表現スタッフ日記
2023.01.05
生命誌の「誌」は
生命誌の誌は、「史」でなく、なぜ「誌」なんですか?と、しばしばたずねられます。
確かに、英語では、"biohistory" で、"history" ですから「歴史」の「史」でよいのでは? という気がしないでもありません。
そこで、まず、ふつうに漢字辞書で、それぞれの字の意味を確かめてみます。すると、「誌」は、その訓読みの通り「しるす」、また「書きしるす」、そして「書きしるしたもの」とあります。「史」は、これも訓読み通り「ふみ」、すなわち「文書」、「社会の移り変わりの記録」「史書」「歴史」と続きます。
なるほど、「誌」は、まさに「しるす」、「書きしるす」という行為自体の重要性が感じられ、その行為がものに転化する場合もある。一方、「史」は、予め書き文字が存在し、既にそれらの通時的編纂が関心事になっているような世界が前提として感じられます。
もう少し、それぞれの字のなりたちを遡りましょう(出展は『角川新字源 改訂新版』です)。
「誌」のなりたちは、「言」と「志」とから成る。心に「しるす」、ひいて、書きしるす意に用いる。一方、「史」のなりたちは、記録を担当する役人の意を表す。
つまり、文字社会以降の通時的、官僚的文書にまつわる限られた射程の意である「史」に対し、「誌」は、文字があってもなくても、言葉を声に発し、それにより「心にしるす」ことを原義とする。口承文化の拠り所が、文字社会にも敷衍されるようになったと考えてみると、「誌」という文字の内側で、常に「しるす」という原始的な動詞が蠢いている力強さが感じられます。
現生する地球上の生きものは、すべて38億年前に海の中で誕生した最初の生命(細胞)から、途切れることなく続き、変化を重ねながら多様化した仲間だと考えられています。つまり今、生きている私の細胞は、38億年の間、祖先細胞からずっと生き続けて(分裂と増殖を重ねて)、今に至るのです。もちろん私は、これまで38億年の間、私の細胞にどんな苦労があったのかを思い出すことはできません。しかし「細胞」という生命システムは、生き続けているものだけが生き残っていくというシステムであるのです。
生きていることの最小単位は「細胞」です。そして「細胞」というしくみを構成するいろいろの中で、すごく意味がありそうだと考えられている物質がDNAです。ここで、冒頭の「誌」の意味をもう一度引きます。それは「しるす」、また「書きしるす」、そして「書きしるしたもの」という意味です。おおざっぱに言えば、「細胞」というしくみに於いて「誌」の役を果たしているのがゲノムDNAなのではないかと考えられます。ゲノムDNAとは、「その生きもの(細胞)の遺伝情報(Gene)の総体(ome)を書きしるしたもの」であり、躯体となるもの(物質)の具体的な名称が、デオキシリボ核酸(Deoxyribo-Nucleic Acid)というわけです。
ところで、物事は、つねに「もの」の側面と、「こと」の側面とが、表裏一体となっています。日常的には、「もの」のほうが、直接、見たり触れたりできるのでわかったような気になるものですが、「生きもの」というのは、「生命現象」ですから、「もの」より「こと」だと捉えたほうがよさそうです。38億年続いて、その間、ずっと動態。DNAという物質が担う遺伝情報も、決して、何か墓碑や石板のような安定な物質に刻まれているわけではなくて、生きた細胞の中で、常に、無数の物質同士のインタラクションに揉まれ、読み出され、書き込まれ、校正され、削除、挿入、追記され、過剰なコピーが細胞内に溢れ、時に他種、他者由来の情報がどこからともなく紛れ込み、ブリコラージュされ……細胞から細胞へと受け渡され……およそ、生命(細胞)が、実践している伝承の本質は、文字として、物質に外在化し静的に認めるような”テクスト化”でなく、細胞という動態のままオーラル(口承)に語り継いで行く、つまり「心にしるす」ということを38億年、まさにこれこそが、生きることだと言わんばかりに、続けている。やはり、すべての生きものの複声による伝承の総体が生命誌なのだという風に思います。
最後に、動物誌、博物誌、民族誌、書誌、地誌など、〇〇誌と呼ばれる学問に、共通しているのは「ひとつひとつを詳細に見て、総合的にしるす」という捉え方です。生命誌も、もちろん、そうした学問の一つです。
確かに、英語では、"biohistory" で、"history" ですから「歴史」の「史」でよいのでは? という気がしないでもありません。
そこで、まず、ふつうに漢字辞書で、それぞれの字の意味を確かめてみます。すると、「誌」は、その訓読みの通り「しるす」、また「書きしるす」、そして「書きしるしたもの」とあります。「史」は、これも訓読み通り「ふみ」、すなわち「文書」、「社会の移り変わりの記録」「史書」「歴史」と続きます。
なるほど、「誌」は、まさに「しるす」、「書きしるす」という行為自体の重要性が感じられ、その行為がものに転化する場合もある。一方、「史」は、予め書き文字が存在し、既にそれらの通時的編纂が関心事になっているような世界が前提として感じられます。
もう少し、それぞれの字のなりたちを遡りましょう(出展は『角川新字源 改訂新版』です)。
「誌」のなりたちは、「言」と「志」とから成る。心に「しるす」、ひいて、書きしるす意に用いる。一方、「史」のなりたちは、記録を担当する役人の意を表す。
つまり、文字社会以降の通時的、官僚的文書にまつわる限られた射程の意である「史」に対し、「誌」は、文字があってもなくても、言葉を声に発し、それにより「心にしるす」ことを原義とする。口承文化の拠り所が、文字社会にも敷衍されるようになったと考えてみると、「誌」という文字の内側で、常に「しるす」という原始的な動詞が蠢いている力強さが感じられます。
現生する地球上の生きものは、すべて38億年前に海の中で誕生した最初の生命(細胞)から、途切れることなく続き、変化を重ねながら多様化した仲間だと考えられています。つまり今、生きている私の細胞は、38億年の間、祖先細胞からずっと生き続けて(分裂と増殖を重ねて)、今に至るのです。もちろん私は、これまで38億年の間、私の細胞にどんな苦労があったのかを思い出すことはできません。しかし「細胞」という生命システムは、生き続けているものだけが生き残っていくというシステムであるのです。
生きていることの最小単位は「細胞」です。そして「細胞」というしくみを構成するいろいろの中で、すごく意味がありそうだと考えられている物質がDNAです。ここで、冒頭の「誌」の意味をもう一度引きます。それは「しるす」、また「書きしるす」、そして「書きしるしたもの」という意味です。おおざっぱに言えば、「細胞」というしくみに於いて「誌」の役を果たしているのがゲノムDNAなのではないかと考えられます。ゲノムDNAとは、「その生きもの(細胞)の遺伝情報(Gene)の総体(ome)を書きしるしたもの」であり、躯体となるもの(物質)の具体的な名称が、デオキシリボ核酸(Deoxyribo-Nucleic Acid)というわけです。
ところで、物事は、つねに「もの」の側面と、「こと」の側面とが、表裏一体となっています。日常的には、「もの」のほうが、直接、見たり触れたりできるのでわかったような気になるものですが、「生きもの」というのは、「生命現象」ですから、「もの」より「こと」だと捉えたほうがよさそうです。38億年続いて、その間、ずっと動態。DNAという物質が担う遺伝情報も、決して、何か墓碑や石板のような安定な物質に刻まれているわけではなくて、生きた細胞の中で、常に、無数の物質同士のインタラクションに揉まれ、読み出され、書き込まれ、校正され、削除、挿入、追記され、過剰なコピーが細胞内に溢れ、時に他種、他者由来の情報がどこからともなく紛れ込み、ブリコラージュされ……細胞から細胞へと受け渡され……およそ、生命(細胞)が、実践している伝承の本質は、文字として、物質に外在化し静的に認めるような”テクスト化”でなく、細胞という動態のままオーラル(口承)に語り継いで行く、つまり「心にしるす」ということを38億年、まさにこれこそが、生きることだと言わんばかりに、続けている。やはり、すべての生きものの複声による伝承の総体が生命誌なのだという風に思います。
最後に、動物誌、博物誌、民族誌、書誌、地誌など、〇〇誌と呼ばれる学問に、共通しているのは「ひとつひとつを詳細に見て、総合的にしるす」という捉え方です。生命誌も、もちろん、そうした学問の一つです。
村田英克 (研究員)
表現を通して生きものを考えるセクター