館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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【10歳に注目】
2006.5.1
テーマは、最近話題の小学校で英語を教えること。ここで興味深いのは、赤祖父博士が私たちのほとんどが反応して議論している“小学校で”というところではなく“教える”というところにひっかかっているということです。 肩書きでわかるように、英語が日常語の環境で生活していらっしゃる赤祖父博士の体験として以下のように書かれています。『私には面白い経験がある。私の研究所には小さなお子さんをもった日本の研究者がおいでになるし、こちらで生れたお子さんを連れて日本へ帰る方もある。そんな子供さん達を観察していて、1つ面白いことが分った。大体10才で移動する子供は日本語も英語も十分こなすことができるということである。そして10才より数才前後するともう不可能である。友人の言語学者にその話をしたら「お前の観察は正しい」と言われて驚いた。勿論例外はある。しかし、要は、語学は特に意識して勉強することではないようなのである。』(ファイナンス2006.4) 「語学は勉強するものではない」。そして、10才の頃に日常の中で使われている言語として英語が入れば、日本人としての日本語に問題が起きることはないということです。この時期に自然に入れば、二つの言葉を二つの言葉として、しかも自分の日常語として用いることができるというわけです。博士はこうも書かれています。『ヨーロッパでは少なくとも3ヶ国語を十分話せる人が多いが、フランス、スイス、ドイツ、イタリア、スウェーデン、どこの国も滅びてはいない。インド、アフリカ諸国など、家庭の言葉、家庭の外の言葉、学校など公的な場の言葉と、幾つもの違う言葉を使い分けるのが当たり前の国も多い。』つまり、自然に身につけるのであれば、他の国の言葉が入ってきたからと言って母国語に、従ってその国の人らしく考えることに悪い影響を与えることはないとおっしゃっている。その通りでしょう。ただ、“自然に身につける”という環境にない私たち日本人はどうしたらよいのだろう。何かよい方法はないだろうかという問いが残ります。よい知恵はないものでしょうか。 ところで私は、この赤祖父博士のおっしゃっていることの中で“10才”にひっかかりました。“えっ、やっぱり10才?”と思いました。実は最近10才が気になっています。きっかけは、金沢にある「21世紀美術館」の蓑館長との会話でした。美術館に積極的に小学生を招いている蓑館長が、“中村さん、大事なのは10才、4年生だよ”とおっしゃったのです。それ以前の子どもたちは美術館も遊び場で走り回ります。“6年生になると色気が出て”と闊達な蓑さんはおっしゃいましたが、教育学、心理学の先生に伺うとその頃になると常識的になるのだそうです。社会ではこうなっているということがわかってきて、それに合わせてしまうので面白味に欠けるとのことです。 10才になると、周囲との関係がわかり、自分が見えてくる。私って何だろうという問いも生れてくる。なるほど。自分のアイデンティティの確立と共に、二つ以上の言葉がきちんと身につくわけかと、理解しました。 言葉は勉強するものではなく、身につくものだということ、10才に注目しようということ。実体験からのお話ですから説得力があります。なんとかこれを生かしたシステムを工夫しないと、またまたとても大きな無駄をすることになりそうな気がします。 【中村桂子】 ※「ちょっと一言」へのご希望や意見等は、こちらまでお寄せ下さい。 |