館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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【岡本太郎と語る】
2005.8.12
先日、岡本太郎記念館で話をしました。岡本太郎の長年の秘書であり養女であり、太郎の考えていたことを本人以上にわかっていたのではないかと思われる岡本敏子さんに誘われてのことです。“あなたが今やっていることは、太郎が考えていたことそのものよ。生きていたらいろいろな考えを言ったと思う。”と。催しの名前は「岡本太郎と語る」。お会いしたこともなく、“同じなのよ”と言われても困ると思いながらも少しでも理解しようと、書かれたものを読んだり、作品を見たりしてびっくりしました。縄文土器の価値の発見者であることは知っていましたが、その写真撮影のすばらしさ。土器にいのちが与えられています。これぞ発見だと思いました。その他いろいろ。 ところで、話は「いのち」です。実は、当日、敏子さんはいませんでした。急死なさったのです。本当に思いがけず。媒介者なしで太郎を語れるだろうか。でも今では、敏子さんの言葉の意味が分かるような気持でもあったので、語ってきました。話の始まりは1970年です。その年に開かれた大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。でも目玉は「月の石」。その次の年には国連環境会議が開かれたわけですから調和は大事だったはずですが、皆の眼は進歩を向いていました。どこかうさん臭い。博覧会っていつもそういうものですけれど。「進歩なんていんちき。縄文時代の人間のほうがずっと素晴らしかった。調和も嘘っぽい」と言いながら博覧会のシンボルを引き受けたのが岡本太郎。建てたのが太陽の塔です。ここで取り上げたいのはその内部。あまり知られていませんし、今はもう残っていないのですが、DNAやタンパク質が浮ぶ原始の海から立ち上る生命の樹を作ったのです。1970年という時点で、今眼を向けるべきは「生命」だと視点は定まっていたことがわかります。しかも科学もとり入れて。私の恩師である江上不二夫先生が「生命科学」を始められたのもこの年であることはもう何度も書きました。あの時二人が見ていたものを皆が一緒に見ることができていたら、世界はもう少し違ったものになっていただろうにとつくづく思います。しかも同じ時、岡本太郎は原爆をテーマにした大壁画をメキシコでつくっていたのです。それが最近日本に戻り、今修復中です。「明日の神話」。これも、生命を基本にした新しい神話が生れる時だというメッセージです。 確かにどれもそのまま生命誌とつながります。1970年という年からの35年間。私たちは何を考え、何をやってきたのだろうと思うと切なくなります。敏子さんの言葉の意味をよく噛みしめて、今からでも遅くない、先人の遺してくれたものを受け継ぐことの大切さを改めて思いました。 【中村桂子】 ※「ちょっと一言」へのご希望や意見等は、こちらまでお寄せ下さい。 |