展示や季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。
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【祖母のいのち】
2016年9月15日
先日、祖母が亡くなりました。95歳の大往生でした。学校から帰るとおやつと共に出迎え遊んでくれた祖母。もう10年以上離れて暮らし、会えるのは年に数回だったので、故郷に戻ればまたいつものように祖母が待っていてくれるような気がしてなりません。
祖母の葬儀は、地域の習わしに従って行なわれました。20世帯ほどの集落の人たちに自宅に集まっていただき、喪主である父が「伺い」を立てました。葬儀をどんなふうに行なうか、誰がどの役割りを担うのか。喪主はあくまで尋ね、決めていくのは集落の人たち。その古くからある話し合いの持ち方を傍らで聞いていたら、祖母のいのちが個人に属さず、集落のみんなのものであるように思えてきました。生まれ育った土地で結婚をし子どもを育て、田畑を耕し手仕事をして、集落の一部となり生きた祖母の人生が、この地とともにあったことを強く感じました。
哲学者、内山節さんの『いのちの場所』(岩波書店,2015)という本にこんな一節がありました。「『いのち』を成立させる場があって、はじめて『いのち』は存在することができる。そしてこの場をつくりだしているものが関係である。私たちは他者との関係のなかに、自分の生きる場を、『いのち』が存在する場を成立させている。」
人のいのちが他との関係性の総和だとすれば、祖母のいのちはどれほど多くのこととの間に存在していたのでしょう。人との関わりだけでなく、山や川、生きものとの関わりも深かったに違いありません。他の場所に出たことがないのに、この地域が一番いいと疑いなく言い続けていた祖母。子どもの頃は、めんどうくさく嫌だった田舎の風習やしがらみが、いまは少し違うものとして感じられます。しあわせな生き方の一つのお手本を見せてもらったような気がするのです。