展示や季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。
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【生命誌の科学者】
2014年1月6日
2年連続で新年最初の日記の担当です。これは春から縁起がいいのでしょうか。
さて旧年の話にもどりますが、分子生物学関係者には12月の風物詩と言えば分子生物学会の年会です。今年は大阪大学の近藤滋先生が年会長で渾身の学会エンターテインメントを企画され、ジャズやアートと分子生物学の融合と画期的な学会でした。「表現を通して生きものを考える」身としては、どのような表現が繰り広げられるのか、もちろん興味津々だったのですが、実は今回はワークショップの講演者としての参加になりました。研究館では生物学の実験研究者ではありませんので、準備はもっぱら朝活と週末です。大学等で日夜研究に励んでおられる方々に混じっての発表はどう考えても肩身が狭い。発表が近づくにつれだんだん不安になってきました。
そこで改めて私はなぜ研究をしているのか考えました。夏場はパソコンの熱気で電気代が倍になり、みんなが寝ている時間にのそのそ起き出してプログラムのバグと格闘し、週末というのに頭を抱えて関連論文を読みあさり、発表が迫りプレッシャーで胃の痛い思いをして。なにかを発見したとしても世の中の役にたつとも思えないし、お給料も上がらないし、立派な学者さんになれるわけでもない。それでもやりたいのは、生きもののゲノムがどうなっているのか、自分のやり方で知りたくて知りたくてしかたないからだと再確認できたとき、「これってなんだか生命誌だなあ」とうれしくなりました。
中村館長の「科学者が人間であること」(岩波新書)の一節です。
科学の場合「知る」は密画的描写になりますが、それを「わかる」と思う時は自分の略画的世界とかさねあわせているのです。研究者が生活者として略画的世界を持ち、それを重ね合わせながら語る時、聞く人の略画的世界に入り込み「わかる」という感覚を共有できるのではないかと期待します。
こんな研究者が生命誌のめざす科学者なら、学者の先生に突っ込まれない発表をしなくてはとびびるより、胸を張って生命誌の発表をすればいいのではないか、という答えにたどり着きました。今回は「わかる」を共有できるほどにはできなかったけれど、いつかはそんな科学者になりたい、そんな夢を見つけました。