Special Story
生命をささえる運び屋分子
私たちの細胞は、直径がせいぜい0.01mm程度。こんなに小さな世界だと、水の浮力や粘性が効いてきて、物質にはたらく力の具合が私たちが日常見る世界とはまったく違う。簡単にいえば、ナノの大きさのたんぱく質分子モーター1つで、その何十~何百倍もの大きさの生体部品を運ぶことができる。
筋肉は、アクチンとミオシンという2つの筋肉繊維が滑り込むことによって縮み、力を出す。ミオシン分子も分子モーターの一種で、これがアクチン分子を引っ張ることによって、筋肉は縮む。1つのミオシン分子が出す力は、私たちの測定で、およそ数ピコ・ニュートン(100億分の数グラム・重)であることがわかっている。
ミオシン分子の動き
1つのミオシン分子に、ATPがついて離れる様子を測定した結果。大腸菌や細胞性粘菌を使って、遺伝子工学的に蛍光色素を1つのミオシン分子につけることができる。このミオシン分子をガラス面に付着させ、別の色素をつけたATPを含む溶液にひたすと、ATPが、1つのミオシン分子にどの程度の時間をかけてついて離れるかが測定できる(NATURE, Vol.374, 1995, 柳田敏雄らによる)。
ミオシン分子は、ATPの化学エネルギーを消費してアクチン繊維を引っ張る。1分子のATP消費でアクチンの上をミオシンがどれだけ動くかで、私たちとアメリカのスタンフォード大学のグループとの間で、激論が続いている。私たちの測定では、1分子のATP消費でミオシン分子は100ナノメーター以上は動くと出ている。アクチン分子は10ナノメーターくらいの大きさなので、1回のエネルギー補給でミオシン分子の先端は10歩は動くことになる。これに対して、スタンフォード大のグループは、1回のエネルギー補給で1歩以下という結果を出している。
ミオシンがアクチンの上を動くメカニズムは、長い間「首振り説」で説明されてきた。ミオシンの頭の部分についてATPが加水分解してエネルギーが発生すると、尾の部分がそりかえり、頭部先端がアクチン分子1つ分だけ動くというモデルである。スタンフォード大グループの測定結果は、このモデルによく合っている。
しかし、私たちの測定データが正しければ、筋肉が縮む分子レベルのメカニズムは、根底から見直しが迫られる。なぜなら、ミオシン分子が1つの仕事をするのにかかるエネルギーが、外部の水分子などによる雑音エネルギーとあまり変わりがなくなってしまうからだ。機械の場合、雑音(ノイズ)が大きければ大きいほど、誤作動の原因となる。コンピュータの世界では、雑音はせいぜい数百万分の一。ICの集積度が上がれば上がるほど、雑音をどのようにして下げるかが大きな問題となる。スーパーコンピュータを液体ヘリウムで冷却しているのも、この雑音解消のためなのだ。
私は、分子機械と呼ばれる生体部品は、機械とは違って高い雑音の中でも柔軟に動く仕組みをもっているのではないかと思っている。私たちがナノの世界の力や運動の測定にこだわるのは、生体部品は単なる機械ではないことを示したいからなのである。脳もまた、基本的にはたんぱく質でできた生体素子の集まりである。ミオシン分子モーターが単なる機械でないことがわかれば、脳とコンピュータの作動原理の違いに一歩迫れると信じている。
私たちが正しいか、スタンフォード大のグループが正しいかは、測定精度を上げることによってしか解決しない。従来は、ミオシンの1分子の動きを計っているといっても、数百~数千の単位での測定から計算で導いたものだった。私たちは新しい装置の開発により、1分子のミオシンで1つのATPが消費される過程を観測・測定することに成功した。また、1分子のミオシン分子の動きを観測・測定する装置も開発し、こちらも1分子の動きを撮影することに成功した。この2つの装置を同期させれば、1つのATPが消費されるときに、ミオシン1分子がどれだけ動くかを正確に知ることができる。すでに、この装置は動き始めている。近く、たんぱく分子は単なる分子機械ではないことを証明できると、私は確信している。
筋肉繊維の運動モデル
a:ミオシン分子滑走モデル
ミオシン分子は、1分子のATP分解中にアクチン分子の上を100ナノメーター以上滑っていく(柳田教授らの説)。
b:首振り仮説
ミオシン分子は、1回のATP分解中に1回の首振り運動をして10ナノメーターほど動く(定説をもとにしたスタンフォード大グループ説)。
(やなぎだ・としお/大阪大学生物工学科教授)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。