Computer×Biology
コンピュータでつくる生物モデル
現在の生物学では,要素還元を基本として研究が行なわれている。その中心となっているのが,ワトソンとクリックによるDNA構造の解明以来,急速に発展した分子生物学である。そこでは,いくつかのモデル動物に着目した研究が行なわれている。その典型的な例の一つが,線虫(C. elegans)である。この生物では,卵から始まって体をつくる全細胞(約1000個)がどのようにしてできるのかがわかっている。さらには,1~2年のうちに,全塩基配列が決定されるはずである。酵母,大腸菌,マイコプラズマ等のモデル生物においても,全塩基配列がすでに決定されており,ヒトの全塩基配列も十数年以内には,終了するであろう。しかし,このような研究がどんどん進んだとしても,誰も,生命を理解したとは思わないだろう。そこで,現在の研究現場では,注目する現象に関わるいくつかの遺伝子とその産物の特定,それらがお互いにどう関わりあうかを解明することに重点が置かれるようになっている。
しかし,このような遺伝子間の相互作用を理解しようとなると,かなり複雑で,人間の直感だけで理解するのは難しい。実験の現場では,未知の相互作用を見つけるのに,どのような実験をデザインすればよいかを直感に頼っていることが多い。私は,この現状をコンピュータという道具を使って,乗り越えられるのではないかと考えている。もちろん,コンピュータを使うだけでなく,「システムを理解する」という方法を持ち込んで,戦略的に攻めていこうと思っているのだ。
生命の理解をシステムの理解と考える。システムの理解には,次の手順がある。
- その構成要素を特定し,各要素の性質を調べる。
- その要素間の関連,相互作用を調べる。
- その相互作用の特性を定量的に測定し,動作原理/デザイン原理を見出す。
- これらの確認のために,そのシステムを再構成する。
一例として,CDラジカセというシステムを考えよう。まず,外から見てその機能を理解し,次に,中を開けて観察する。いろいろなICや抵抗等の部品がつまっているはずだ。それらを取り出して分析し,リストを作る。全部品のリストができ,特性がわかったとすると,CDラジカセを理解したといえるだろうか。もちろん,NOだ。次に,部品のつながりを調べる。電源,入力,出力などを調べ膨大な配線を決定したとしよう。
Perfect C.elegans Projectの 初期のモデル(a~g)
線虫の発生過程を,コンピュータ・グラフィックス化。基本データは,Sulstonの論文にある細胞系譜と若干の見取り図。動画で再生すると細胞の動きもはっきり見られる。また,細胞間の圧力を計算しているので,顕微鏡写真の集積を超えるシミュレーション能力をもったシステムになるだろう。現在,50細胞期までの遺伝子のカスケードのシミュレーションを実装中。これで,変異体のシミュレーションが可能になるはずだ。
しかし,まだ,このシステムを理解したとは思えないだろう。次に,動作や相互作用を調べたい。動作させて,回路の電圧変化などを測定する。ここまでくると,だいぶわかってきたような気がする。さらに,部品を取り除いた後の影響を調べる。今の分子生物学は,このような作業を通じて,生命に迫っている。
ここまできても,人から「つくれるの?」と聞かれたら困るだろう。この質問に答えるには,システムのモデルが頭の中にある必要がある。CDラジカセの場合,デジタル回路と,アナログ回路のソフトウェア・シュミレーターを使用すれば,ソフトウェア的に,電子回路をつくり上げ,実際に動作させ得る。もちろん,ノイズなどの細かい物理現象は,再現できないが,ある理想化された回路の動作ならできる。ここまでくると,かなり「わかった」と言えよう。
しかし,詳細なモデルができても,それが既知のこと以上の情報を提示しないなら意味がない。複雑なシステムでは,モデルは理論の実装(実際にプログラムをつくり,動かしてみること)であり,良い理論とは強力な予測能力をもつ理論である。生物のような複雑な系に対して良い理論をつくるのは難しいが,コンピュータを含めたあらゆる手法を総動員してそれを行なう必要がある。
我々が目指しているのは,強力な理論予測を可能とするような方法論と手法の確立であり,そのためには,徹底したモデリングと共に,実験生物学者との共同研究もきわめて重視している。今,方法論確立のために,代表的モデル系を選択し,とくに,細胞老化と発生過程について徹底的なシミュレーションを行なっている。
Virtual Drosophila Project
ショウジョウバエの初期発生のある段階で,even-skipped遺伝子はkrüppelとbicoid遺伝子によってどこで発現するのかが調節されているのだろうと考えられていた。しかしeven-skipped遺伝子は,krüppelとbicoid遺伝子産物の濃度を考慮に入れるだけでは,実際の実験データとシミュレーションの結果がくい違ってしまうことがわかった。
①シミュレーションのコンピュータ画面。
②krüppel遺伝子がはたらかなくなった変異体では,even-skipped遺伝子の発現している領域(stripe2)の幅が広くなる。
③シミュレーションでは,幅が広くなるのではなく,野生型に比べて後方にずれた発現パターンを示す。
細胞老化については,慶応義塾大学医学部の今井眞一郎氏と共同で研究を行なっており,シミュレーションで示唆された領域に実験を集中している。その結果,細胞の老化過程にOct-1という制御タンパク質が介在するらしいことが示されるなど,興味深い結果が報告されつつある(今井氏は,この発見で昨年,米国細胞生物学会よりThe Glenn Foundation Awardを受賞した)。
また,ショウジョウバエの初期発生は,非常に詳しく調べられている現象である。しかし,現段階でわかっていることのみに基づいてシミュレーションを行なうと,ある遺伝子の発現パターンが完全には再現されない可能性が示唆されている。つまり,実験データからつくられたモデルと実際に起きていることが違っていることがシミュレーションを行なうことでわかったのだ。すると,その原因を探ることで,より精密なモデルができる。現在,遺伝子の発現調節のメカニズムなどを考慮に入れ,どのようなモデルなら,変異体が再現できるか検討中である。このような検討の結果,新たな実験が必要となるならば,実際の生物実験を行なって仮説を検証する作業に入る予定である。
現在はシミュレーションの技法も非常に簡単なものであり,手探りで何ができそうかを考えながら実験している段階である。生物のモデリングは,まだ技術的にも科学的アプローチとしても未熟な点が多く,決定的成果を出すには相当な時間が必要だろう。しかし,複雑なシステムの理解のためには,必須技術であり,生物学のあり方に大きな影響を与えるに違いないと信じている。
(きたの・ひろあき/ソニーコンピュータサイエンス研究所シニア・リサーチャー)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。