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研究館より

中村桂子のちょっと一言

2021.05.14

〈あわい〉は〈あう〉という動詞から

「私たち」という切り口で考え始めてから、以前教えていただいたことの意味がよく分かったと思える例が次々と出てきます。今日は、哲学者の坂部恵さんです。たくさんのことを教えていただいたので先生なのですが、同い年のよしみで、親しみをこめて「さん」です。2009年に亡くなられたのは本当に残念です。

生命誌は物語りであり、それを語る時は動詞を大切にするということを続けてきました。そう考えるようになったきっかけの一つが、坂部さんの「かたり」についての考察です(「かたり」弘文堂 1990年)。語り・語らいという名詞は語るという動詞を名詞化したものであり、名詞でありながらそこに動詞的な意味、述語的な意味を強く含んでいると坂部さんは指摘します。ですから、語りという言葉は決して静的なものではなく、動的、ダイナミックなものなのです。坂部さんが「かたり」と書くのは、そこには「騙り」の意味も隠されているからだとニヤリとされたのが忘れられません。確かに語っているうちに調子に乗って大袈裟になり、どんどん話が膨らんでいくことはありがちです。騙りとまでは行かないにしても。

今回注目するのは「あわい」です。坂部さんが「生と死のあわい」というタイトルで話された記録があります。「あわい」は「かたり」と同じタイプの名詞で、もとの動詞は「あ(会)う」です。「生の中に死があり、死の中に生がある。生と死を考える時の一番大切なところはそこにあり、われわれは生と死のあわいを生きている」。生命科学の研究が進むにつれて、まさにこの通りであることが分かってきました。私たち個体の生を支える仕組みの中にたくさんの細胞の死があることが明らかになったのです。

「あわい」を生きるということは、私とあなたの関係にもあてはまるのではないでしょうか。私たちと言う時、私とあなたは「と」で明確に二分されるものではありません。間が動的につながっているのが「私たち」なのです。生と死がそうであるように、私は私、あなたはあなたでありながら「と」で明確に分別しないという、述語の論理がそこにはあります。私は難しいことは苦手なので、日常的な発想と言葉とで「生命誌は動詞で考える」としていますが、考えているのはまさにこれです。

坂部さんに導かれて苦手なところにもう少し踏み込むなら、述語の論理は主語の論理のように二つのものが背反的、両立不可能と捉えないわけで、西田(幾太郎)哲学の言うところとなります。哲学そのものをすべて理解するのは難しいとしても、科学の眼で生きものを素直に見れば動詞で考えられる(つまり述語の論理)姿が見えてくるとはいつも感じています。「生きものは矛盾のかたまり」とも言ってきましたが、これもまさに述語の論理と重なります。人と人との関係も矛盾をなくそうとすると壊れるほかないのではないでしょうか。矛盾を抱え込んで生きる。生と死に限らず、いつも「あわい」を生きているのだと思います。やはり「動詞で考える」が生命誌の基本です。

中村桂子 (名誉館長)

名誉館長よりご挨拶