1. トップ
  2. 語り合う
  3. 人間の記憶

進化研究を覗く

顧問の西川伸一を中心に館員が、今進化研究がどのようにおこなわれているかを紹介していきます。進化研究とは何をすることなのか? 歴史的背景も含めお話しします。

バックナンバー

人間の記憶

2017年11月1日

DNAから神経系まで、生物の持つ情報媒体をざっとおさらいしてきたが、今回は高次脳機能としての記憶について焦点を当て、言語との関係で考えてみたい。前回見たように、新しい情報媒体は、それまでの媒体ではできなかったことを実現してきた。とすると、言語は高次の脳機能ではできないことを可能にしたことになる。ただ、言語によって何が可能になったのかについて理解するためには、言語発生直前の脳を知る必要があるが、簡単ではない。結局現在の私たちの基本的な脳機能を理解した上で、何が新たに可能になったのかについて想像をめぐらすしかない。いずれにせよ、エピゲノムがゲノムの延長にあるように、言語は脳の高次機能の延長上に生まれた。個人的には、言語は動物の脳の持つ記憶とコミュニケーション機能の新しい展開として誕生したと思っているので、言語を念頭に置きながら、高次の記憶やコミュニケーション能力について考えてみよう。

記憶については既に何回か折に触れて説明してきたが、私たちが記憶として通常思い浮かべるような複雑な記憶について説明はしてこなかった。この問題が現在も研究途上で説明が難しいためだが、今回はあまり詳細にこだわらず、独断で記憶を論じてみたいと思う。

図1 細胞の短期変化から細胞の安定な分化が細胞レベルで記憶を支える。前回の図3も参照

まず記憶の細胞学的メカニズムを復習しよう。記憶は、神経細胞自身の興奮伝達特性の変化と、その結果起こる神経間の結合性の変化、そしてそれに続く神経ネットワークの変化により支えられている。前回再掲したエリック・カンデルのノーベル賞受賞業績紹介に掲載された図をもとに、記憶の持続時間という点から書き直してみると図1のようになるだろう。

まず神経刺激により誘導される生化学変化により短期間神経細胞やシナプスの刺激反応性が変化する。この刺激が一定期間続くと、次に新しい遺伝子発現が誘導され、シナプスの興奮伝達に関わる分子がさらに長期的に変化し、ポジティブ、ネガティブに伝達性が変わる。さらにこの過程が最終的にエピジェネティックな変化を起こすと、新しい神経間の伝達性の変化を安定的に維持することができる。この中には、シナプスの消失や、形態変化(例えばスパインの変化:http://www.brh.co.jp/communication/shinka/2017/post_000005.html)、さらには細胞の増殖による新しいネットワークの組み替えも含まれている。神経細胞は多様化しており、シナプス形成様式も多様で、個々の神経レベルではこの過程に様々な分子が関わるが、基本的なメカニズムは同じだ。

ただ細胞レベルのメカニズムからだけでは私たちの記憶システムを説明できない。これは、複雑な記憶には脳神経回路によるプロセッシングが必要で細胞レベルのメカニズムが共通だとしても、多数の細胞が参加する回路ができることを抜きにして、高次な記憶は形成できない。この時、外界のイメージから感覚器を介して入ってくる脳へのインプットを、神経回路活動の様々なパターンへと分解し、この中から必要な情報を集めて、知覚したイメージに対応する内部イメージが神経回路内に作り直される(=すなわち外部のイメージが脳内に表象される)。この表象過程では、表象の再構成に必要な断片化された情報を集め直す必要があるが、そのためにそれぞれの情報を神経ネットワークに一時的に維持しておかないと、統合することは難しい。これらを短期の作業記憶と呼ぶが、新しい表象は短期に記憶された情報断片の統合として現れる。こうして生まれた新しい表象の中から、さらに長期に記憶する表象が選ばれ、私たちの記憶が誕生する。

この過程をもう少しわかりやすく説明するため、多くの絵画が展示されている、美術館の常設展示場を訪れたという状況を考えてみよう。私の場合、一枚ずつ足を止めて絵を見、またラベルから絵のタイトルや画家の名前を丹念に拾っているのだが、一度見ただけでは絵の詳細について覚えられない。したがって、絵を見て脳内に形成されたほとんどの表象は時間とともに消えてしまう。しかし、5年後にもう一度同じ展示場を訪れた時、絵が以前と変わりなく展示されていたら、確かに前に見たと思い出す絵は多い。これは、絵の表象を覚えていたというより、部屋の雰囲気などを覚えており、もう一度絵を前にして、初めて見た時の感覚が蘇ってくるのだろう。さらに、前もって美術館の予習をしておけば、絵を覚えられる可能性は高いし、画家について知識があるさらに覚えやすい。もしその画家が自分の好きな画家なら、もう忘れない。最近の研究では、スマフォで写真を撮るだけで、後で見直さなくても絵を覚える確率は高いようだ。要するに、絵を見るだけでなく、様々な情報が合わさると記憶に残るようだ。

しかし、知っている画家の絵だけが記憶に残るわけではない。それまで聞いたこともない画家の絵に強い印象を受けて忘れられなくなる絵も多い。個人的経験だが、アントワープ王立美術館で見たフーケの聖母子像がそうだった。それまでフーケの名前を全く知らなかったが、その時以来40年経っても忘れることはない。(余談だが、他にもJan Gossaertの艶かしい絵をはじめとして、個人的にはフランドルの画家の絵は一度見ただけで忘れられない絵が多かった。)

図2 アントワープ王立美術館所蔵のジャン・フーケの「ムランの聖母子像」、1981年に一度訪れた後は訪れる機会がないが、イメージは鮮明に残っている。
(出典:Wikipedia)

このような美術館での体験の記憶は短期、長期を問わずエピソード記憶と呼ばれる。

フーケの絵(図2)の前に立ったと想像してみよう。私たちは、決して写真機のように絵全体を認識しているわけではない。特に近くから見るときは、ほとんど無意識に(おそらくこれまで培ってきた習性に従って)、例えば顔や、乳房(私の場合だが)などの部分部分に視線を走らせ、イメージを取り込んでいく。このとき、網膜の特定の場所で補足されたイメージは色と形に別々に処理される。また無意識に視線を動かしていても、常にこの動きは視覚とは別にモニターされ、立体感を得る時の情報として使われる。要するに、一つのイメージはバラバラの要素として脳にインプットされるため、それぞれを一定時間保持しないと、全体を再構成しなおすことはできない。この各要素を短期の記憶として維持し、統合する過程に必要なのが「作業記憶」で、図3に示すように海馬と視覚野に関わる脳の4−5領域がネットワークを形成してこれに当たっている。この中で海馬が最も重要な役割を演じており、海馬が障害されると、新しい記憶を成立させることができなくなる。


図3: 視覚の表象形成と作業記憶。
網膜に結像したイメージは後頭葉の視覚野に投射されるが、同時に動眼筋肉など様々な視覚に関わる情報が脳内の様々な領域で処理される。こうして集まった情報は、海馬を中心に一時的に記憶される(作業記憶)。もし情報が足りない場合、ネットワークからの刺激により、足りない情報が集められることもあり、表象を完成させるためには、海馬を中心として様々な領域が活動する。こうしてできた表象は、さらに多くの脳領域と連合される。

このように視覚から表象が形成される過程に限ってもこれだけ複雑で、美術館ではそれぞれの絵を見ながらこの過程を繰り返すことになる。もちろん、絵を見ている時、聴覚を始め様々な感覚も並行して脳に入ってくる。それ以外にも、絵を見ながら様々なことを考えることもある。この場合、絵の表象を短期的に形成する過程が、他の脳領域の活動の影響を受けることになる。音が気になりすぎたり、絵とは関係ないことを考えたりしてしまうと、絵の表象の形成は抑制され、絵を見たことさえ気がつかないことすらある。しかし、同時に聞こえる音や匂いで、絵の印象が余計に強くなることもある。ふっと浮かんだ考えが、絵のイメージを強くすることもある。

神経興奮の基本メカニズムはあらゆる細胞で共通だ。絵を見ることも、作業記憶も、表象の形成も、そして連合も全て、この共通の神経興奮メカニズムを基盤にしている。そのおかげで、一つの神経活動は、他のあらゆる活動と相互作用することができる。その結果が記憶に影響して何の不思議もない。これが、記憶の連合と呼ばれる現象だ。

知っている画家の絵の方が覚えやすいのは、内部イメージとして存在する画家の知識が、今見ている絵の表象と脳内で連合されるからだ。画家を知っているという知識がどのように脳内で保持されているのか詳細はわからないが、今出来たばかりの絵の表象とは違い、年月を経た安定した長期記憶だ。新しい表象も安定した表象と連合することで、安定な記憶へと変換できる。

面白いのは、例えばスマフォで写真を撮るだけで絵が覚えやすくなるのは、スマフォで写真を撮影したという単純な記憶が、絵を見たという複雑な記憶と連合することで起こると推測される。2度目に展示室を訪れて、絵を思い出すのも、部屋の雰囲気といったより単純な記憶が絵と連合しているからではないだろうか。すなわち、単純な表象と連合させることで、複雑な表象が覚えやすくなる。この記憶の特徴は言語の発生を考える時に鍵になる。

一方、私が初めてフーケの絵を見ただけで記憶できたのは、情動が新しい表象の連合を後押ししてくれたおかげだ。すでに述べたが(http://www.brh.co.jp/communication/shinka/2017/post_000010.html)、情動は私たちの行動のエネルギー(力動)として、脳活動全体を支配する。情動を引き起こすためには、これまでの私の好みなどについての記憶が必要だが、強い情動が生じると、情動自体と、あるいは他の表象との連合の程度が高まり、2度と忘れることのない絵の記憶が私の脳の中に成立する。恐怖体験や大きな喜びの体験はよく覚えているのも同じことだ。

以前、刻々と知覚される膨大な情報が、神経ネットワーク上に形成された自己というフィルターで選択され記憶されることで、新しい自己が脳内にできることについて述べたが(http://www.brh.co.jp/communication/shinka/2017/post_000007.html)、こうして考えると、美術館での体験による表象の形成、連合、そして記憶と続く過程は、この新しい自己を脳神経ネットワークに書き換えることと同じであることがわかる。異論もあると思うが、私は長期記憶とは脳神経ネットワーク上の自己が新しく書き換えられたことだと思っている。

美術館での絵の鑑賞を例に記憶の成立に至る脳過程を見てきたが、短期の作業記憶から表象が形成され、最後に長期記憶として自己の脳神経ネットワークに統合される過程が、鑑賞している一枚一枚の絵で繰り返されるとすると、ほんの一部を除いてほとんどの絵の詳細は美術館を出た時には忘れているのも当然だ。実際、私たちが持つ作業記憶のキャパシティーは少ないと考えられている。アルツハイマー病で最も問題になるのがこのキャパシティーの少ない作業記憶だ。

しかし、この作業記憶が長期記憶に移行するときは、すべての作業記憶が記憶されるのではなく、より単純化された情報量を持つ表象が記憶されるのだと思う。情報量は低くとも、一つの表象が単独で記憶されるのではなく、それまで蓄積した全表象とつながるネットワークの一部として記憶されることで十分記憶として成立する。この一つの表象が自己の脳神経ネットワークに統合され全体と関わることも、言語の発生を考える上で重要なポイントになっている(最後に議論)。

では、40年後の今、私がフーケの絵を思い出す時、脳内で何が起こっているだろう?目を閉じて絵を思い浮かべてもらいながら脳のどこが活動するかを調べると、なんと網膜から直接投射を受けている後頭葉にある一次視覚野が興奮することがわかっている。この結果は、脳内に記憶している内的イメージを思い浮かべる時、私たちは記憶から要素を選び出し、これを一次視覚野で集めなおして、あたかも新しい網膜刺激を受けたように思い出していることを意味する。とは言っても、今見てもらったばかりのフーケの絵を目を閉じて思い出す時、決して写真と同じように思い出していないはずだ。実際、赤い天使の中に浮き上がった真っ白い聖母が、左の乳房をキリストに与えようとしているといった大まかな像が浮かんでくる。しかし、夢を見るように鮮明なイメージがそのまま浮かぶことはないと思う(少なくとも私は)。写真を見直すと、鮮明なイメージを覚えているように思ってしまうが、実際には記憶されている内部イメージは簡略化されている。

記憶の成立から、呼び起こしまで詳細を省いて概略を述べてきた。この過程からわかるように、鮮明な記憶を維持することは膨大な神経活動が関わる大仕事で、毎日の一瞬一瞬を覚えることなど不可能に近い。代わりに、生まれてから神経ネットワーク状に形成してきた自己をフィルターとして、作業記憶から現れる表象の一部を随分簡略化して自己のネットワークに統合することで、長期記憶を成立させている。これが簡略化されていることは、成立した内部イメージを呼び起こそうとするとわかる。脳内からそれぞれの情報が一次感覚野に集められ、感覚として再現される。ただ、視覚のように複雑なイメージの場合、鮮明に思い出すことは難しいことから、決して写真のような鮮明なイメージ全体を記憶しているわけでないことがわかる。

このように記憶を理解すると、記憶にとっての言語の意味、すなわち言語にしかできないことが見えてくるので、最後にそれをまとめておく(検証された概念ではなく、私の個人的な妄想と理解してほしい)

まず、強い感情、絵が展示されている部屋のイメージ、あるいはスマフォで写真を撮ったという単純な行為と連合させるだけで、複雑な絵が覚えやすい例からわかるように、複雑な表象も感情や他の単純な表象と連合することで、覚えやすくなる。とすると、音の短い並びからできた情報量の少ない単語は、連合させることで複雑なイメージの記憶を助ける力がある。確かに、私たちの記憶はかなり言語に助けられている。言語を持たない動物の長期記憶のレパートリーは、私たちよりはるかに感情との連合に頼っているのではないだろうか。

言語(単語)は情報量としては単純なおかげで、記憶するために連合させる相手としては優れているため、最初は各表象が自己の神経回路に統合される助けとして脳内神経回路の一部として取り込まれる。重要なことは、脳内回路に取り込まれるということは、単語が一つのイメージに対応した表象として独立に存在するのではなく、自己の脳神経ネットワークに組み込まれた他の多くの表象と関わって存在していることを意味する。とすると、当然言語は「リンゴ」がリンゴにだけ対応するのではなく、リンゴではないミカンや、ブドウとも関わって、記憶を助ける働きを発揮する。この一つの単語が最初から、多くの他の単語と関わるという構造が、言語の最も重要な特徴になる。

最後に、内部イメージを呼び起こそうとしても、鮮明なイメージを呼び起こすのは難しいことを考えて欲しい。不明瞭なイメージでも、同じイメージに再び出会った時に、「あいつだ」と思い出すためには十分役にたつ。しかし、頭の中でプランを練るといった場合にイメージをこれ以上鮮明にするのは難しい。しかし一度フーケの絵を思い起こす時、「赤い天使」、「白い肌のマリア」、「腕の中のキリスト」、「キリストに飲ませる左の乳房」、と言葉を同時に呼び起こしてみると、イメージは格段と鮮明になる。これが、すなわち記憶の質を大きく高めてくれる。

最後に、今回議論した記憶は、陳述記憶や意味記憶と呼ばれる、脳神経ネットワークの連合を広げる方向での記憶だが、逆に回路を限定することで形成される記憶も存在する。例えば、一度自転車に乗れるようになると、もう乗り方を忘れないような、いわゆる熟練と言われる記憶で、手続き記憶と呼ばれている。個人的考えだが、言語には、この手続き記憶も重要な働きをしていると思っている。すなわち、単語と対応する最も重要な表象を最短で繋いで、意味記憶システムの関与を整理している。記憶という観点から見ると、言語は意味記憶と手続き記憶が統合された脳活動ではないかと思っている。

しかし、これらはすべて記憶に対する言語の意味で、記憶システムが言語のような情報量の少ない連合の相手が必要としたとはいえ、この要求だけから言語が生まれることはないと思う。そこで、次回はコミュニケーションについて考えてみる。

[ 西川 伸一 ]

進化研究を覗く最新号へ