展示や季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。
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【単細胞生物の地位を考える】
私たちの体は60兆個もの細胞からできていると言われます。この「細胞から」という言葉ですが、こう言うと何となく細胞は体を作るブロックの様なものに感じてしまいませんか?ゾウリムシは単細胞生物と「生物」として位置づけられているのに、私たちの細胞は「細胞」としての地位しかない。これも正当なことなのか?ゾウリムシが生物なら、私たちの細胞も生物と位置づけられるべきではないか。つまり、なぜ私たちは多細胞生物としての地位をもつことを当然とし、「単細胞生物のコロニー」という地位をもつことを当然としないのかと思ったのです。 「単細胞生物のコロニー」でも生物学的にはいっこうに問題は生じない、というよりもその方が論理的に正しいのではないか。 ここで異論が出てくるはずです。例えば、生物というなら単独で生きていけなくてはならないだろうと。体細胞は単独では生きられないでないかと。しかし、そもそも単独で生きていける者などない。死ぬまでの時間の長短はあれ、ヒトも独りでは生きていけない。 体細胞は次世代を残せないではないかという反論もあるだろう。つまり、生殖細胞なら認められても、体細胞は認められないと。しかし、そうであるなら、働きアリは生物ではない。女王アリと雄アリだけが生物で、ワーカーは生物ではないとなる。踏みつぶしてもそれほど罪は無いということにならないか。それにそもそも体細胞も分裂して子孫を残すではないか。 さらに統合という問題を持ち出す人もいるだろう。ヒトは高度に統合されていて、意識すらもつ存在なのだから、それを一個体と見なすべきだと。確かにこれは一理ある。私たちの社会でも、会社の様な統合された組織には法人としての地位があり、人格が認められている。しかし、会社を法人として認めたからといって、その社員の人権が奪われるわけではない。憲法は法人以上に個人の人権を認めている。 個体発生の過程は厳密に規定されていて、細胞の自由な分裂増殖を認めていないという人もいるかもしれない。しかし、ゾウリムシにも自由な分裂は認められていない。数が増えると、ゾウリムシは自然に分裂を中止する。資源には限りがあるのだから当然だ。程度の差はあるとしても質的に大差はない。 しかし、体細胞はアポトーシスなどで自分の身を犠牲にする。その目的は個体の存続、生殖細胞の存続であり、これは体細胞が自身の犠牲によって利益をもたらそうとする対象である多細胞の個体か生殖細胞を、一個の生物として暗に認めているからではないかという考えも浮かぶ。しかしこれもやはり、先程のアリの例を考えれば説得力に欠ける。 というわけで、私たちは自身を「単細胞生物のコロニー」と位置づけても差し支えない。地球には単細胞生物しかいないのだと言ってもよい。そもそも命名というのは恣意的なもので、世界を勝手に切り取ってきては名前を付けるというに過ぎない。勝手に「単細胞生物のコロニー」を切り取ってきてそれに多細胞生物と名付けただけであって、その命名は無根拠になされたものだ。 ここで少し冷静になって生物学辞典で多細胞生物の定義を調べてみようと思ったら、なんとこんなことは説明の必要はないということなのか、その項目がない。それならばと広辞苑を見てみると、「多くの分化した細胞が集まり合って1個体を構成する生物の総称。普通肉眼で見られる生物はこれに属する。」とある。これでは、多細胞生物が1個の生物であることが前提になっていて議論の余地が無い。というわけでこのまま進めようと思う。 私たちを「単細胞生物のコロニー」、細胞1つを1個の生物と改めて位置づけてみよう。すると、いくつかの問題が浮上する。例えば分類である。分類はコロニーを比較して行ってよいのか?良いというのであれば、ヒト細胞の場合はどこまでがコロニーか?かりにコロニーのコロニーであるヒト社会もヒト細胞のコロニーだとすると、ヒト細胞は急速に進化していることになるし、社会構造の異なる民族の違いは、ヒト細胞の種の違いに相当するといえる。細胞同士の形態を比較するのは論外だ。絨毛細胞と神経細胞の形態は全く異なる。ヒトは数百種もの細胞からなるコロニーになってしまう。 では、ゲノムか。・・・いやもうこの辺でやめておこう。きりがないし、新年早々頭が混乱してしまってはいけない。それに何か根本的な見落としがあっての戯言かもしれない。もともと、ゾウリムシに同情して始まった話しであって、ゾウリムシにそこまでの義理はない、いや撮影させてもらったのだからあるのか・・・。 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。 [鳥居信夫] |