館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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人間が人間でなくなる・・・大げさかな・・・でも
2019年1月7日
新しい年になりました。お祭やイベントが苦手なので、東京でのオリンピック、それに続く大阪万博で騒がしくなるのは嬉しくないのですが、そんな中でも、変わらない日々が送れることを幸せと感じて暮らしていこうと思っています。今年もよろしくお願いいたします。
昨年末、今年は「こころ」を含めて人間を考える年にすると書きましたがそう考えた理由を簡単に書いておきたいと思います。
少し大げさに聞えるかもしれませんが、今私たちは大きな岐路に立っていると思うのです。近代科学に基礎を置く、いわゆる近代文明がもつ世界観をこのまま持ち続けていくのか、それとも別の世界観をもつようにするのかという別れ道です。近代文明の見直しの必要性はこれまでも言い続けられてきたことであり、別に新しい視点ではありません。けれどもここ数年の情報技術と生命操作技術の進展を見ると、見直しましょうとだけ言っている時ではないと思えるのです。技術の進歩だけを信じて、人間とはなにか、どう生きるのが幸せかという本質を考えずにいると、「人間は生きものであり、自然の一部である」ではなく、「人間は機械の一つである」というところに行くような気がします。大げさな言いようかもしれませんが気になる身近な例を二つあげます。
AIは今やアナウンサー並みに話せるようになっており生活の中にどんどん入ってくるとされています。ディープラーニングでとてつもなく大量のデータを与えればそれができるわけですが、どんなにスラスラ話しても、言葉の意味はまったくわかっていないと聞くと気になります。言葉はそれを発する人の思いや考え方を知るものであり、そこからお互いの関わりが生れ、社会が成り立っていくものです。同じ言葉でも、時と場合、それを言った人によって意味が違ってきます。それを含めて受け止めることでそこから何かが生れていくわけです。まわり中に思いも考え方もない言葉が溢れたら、どうしたらよいのでしょう。人間を人間にしている一つに「言葉をもつ」ということがあるわけですから。恐らくこれからはビッグデータを処理して答を出すAIの言葉に多くの人が判断をまかせることになるのでしょう。私が思っている人間らしさは消えていきそうです。これは単なる懐古ではないと思い、人間らしさを捨てない道を歩きたいと思っています(それはAIを含む情報技術を否定することではなく、まず人間ありから始めるということです)。
身近な例を二つあげますと書きましたが、少し長くなりましたのでもう一つは次回にまわします。