顧問の西川伸一を中心に館員が、今進化研究がどのようにおこなわれているかを紹介していきます。進化研究とは何をすることなのか? 歴史的背景も含めお話しします。
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ゲノムの発生学 I
2015年10月15日
ゲノムの解剖学、そしてゲノムの働き(生理学)とくると、当然次ぎにくるのはゲノムの発生学だ。ゲノムの発生学のほとんどは進化の過程とオーバーラップするはずで、この紙面で簡単に説明することなど叶うはずがない。代わりに今回からゲノムの発生学として、これまであまり議論されてこなかった観点からゲノムの誕生や進化の過程をゆっくり整理し直したいと思っている。今回は、そのイントロダクションになる。
重要なことは、ダーウィン時代と異なり、ゲノムの解剖学や働きについてずいぶんわかっている点だ。従って、ゲノムについて理解が進んだ時代のゲノム発生学(進化学)とは何かを考えることになる。これまでゲノムの解剖学や生理学の説明を通して、ゲノムは多様な内容を表現していても、結局は情報であるとことを強調してきた。この意味で、ゲノムの発生学を考えようとすると、情報の発生学を考えることになる。ところが日常情報という言葉を当たり前のように使っている我々も、情報の発生学と言われる何を考えていいのか戸惑う。なぜだろう?まず生物のゲノムを私たちが普通使っている情報との比較をしながら考えてみよう。
生物が生きて活動するオペレーションのためにゲノムが表現している情報には、アミノ酸配列の情報、機能的RNAの配列情報、遺伝子発現を調節するための様々な情報、遺伝子の円滑な発現に必要なゲノム構造化のための情報など、多様だ。ただゲノムを分解してみると、ゲノム上の情報のほとんどは、全て生命オペレーションに必要なタンパク質と様々な機能的RNAを必要に応じて作るために組織化されている情報と言える。このため、生物を機械にたとえ、ゲノムを生物の設計図と説明する人がいる。例えばゲノムについてかかれた本を見てみると、「初めて学ぶゲノム生物学:生命の設計図」、「ゲノム:命の設計図」、「ゲノム=人間の設計図をよむ」などのタイトルが踊っている。個人的には設計図より、パソコンのソフトウェアのように、生物のオペレーションの指令書といった方がまだ正確なように思えるが、なぜ私たちはゲノムを設計図や手順書に似ていると考えるのだろう?
デカルトは人間を心と体に分け、体は機械と同じだと考えた。また心のない動物は機械でしかないとも考えた。そしてこのドグマはほとんどの生命科学分野の根幹を今でも脈々と流れている。しかし、実際の生物は機械とは全く違っていると誰もが直感する。何が違うのか?
自分で考えて将棋を指すように見えるコンピュータといえども、機械はその背景に設計者、すなわち人間の意図が存在している。例えばシャベルカーを考えよう。シャベルカーは穴を掘るという人間が決めた目的に従って設計され、組み立てられる。そして完成したシャベルカーを運転してその意図を実現するのも人間だ。動いていない機械だけを見ているとそこに人間の存在はないが、実際には機械そのものが人間の意図の塊だ。石より固い鉄、自由な動きを可能にする油圧システム、駆動エンジンなど、本来はシャベルカーとは全く別に開発されてきた数多くの部品が、シャベルカーに集められている。全ては設計者(=人間)の意図に従って組み立てられるが、シャベルカー位複雑な構造になると、この意図を情報として表現する指示書や、設計図が必要になる。さらにこの機械を設計するのも人間であることから、運転する人間が扱いやすいよう設計するのも重要だ。
図1 あらゆる機械はその背景に人間の意図や目的が存在し、それに合わせて設計される。
現代なら、人工知能を導入した自動のシャベルカーも存在しているはずだ。自分で学習し、初めての場所でも上手に穴を掘ることができるかもしれない。しかし、一旦人間により決められたシャベルカーの目的は変わることはない。シャベルカーが自分で目的を逸脱してスポーツカーになることは決してない。これは、人間が操縦しようと、全自動であろうと、全ての機械の目的は人間により決められており、またそのオペレーションも人間との対話の上で行われるよう設計されている。
少し余談になるが、最近自ら考え判断する人工知能の開発が進められているが、これが成功するといつか人間から独立し、人間を支配するのではないかと心配されている。ただ人工知能も機械である以上最初の目的は人間が与える。このとき心配する必要があるのは、与えられた目的をもっとも有効に成し遂げようとして、人間を排除することだ。例えば人工知能に穴を掘れと命じて、その後途中で穴掘りをやめさすためスウィッチを切ることを考えてみよう。もし人工知能がこのやめるという意思を、目的遂行を邪魔すると判断すれば当然スウィッチを切ろうとした人間は排除されるだろう。とはいえ、機械はその背景にある人間の決めた意図なしでは存在しない。
この機械の背景にある人間の意図と同じものを、私たちは生物にも感じる。この感覚が、私たちにゲノムは生命の設計図と言わせている。もしデカルトに、生物という機械に外から目的(設計図)を与えているのは何か?と直接質問したら、おそらく彼は生物に目的を与え、それに沿って設計するのは神だと答えるように思う。すなわち、機械の背景に必ず人間がいるように、生物という機械には神の意志が存在すると考えていた。しかし、神を生物の背景から排除すると(私は当然だと思っている)、機械に対する人間のように、生物に目的やデザインを与えるものはどこを探しても見当たらなくなる。実際にはこの生物の目的の探求が、18世紀自然史思想の誕生以来続けられ、ダーウィンを経た後ようやく見えてきた解の一つがゲノムに集約した。この歴史を考えると、生命の構成成分をコードする遺伝子が組み込まれたゲノムを設計図や指令書と考えて不都合はない。DNAという媒体は物質だが、ゲノム自体は情報で、物質的ではないし、目にも見えない点でも、機械の背景にある人間の意図に似ていると言えるのではないだろうか。
しかし、ゲノムを生物の設計図や指令書であることを認めたとしても、機械の設計図とは全く違う問題がゲノムにはある。それは書いた人がいないという問題だ。私たちは普通の情報を考える時、それがどうしてできたか、すなわち発生学はあまり問わない。というのも、情報には確実にそれを発信した人間がいるからだ。機械のデザインや設計図も同じように、書いた人がはっきりしている情報だ。一方設計図と言っても、ゲノムには書き手がいない。このため、ゲノム情報を考える時は、書き手がいないのに情報がどうして生まれるのかをまず知る必要がある。
図2 普通情報にはその発信者がいる。しかし、発信者のいない現象も、解釈という過程を介して情報化することができる。
私たちが情報について語るとき、必ずしも発信者のはっきりした情報だけが念頭にあるわけではない。例えば、私がこの原稿を書くのに疲れて窓を見ると、天気は秋晴れだ。ちょっと散歩でもするかと伸びをして部屋から出たとしよう。これは、窓の外の日光の様子を私が心地よい秋晴れと解釈した結果だ。逆もある。例えば雨が降っていたら、傘を持って外に出る。これも雨が降っているという情報を私が傘を持って出ることを指示する情報と受け取ったからだ。この場合私が情報として受け取った天気の状態は自然現象で情報ではない。同じ雨でも、畑にとって恵みの雨もあれば、川の氾濫を引き起こす雨もある。全て状況と解釈者の状態によって決まる一種の解釈だ。すなわち、誰かが書いた情報でなくとも、それを解釈する主体があれば情報になる。発信者のいないゲノムが情報になりうるのは、この解釈という能力がゲノムに備わっており、この過程を通してゲノムが情報化していくと考えられる。
この解釈プロセスは、原始生命誕生時のDNA分子が情報を担う様になりゲノムが誕生する過程と、ダーウィン進化過程に分かれる。次回からできるかどうか自信はないが、この過程についてさらに考えてみたい。