展示や季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。
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【勇気をもって表現する】
2018年6月1日
表現セクターではたらくようになってから、専門書以外の本を読む量が増えました。先日、偶然手に入れた大西智子さんの小説『にんげんぎらい』がとても印象的だったのでそれについて書きます。工場のパートとして働きながら一人で子育てをする、私と同年代の女性が主役のお話です。彼女をはじめ登場するのは現代社会ではごく一般的な立場の人々なのですが、誰一人、完璧と呼べる人がいないのです。すぐ感情的になる、現実から目をそらす、お酒に逃げる、仲間はずれが大好き、など。ドラマチックな恋愛もなく、大事件もなく、殺伐とした日常の場面が続きます。けれど、生きるために精一杯はたらいて、悩みながら子供を育て、繰り返す毎日のかすかな変化の中に幸せを見出す人々の強さと弱さの両面を描き切っており、最後のほうは涙が止まりませんでした。日常で感じるささやかな悲しみや喜びの大きさに気づかせる、大西さんの言葉の力がすごい。良いことばかりではないし、単調だし、華やかさもないけれど一度しかない人生を、私も一生けんめい生きようという爽やかな気持ちになれました。
小説家は人を楽しませる文章のプロであり、正しく美しい言葉づかいのプロだと思っていましたが、何が楽しく正しく美しいのかという決まった答えがない中で、自分の身から出た言葉だけで勝負するのはどんなに勇気が要ることでしょう。私たちは科学をベースに「生きているってどういうことだろう」と考える仕事をしており、自分の身ひとつで勝負しているわけではありませんが、やはりその表現に決まった答えはありません。基本に科学がある以上、何でもありというわけにはいきませんが、客観性と正確性にとらわれてしまっては深まらないのでいつも悩みます。小説のように直接人の心を打つものは難しくても、もっと素直に的確に、人間の身から出たものとして科学を表現できないだろうか。勇気をもって試みを続けたいと思います。