館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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先生の掌の上
2018年11月15日
ふつうのおんなの子』についてお話をしたNHKの番組をごらんになった方が、江上不二夫先生の言葉を思い出しましたというお手紙を下さいました。先生の言葉として「頂上が雲に隠れて見えない未踏峯を目指す登山家でなく、足元の道草を楽しむ登山者になりたい」と書いてありました。確かに先生はいつもこの類のことをおっしゃっていました。
有名な山で皆と競争するのでなく、自分で見つけた山をていねいに登るのがよいというのが研究に対する先生の基本姿勢でした。これがいつの間にか私の中に入り込み、だんだん自分になっているのだろうなと思います。
江上語録にはもう一つ有名な言葉があります。「失敗は喜こびなさい」です。研究室での報告会は実験がうまく行っている時は楽しみですが、むしろ悩みを話さなければならないことの方が多いのです。それが研究というものです。落ち込みながら話すと、先生が「失敗は喜こびなさい」とおっしゃるのです。思い通りに行ったら、それは人間の知恵の範囲。自然はそれを越えているのだから、失敗した時こそそこから思いがけない新しい発見ができるかもしれないというわけです。若者を元気づけて下さっているのですが、確かにそこには真実があります。棚に飾ってある先生の写真を眺めながら、今も先生の掌の上なんだと改めて思いました。