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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【サイエンス・コミュニケーション】

2006.3.1 

中村桂子館長
 最近急にこの言葉がはやってきました。その理由ははっきりしています。世の中で「アカウンタビリティ」が要求されるようになったからです。ここまで書いてきて、サイエンス・コミュニケーション、アカウンタビリティと共にカナであり名詞であることが気になっています。数年前から、できるだけ日本語(やまとことばならなおよい)で、そして動詞で考えることにしています。名詞は“何をやるか”を具体的に示さず、叫ぶだけになりがちだからです。例えば「構造改革」。多くの人は、いったい何を行ない、どういう社会にするのかという具体性を理解せずにいるのではないでしょうか。生命誌は“生きているとはどういうことかについて考え、生きものを大切にし、一人一人が自分らしく生き生き暮らせる社会”を求めていますので、「構造改革」がつくりつつある社会がそれとはまったく違うことが気になっています。金融経済の中で、お金を手にした人を勝ち組と称し、そうでない人に負け組という、なんとも失礼なレッテルを貼ってしまう最近の風潮は、一人一人が「生きる」ことを大事にしていません。その結果、社会が明るさを失ない、下品になっています。何をどのように変え、どのような結果を出すのか。そのために一人一人が何をするのか。動詞で考えると具体的になります。それに対して、名詞は思考停止につながります。立派な言葉を唱えていると立派だと思ってしまうのです。
 横道にそれました。サイエンス・コミュニケーションとアカウンタビリティでした。これも名詞ですが、もう一つの問題は、カナであること、つまりどこか外から持ってきたということです。アカウンタビリティは説明責任と言う意味です。大学や研究所の研究者の場合、資金の多くが税金でまかなわれていることから、納税者に対して自分は何をやっているかを説明する責任があるということで急に浮上してきた言葉であり、そのためにサイエンス・コミュニケーションも必要となったわけです。自分の仕事に対して責任を持つのは当然です。誰に対しても自分の仕事の説明ができなければいけないこともその通りです。ただ私はaccountabilityのaccountにひっかかるのです。これはcount、計算するから来ており、数量的な意味があります。お金をいくら使ったからこれだけの仕事をしなければいけない。そこでこれから「50年間に30人のノーベル賞受賞者を出す」というようなわけのわからない数が出てきます。私は、responsibleでありたいとは思います。responseは、反応すること、社会に対して、他の人々に対してきちんと対応する責任があり、それについて語ることも大切だと思っています。アカウンタビリティとなると、できるだけたくさんの予算が欲しいからそれに見合った説明はしなければいけませんという感じで好きになれません。
 生命誌研究館では、「研究の表現についての研究」を行ない、これまでもさまざまな形での表現を試みてきました。これこそ、“サイエンス・コミュニケーション”だと思っています。でもこれは「説明責任」として行なっているのではありません。ここまでやらなければ研究をしたことにはならないと思ったのです。外から求められたのではなく、内から生れたことなのです。「アカウンタビリティとしてのサイエンス・コミュニケーション」。なんとも空虚な感じがしませんか。もっと空しいのは、「アカウンタビリティとしてのサイエンス・コミュニケーション」活動に、これまでになく大きな予算がついたからやろうという動きです。なんでもお金、お金。お金は必要ですが、最近のお金の動き方は少々荒っぽいのか気になります。実はこの問題について昨年「季刊生命誌」で対話をして下さった写真家の港千尋さんがみごとな“表現”をして下さいました。長くなりましたので、次回に紹介します。

 
 
 【中村桂子】


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