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研究館より

表現スタッフ日記

2020.09.15

「えきやく」に寄せて

 生命誌研究館が20周年を迎えたのは、2013年のことでした。後に「東日本大震災」と名付けられた天災に見舞われたのは2011年。2013年の館の設立20周年の催しでの生命誌の表現は、この災いを強く意識した内容になりました。音楽劇「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」とドキュメンタリー映画「水と風と生きものと 中村桂子・生命誌を紡ぐ」、そして「生命誌マンダラ」もこの時のものです。それぞれ数年をかけて準備し、生命誌から社会に向けたその時点でのメッセージを込めて形になった作品です。どれも初めての試みで、たくさんの仲間との新しい出会いによって、生まれた、その制作過程についてはこれまでも何度かこのコーナーにも書いてきましたのでそちらをご覧ください。

 そして、生命誌研究館が30周年を迎えるのは、そんなに先の話ではありません。そこに向けて日々考え続けています。表現を通して生きものを考えるセクターでは、いろいろな媒体表現に取り組んでいますが、表現の基本は<言葉>です。これまで「動詞」や「やまと言葉」による表現を大切にしてきたのも、日本語をていねいに扱って、考えを組み立てていくことは、自分たちにとって、そして科学を日常と結びつける表現に不可欠だからです。言葉に加え、身体を介する絵や音楽などの共通言語によって表現を模索していきます。

 前々回の日記「表現として継承される物語り」(2020.04.01)で書いたように私が小鼓を通して能楽を身につけるのもこのためです。この芸能には、この風土で育まれた「生きていること」への認識と、そのうえで「よく生きる」ための知恵がたくさん詰まっています。雅俗混淆、老若男女貴賎都鄙、あらゆる人々にとっての「品のある娯楽」として成立した後も、時代の変遷に応じて(武家社会、封建社会、町人文化、西洋文化移入による近代社会)、柔軟に芸態を変えながらも、その本質を変えることなく、口承伝承(1世代、2世代ごとの)をくりかえして650年間以上、現在もはたらき続けています。この芸能が持つ様々な面において、生命誌研究館が求める生命論的世界観の作品化にふさわしい表現媒体ではないかと思う次第です。

 ここまでは一人で考えられるのですが、この先をどうしようかと思い悩んでいたところ、つい先日、私が手習いをしている大倉流小鼓方の家元、十六世宗家大倉源次郎先生が「えきやく」という新作能の初稿を、なんとFacebookで発表なさいました。早速、拝見したところ、天より降る雨露の恵みに山川草木、禽獣虫魚と、まさに「水と風と生きものと」の世界です。「いっそ、公開して皆様にやっていただけそうならば…良い方法を模索中です。」と家元も書いておられたので、これを生命誌として受け止められないだろうかと思い始めたところです。「えきやく」とは疫病、厄病の意です。間狂言で、疫病はウイルスなどによる病、厄病は人の心を貶める病という読み解きがあるようですが、この間狂言のところは、生命誌研究館の知見でかなりモデリングできるのではないだろうかと思ったりしています。

 疫病蔓延や天災などの時こそ、本来は能が奉納されるものを、今春から夏にかけての演能は、ほとんどが中止か延期という状況でした。「えきやく」には本来の能の思いが込められています。そして、生命誌が求める世界観がここにあると思います。