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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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人間は生きものでなくなる・・・かも

2019年1月15日

「人間は生きもの」というのはあたりまえのことですが、でもそれはそれぞれの人が生きものとしての感覚を持っていてこそのあたりまえです。先回は言葉を通して生きものの感覚を考えましたが、それについてちょっと考えさせられたもう一つの体験を書きます。昨年の夏のことです。いつものように東京駅で新幹線に乗り、今日は「季刊生命誌」のゲラチェックをしようと考えていたところへ、お母さんに連れられた三人のお子さんが元気よく乗ってきました。夏休みのお出かけでしょう。どこへ行くのかしら、楽しそうだなあと眺めながら、心の中では、三人もいたらさぞかし賑やかだろうな、仕事はしにくいかなあとちょっと心配もしていました。

並んで坐った小学校中学年、低学年、幼稚園の年少さんかなと思わせる三人は、発車と同時にそれぞれのリュックからタブレットを取り出し、耳にイヤホンをつけて画面を操作し始めました。そして京都に着くまで、静かに静かに画面を見続けていたのです。その日は珍しく富士山がきれいに見えたのですが、それを見ることもせず・・・お母さんはスマホに見入っています。

とても静かでありがたかったのですが、別の心配が浮んできました。自分の体が動いており、窓の外の景色がどんどん変わっているという現実の世界にはまったく関心を示さずに、画面に入り込んでいる子どもたち。もしかしたら今子育て中の若い夫婦に人気の高層マンションに暮らし、生れた時から人工の世界で過してきたのかもしれない・・・勝手な想像ですけれど、今都会ではそのような子どもたちがふえています。

私の世代は、日本中どこで暮らそうと子どもは原っぱでかけ廻って遊んでいました。大人になってからは、マンション暮らしで職場もビルの中、毎日コンピュータの画面を見つめて暮らす人が多いことになりましたが、体の中に子どもの頃の体験が残り、どこかに生きものとしての感覚があります。そこで、判断の基準は無意識のうちにいつも生きるというところに置くことになります。けれども、生れた時から人工環境の中でコンピュータと共に暮らしていたら、生きもの感覚を持てるでしょうか。それが今の大きな問いです。そのような時代は始まったばかりですから、答はすぐには出てきません。少なくとも10年か20年先にならなければ。

でも「生きものとしての人間」ではなくなりそうな気がするのです。38億年という生きものの歴史の中にあるのだという認識がない存在。もちろんそれがよいとか悪いとか言えるものではありませんが、「続いていく」ことが巧みなシステムからははずれるでしょう。意味を理解しないAIに従い、生きものというシステムを離れる道を選ぶかどうかという、人間の歴史の中で初めての選択の時にいることは確かだと思います。個人的にはちょっと立ち止まって考えてみるのがよいと思っています。新しい技術を否定するつもりはありませんが、立ち位置をきめずに進んでいく先に生きやすさは見えて来ません。生きものは面倒で、決して上出来とは言えないけれど、そこがよいと私は思っています。そこに何とも言えぬ楽しみがあると感じています。けれど、社会の大きな流れはそうではない方に向っています。体が生きものであることは続くでしょうが、意識としては生きものでなくなるのかも・・・そんな問いが消えません。

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