展示や季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。
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【目をあわせること、聞くこと】
2016年2月1日
元旦に、申年に因んで、ゴリラ研究の第一人者山極寿一先生のエッセイがある新聞に掲載されました。考えさせられたことの糸口に、少し引かせて頂きます。サルと人間は、世界を認識する際、視覚に頼ることが多い点は共通だが、互いに視線を交叉する意思疎通の場面で、作法の用い方に大きな違いがあると。サル社会では、相手をじっと見つめることは強いサルに許された威嚇の行為であり、弱いサルが強いサルを見返すと挑戦と見なされ攻撃を受ける羽目に…。人間の場合は視線を交わす作法は文化や状況によって多様で豊かな意思伝達の表現手段であり、意味を伝える言葉に対して、視線は感情を伝えるが、両者は決して代替えできない。だから、世界を言葉や文字で覆いつくすほどに情報機器が普及した現代において、視線の交叉を忘れつつある人間社会はサル社会への移行につながるのではないかと山極先生は危惧しています。
尊厳と云うとおおげさに聞こえるかもしれませんが、人が人と接する際に尊重し合う根本に、目をあわせること、と、耳を傾けること(聞くこと)があるのだと思います。
カメラは前方を見据えたままレールに沿って山の傾斜を昇る。トンネルを抜けると、ケーブルカーの座席で親しげに言葉を交わす4人の女性の姿が映し出される。前景に車窓を上から下へと過ぎ行く木影、遠景に港を抱えた神戸の街。映画館の座席から他の観客の頭越しにスクリーンに見入る私たちは、まるで、彼女たちと同じケーブルカーで斜面を上っているかのような感覚にとらわれる。おそらくリュミエール兄弟の「ラ・シオタ駅への列車の到着」に通底するような映画の原初の喜び溢れた「ハッピー・アワー」冒頭のシーン。この不思議な力を持った5時間17分の映画の成立について、濱口竜介監督が自ら、「記憶の新鮮なうちに記録を留めておきたい」という動機から記された『カメラの前で演じること』は、意思疎通の場面における「聞くこと」の力を深く考えさせてくれる。「仮借のない吟味の機械であるカメラ」の前に、自尊をもって振る舞う演者を送り出すまでの奮闘を記した本書は、どのように映画を作るかの方法という姿を借りつつ、日常を私たちがどのように生きるかという作法を問いかけてくる。誰もが送っているような日常に自尊を取り戻すために2年の歳月を掛けて取り組まれた「実験」の成果が「ハッピー・アワー」という映画の形で提出されているのだと思う。ハッピーエンドではないこの映画を見終わって、すがすがしい気持ちで肯定的に生きていく力をわけてもらえた気がした。言葉にすると本当に月並みな感想で大変恥ずかしいが、人の声に耳を傾けて、日々、他人にきちんと接して、あかるく誠実に生きていこうという気持ちにさせてくれる作品であった。映画を観た後に『カメラの前で演じること』を読み、改めて、カメラは、この作品の作り手たちの間に漲っていた意思を記録したのだという思いを抱きました。劇映画であっても映画である以上は現実を記録しているという事実への敏感さに由来する、登場人物の異様な存在感は、どこかで小津映画につながっているように感じました。