です。人類は遊びを覚えた唯一の生物と言われますが、ハチも遊びを楽しんでいるのでしょうか。

2.生きている姿を見ないと分からない

永田

メダマカレハカマキリの目玉模様で脅かす対象は、鳥とトカゲですね。驚かすには、目が一番いいんでしょうか?

今森

鳥もトカゲも視覚生物で、よくものを見て獲物を捕らえる習性があります。こういう生きものは、おそらくまず目を見るんじゃないでしょうか。目というより顔で、顔には危険な口がありますから、顔の認知に目を使っていると思います。

永田

わが家は山に直結しているので、猿が時々出るんです。普段は手を叩くと逃げますが、一度だけ手を叩く前に猿と目が合ったことがあります。その時、手を叩いたら一直線に私に向かってきました。大急ぎで走って逃げたんですが、ベランダの戸が開いていなかったら引っかかれたと思います。逆に、熊に出会したら目を見てゆっくり下がれと言われます。目というものは不思議です。

今森

目は、あるところまで小さくなると逆に食べたくなるそうです。目の大きさには、逃げるか食べるかの境目がある。目の位置も重要です。目玉模様が、命に関わる大事なところにあると危険です。先ほど見ていただいたカマキリの翅は突端にありますので、もし食べられても逃げられます。本当に上手い所に模様があるので感心します。

永田

進化は人間が辻褄を合わせて理解するものなので、答えはないと思いますが、昆虫の演出の話も面白いですね。目玉模様はずっと見せずにパッと隠す。見せられた驚きと無くなった驚きの両方があって、威嚇になるんでしょうね。

今森

擬態の本に、カマを上げて花に擬態したマノハナカマキリは、花と間違えて来た虫を捕獲する、と書かれていました。しかし、私が東アフリカで出会ったカマキリは、花に化けていなかったんです。これには驚きました。絹を裂いたような音がバリバリッとして、パッとポーズを取るのですが、その時見えるのは不可解な模様であって、花ではなかった。これは威嚇でした。本の解説者は、現物を見ずに標本で想像したのでしょう。
それから、葉にそっくりなコノハムシの生きた姿を見て驚くのは、その透明感です。コノハムシは自然界で必ず葉にぶら下がっているので、透かして見ると、葉そのものに見えます。捕食者の鳥は透過光で見ますので、見事なカモフラージュです。こういう本質は図鑑からはわからないことですね。

永田

写真は見せたいアングルで撮られますが、そればかり見ているとずっとそういう格好なんだと勘違いしてしまいます。面白くないところも含めて撮らないと、真の理解は得られない。写真家としてそのジレンマはありますか?

今森

そうですね。動画を撮りたくなります。写真機の機能が充実しましたので、これからは動画でも撮ろうと思います。擬態やカモフラージュは、何かに似せて隠れる行為を超えて、それそのものが本当に美しいです。

永田

その美意識が、昆虫に魅せられた人たちの一番深いところにあるのでしょう。自然の中に自らを溶け込ませる擬態がある一方で、チョウなどは鮮やかな色でわざと目立たせる場合もありますね。これは、敵に対するカモフラージュと、異性に対するアピールなどの場合があると思います。

今森

チョウは、ある約束のもとにできた模様を持っていて、進化の系統も説明できます。表はメスにアピールする模様、裏は敵から隠れる模様と、役割がはっきりしています。だからこそチョウは綺麗ですが、ガの模様にはこうした秩序がありません。オスメスでコミュニケーションを取るのもフェロモンです。枯れ葉に似せた模様で、昼間鳥に見つからないようにするのは分かりますが、なぜこれほど綺麗な模様を持つのか不思議です。ガの翅には、外から絶対に見られない模様もあるんです。着物の裏地と同じような、特定の目的から解放されたおおらかさがあります。

永田

チョウは日中の可視光で見る模様ですね。ところがガの場合は、より低波長の紫外線領域でものを見ますし、超音波でコミュニケーションしています。メスを引き寄せる超音波、捕食者のコウモリに食べられないための超音波もあると聞きました。私たちが想像するよりはるかに豊かな想像力のもとに自然が動いていることを実感します。

3.日本の里山から生まれた精神性

永田

奥本大三郎さんも今森さんと同じく、日本人ほど昆虫が好きな民族はないと、よくおっしゃいます。『ファーブル昆虫記』が一番好きなのは日本人だと。日本人はなぜ虫好きだと思われますか?

今森

日本人が持つ八百万の神の自然観、アニミズムと関係していると思います。そのためか、日本の子どもは、小さい頃から生きものに入魂するセンスがあるように感じます。例えば、雑木林でカブトムシを捕ったら、持ち帰って戦わせて遊びますが、カブトムシに自分の精神を託して「勝て!勝て!」と言うのは、アニミズムだと思うんです。タイで男の子がカブトムシを喧嘩させていた時は、バースを賭けていました。他国で、日本の子どものように等身大に遊ぶことは、おそらく無いんじゃないでしょうか。

永田

ヨーロッパなどは一神教なので、自然の中に神を見ることはまずありません。日本のアニミズムは非常に魅力的な考え方で、全てのものに神がいる。水の神もあれば森の神もある。虫にもある。これはとても面白い説ですが、子どもたちはその影響を受けているんでしょうか。

今森

近代農業ではなく、昔の農の形がアニミズムを生むと考えています。集落があり、社があり、奥の山があり、何か超自然的なものがある。私も経験しましたが、小さな頃から畏れのようなものを教わっている。今と違い、神社の向こうは怖かった。奥の森には行くなと言われていた。そういう時、どんなものが出てくるのかとものすごい想像します。昆虫もこれと共通して、友達であると同時に得体の知れない何かが宿った存在でもある。日本の子どもたちは、そういうものを見ているんじゃないでしょうか。
里山は、人と自然が一緒に暮らす空間です。同様の空間は西洋にもあると言われますが、日本との違いはアニミズムの精神性です。さらに、野仏に出会ったら拝むという行為。田んぼは持ち主がありますが、野仏の周囲数メートルは共有空間で、みながそこで拝みます。この行為は西洋にはありません。

永田

実は私、2020年から2年かけて、旧東海道を京都の三条大橋から東京の日本橋まで、二十数日かけて歩きました。驚いたのは、どこへ行っても必ずお社があることです。こんな小さな村にあるのかと思って見るとも2つも3つもある。神社やお寺が民衆の中に根付いているのが、日本人のアニミズムにつながる土台かもしれませんね。小さい時からお社で遊んで、お社の向こうに行っちゃいけないと言われていると、自然は単に飼いならすものではなく、畏れの対象になるのかもしれません。

今森

日本の自然観は宇宙の中にいる行為だと思うんです。宇宙の中では、私たちは虫やカエルと同じなので、親近感を持って入魂できます。一方で、外から見るのが科学という気がします。科学の視点を持とうと思ったら、宇宙の外に出なければなりません。自然に密着すればするほど客観的に見えないことがあるので、日本の環境の話では、科学的な見方が欠落しがちと思うことがあります。

4.農家のまなざし

永田

今森さんは30年ほど前に滋賀県の大津市仰木町に千坪ほどの土地を買われ、ご自身で里山にされました。そして、里山に対する認識を日本に広められた功績が非常に大きい。さらに7年前には、農家になって田んぼを始められた。写真家の目で世界と日本を見てきて、里山はある種の理想をもとに作られたと思います。今度の田んぼは、どうでしたか?

今森

農家という職業にならないと田んぼが買えなかったので、7年前に農家になりました。田んぼは、農家から半分、自然から半分を学ぶ感じです。これまではカエルに出会ったら、アマガエルか?トノサマガエルか?と見ます。ところがそんな気持ちがなくなって「お前も生きてたか。今年も頑張ろうな。」になるんです。本当の農家の人の気持ちを思い知りました。これまではカエルの名前が大事だったのに、今はカエルが生きていることが大事なんです。そのことがようやくこの歳になって分かってきました。

永田

名前や情報、知識からものを見るのではなく、先ほどおっしゃられた体感やアニミズム的なアフィニティからものに接する感じでしょうか?

今森

そうですね。都市から来た生きもの好きの人が「このおじいちゃんはこれだけ長い間田んぼを耕しているのに、これがトノサマガエルかアマガエルかも分からんのか。」と言ったりします。これは間違いで、農家の方が本質をよく知っています。それを今の子どもたちに伝えたい。里山という場所でリアルなものを見て触れてほしいと思います。現代は、バーチャルの世界になりつつありますが、バーチャルが進めば進むほどリアルが大事になってくると思います。

永田

私の生まれは、今森さんのフィールドに割と近い滋賀県の高島郡饗庭村で、小さい時に見ていたのはやはり、人間が自然とせめぎ合いながら作る里山の姿です。私も若い世代、子どもたちにぜひ体験してほしいと思います。

5. 写真家と農家を行き来する扉の鍵

写真展「今森光彦の時間 −昆虫4億年のの旅−から」

日時:2022年9月17日〜2022年12月4日
場所:JT生命研究館

今森

恐ろしいことに、農家でいると写真が撮れなくなる、撮る気が無くなります。撮影は客観視する行為なので、実は入ってはいけない領域なんです。写真家でいながら農家でいるには、「扉の鍵」を持つことです。里山という宇宙の扉を開けて中に入った後に、すぐに出て鍵を閉める行為が頻繁に必要です。この鍵をしっかりと持たない限り、おそらく私は写真家ではなくなります。よく生きてさえいれば、写真家でも、農家でも、どちらでもなくてもいいんですけどね(笑)。

永田

私たち科学者は、自然を分節化して言葉や数式で理解します。そのように世界を分けるのは、科学者や写真家の宿命です。一方で、自然の中で農業をしている人の視線は分節化ではない。自分の体験や世界観をまるごと受け入れるのでしょうか?

今森

人が生態系の中に入っているということです。そこに里山の農業と近代農業の違いもあります。これからの日本の自然を考えていこうと思ったら、科学者も扉の鍵を持つ必要があるかもしれません。一時的でも、扉を開けて宇宙の中に入って、景色を眺めるまなざしを持ってほしいと思います。

永田

今森さんの写真が7年前からどう変わってきたのか、今後10年20年でどう変わっていくのか、非常に面白いと思います。扉の鍵の開け閉めと行き来は、人の感性に必ず影響を及ぼすので、写真の移り変わりが楽しみです。

今森

そう言われると、ちょっと自信がないですけど(笑)。

永田

今森さんの書かれたものに、時々「昆虫の表情」という言葉が出てきます。昆虫に表情がなくても、私たちはそこに表情を感じる。今森さんは昆虫を撮る時に何を見て、何を考えてシャッターを切るのでしょうか? 何を伝えたいのか、という質問でもあると思います。

今森

すごく難しい質問で、写真によっても違いますが、一言で言うと「多様性と関わり」です。多様な生きもの同士がつながっていることを伝えたい。昆虫の顔の中にも、そういう想いが含まれていると思っていただけたら。

永田

まさにこのJT生命誌研究館が、30年間で培ってきた一つの大きな思想と重なります。人はヒトだけで生きているのではなく、他の多くの生物も含めて、自然のさまざまな関わりの中で生きているということですね。

写真:大西成明

※この記事は、2022年9月17日(土)に開催したJT生命誌研究館シンポジウム「生命誌から生命科学の明日を拓くⅢ『昆虫4億年』」の内容から抜粋し、季刊「生命誌」の記事としてまとめたものです。

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