Music
バリ島・ガムランの秘密
陶酔の生物学
青銅のオーケストラ、と呼ばれるバリ島の伝統的な舞踏音楽ガムラン・・・。
人々を酔わせる魔力の秘密に、生物学のメスが入る。
地上最後の楽園といわれるインドネシア・バリ島には、世界中の人々を魅了する音楽、舞踏、演劇など多彩なパフォーマンスが百花繚乱と咲きほこっています。とりわけガムランの音楽と踊りは、見る人を一気に陶酔の世界へ引き込む魔法のような力をもっています。
"青銅の交響楽"とも呼ばれるガムランは、旋律をかなでる青銅製の鍵盤打楽器類、さまざまな音色を出すゴング(銅鑼)類などが、複雑にしかも整然とシステム化された、地球上稀にみる高度な打楽器アンサンブルです。青銅に金をまぜて鋳造することも多く、秘伝の配合によって絢爛たる響きや重厚でダイナミックな響きがうまれます。20~30人もの奏者がつくりだす神々しい音宇宙のなかで、優美ながらきわめて動物的な、人間の視線をひきつけてやまない蠱惑的な踊りが演じられます。
ガムランの陶酔境に魅せられた人々は、世界中で増えています。私もその一人です。しかし、ガムランにもっとも強く魅了されているのは、バリ島の人々自身でしょう。彼らはロックやディスコの音楽、ブロードウェイのパフォーマンスなどをよく知っています。それでも、何百年もガムランを楽しんできた人々は、現在もあきることなく日ごと夜ごとにガムランの陶酔にひたることを選択しているのです。それはひとえに、ガムランが人間に生理的レベルで快感を発生させる力を他に比類ないほど強くもっているからと考えられます。
すぐれたパフォーマンスはどのようなしくみで人を快感や陶酔の境地へいざなうのでしょうか。脳の中には快感をつかさどるいくつかの神経回路があることが明らかになっています。神経細胞の接点には、脳内で自家生産される特別な作用をもつ神経伝達物質ーエンドルフィン(快感・鎮痛)、ドーパミン(快感・覚醒感)などーがたくわえられていて、伝わってきた電気インパルスの刺激によって放出されます。その伝達物質が次の神経細胞のレセプター(受容体)にはまりこんで、快感を発生させます。この神経伝達物質の分泌をうながすのが、パフォーマンスのなかの音や造形などの"情報"です。
一方、これらの神経回路は、麻薬などの"薬物"によっても作動することが知られています。抗うつ剤などの抗精神病薬も、これらの神経回路にはたらきかけます。こうした体外から投与される薬物は、本来の神経伝達物質と非常に良く似た科学構造をもっているため、まるでニセの合鍵のようにレセプターにはまりこみ、快感の扉をひらいてしまうからです。これは物質による人工的な快感の発生であり、本来の情報入力によるものではありません。
私は、ガムランにはこの本来の神経伝達物質の分泌をうながす快感誘起性の情報要素が、時間的にも空間的にもきわめて濃密にちりばめられていると考えています。音については、とくにその高周波成分が人間の脳を陶酔的世界に引き込む情報要素であることが最近実験的に証明され、注目されています。ガムランには、人間に音としては聴こえない20kHzを上回る高周波が、他の音楽と比べてきわめて豊富に含まれています(図1)。ガムランの音を録音し、高周波を含んだままと、それをカットした状態とで人間に聴かせてその脳波の変化を調べると、高周波がある場合に快感の指標といわれるα波パワーが増大し、ない場合には減少します(図2)。
(図1)
いくつかの特徴的な音楽のパワースペクトル。ピアノ音楽などに比べるとガムラン音楽は高周波をふんだんに含む
(図2)
高周波がない場合(左)と高周波がある場合(右)のα波の出方の比較。赤の色が濃いほどα波のパワーが強いことを示す
(大橋力ほか,1993年)
また、高周波とならぶ快感発生の情報要素である16ビートのリズムは、古くからガムランの基本リズムでした。16ビートはディスコのリズムとしてもおなじみです。しかもガムランではコテカンという一種の入れ子奏法によって、超絶的な速さの16ビートが旋律性をともなってつむぎだされ、めくるめくような陶酔をさそいます。さらに木製のくりぬき太鼓やゴングが発する低周波衝撃音、竹笛(スリン)や弦楽器(ルバブ)などに特有の時間的にミクロなゆらぎ構造も、快感発生の重要な要素になっていることがわかってきました。
視覚的には、原色をはじめとする絢爛たる色彩、金銀・鏡などの反射性素材、動物行動学で高等哺乳類を生理的にひきつけることが知られている威嚇の表情パターンなどがふんだんに使われています。
このように、ガムランには、快感を引き起こす聴覚・視覚要素が凝縮され、しかもそれらをたくみに強調する演出がほどこされて、"魂を天涯に翔ばす"といわれる超絶的なフォーマンスがつくられているのです。
バリ島には米やヤシからつくるおいしい地酒があったり、マジック・マッシュルームと呼ばれる有名な幻覚キノコが自生しているにもかかわらず、人々はそれらを使いません。その理由は、祝祭やパフォーマンスのなかで情報による陶酔の境地を十分に享受してみたされているからではないでしょうか。
(かわい・のりえ/国際科学振興財団専任研究員)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。