TALK
ムシ語とサイボウ語の
聞き取り講座
1.生命誌の誌
中村
科学は、自然の不思議に向き合います。自然の中の生きもの、更には人間を知りたい。ビナードさんの詩もそこから生まれているのではないでしょうか。世間は、科学と言葉を分けたがりますが。
ビナード
今の大人たちの多くは、謎を、好まないようです。答えを急ぐ。となると文学はいらないよね。文学者は、わからないものを抱えたまま表現していく。それが文学で、謎は科学でも大事ですね。天文学から始まる科学と、神話から始まる文学とは、実はあまり違わないはず。
中村
虫を眺めていると不思議になり、この謎を、皆さんと一緒に考えたいという思いから表現をする。専門の枠に閉じこもらず芸術ともつながる表現をするのが生命誌研究館の活動の基本です。
ビナード
僕は、雑誌の仕事が多いですが、生命誌は、雑誌の誌ですね。英語のバイオヒストリーだと、歴史の史かなとも思いますけど。
中村
ナチュラルヒストリーを、日本語では博物誌と翻訳しました。小さな生きもの一つ一つに眼を向けて、そこから生きものたちの歴史物語を紡いでいこう。そういう思いを、誌の一字に込めています。
ビナード
フラットな感じで、脈々と息づく生物の流れを捉えようとしていますよね。文学においても時間軸を長くとることは大事です。本屋では、今、売れている本が並びますが、図書館の棚には、長い間、続いた僕らの物語が詰まっている。そこに並ぶ本の書かれた時代や、分野の幅が広ければ広いほど蓄積は豊かで、生命誌の誌にはそのように語り継いでいく意味もありますね。
中村
研究館は小さなところですが、この場に40億年の生きものの時間を込めています。その空気を感じていただきたい。知識じゃなくて。それがここの存在意義です。ビナードさんの作品は、生命誌の表現とピタリと重なる。今日はそこにある大切なものについて話し合えるだろうと楽しみです。まず素敵な紙芝居からお願いします。
ビナード
紙芝居の世界では、この木製の装置を「舞台」と呼び、この中に物語の紙のビジュアルを入れます。ラジオ、テレビ、パソコン、さらにはスマホなど、科学技術の進展に伴って、いろんなメディアが作られてきましたが、紙芝居は、百年近く前、日本で生まれたメディアです。やはりハードとソフトの組み合わせでできています。比較的固い木製のハードに、紙でできた柔らかいソフトをインストールします。しかも、電気を使わず人力です。さあ、紙芝居の はじまり、はじまり! 『ちっちゃいこえ』。
2.『ちっちゃいこえ』
中村
この絵は、もともと紙芝居のために描かれたものではなくて、丸木俊さんと位里さんご夫妻のお描きになった…。
ビナード
はい。「原爆の図」という壮大な連作絵画から。
中村
あの絵の中に、紙芝居に出てきた猫ちゃんも、ワンちゃんも、赤ちゃんもいる。よく見ていくと、あの絵にはいろいろな生きものが描き込まれている。そこに着目して、ひとつの物語をおつくりになった。その切り口がとてもビナードさんらしいですね。でも『ちっちゃいこえ』で語り部を務めた黒猫が、「原爆の図」の中の、いったいどこに描かれていただろう? って、私たち気がつきませんよね。
ビナード
「原爆の図」に、『焼津』という静岡の漁港を描いた一点があって、猫のクロはその絵に登場する。魚市場の人々の足元に、さりげなく自然といるんです。猫は気配を消すのが得意、でも目が合うといろいろ語り出す。作者の丸木俊さんと丸木位里さんが、そういう風に、日々の生活と、周りにいる生きものたちに目を向けて、それと、とんでもない大量破壊装置とを対峙させて描いた。
中村
「原爆の図」には建物がないとビナードさんがおっしゃった。普通、町の崩壊を描く時、まず建物になると思うのですが。
ビナード
原爆ドームに象徴されるように、恐しさを語り継ごうとする場合、建物のビフォアとアフターを並べてというような伝え方になってしまいがちですが。壊されたのは、いのちなんだ。建物より100万倍も1000万倍もいのちは大事なんだ。俊さんと位里さんが声高にそう言ったわけではないけれど、その本質を訴えるために生命しか描かなかったんだと思う。だからあの雄大な連作には、植物も、動物も、黒い雨も、虹も、海も、森羅万象が描かれている。でも建造物は皆無。
中村
すごい! それは、ビナードさんが『ちっちゃいこえ』という紙芝居作品として「原爆の図」から引き出したメッセージでもありますね。
ビナード
実は『ちっちゃいこえ』の前半で、鳩のクースケが呉の空襲の話をする場面があり、唯一、建物らしきものが出てきます。これは「原爆の図」の『焼津』という作品に描かれている第五福竜丸の操舵室なんです。デザイナーさんと相談して、それを空襲で炎に包まれる建物に見えるような表現を見つけて工夫したのです。
3.「ずんずん るんるん ずずずんずん」
中村
『ちっちゃいこえ』では、細胞に語らせていますね。ここが、生命誌として、おおっ! て思う。仲間だぞと。40億年ほど前に、宇宙の中の小さな星である地球の海に、どのようにしてか、細胞が生まれた。そこから今の世界ができあがってきたわけでしょ。生きているということの始まり、基本は細胞であり、それが生命誌をつくってきたのですから。
ビナード
猫も、鳩も、人間も、みんな細胞でできていて、みんなこの絵に描いてある。でも俊さんと位里さんは、細胞そのものは描いてくれなかった。じゃあ、この絵の中で細胞をイメージできるところがないだろうかと探っていくと、たくさんの梅のつぼみに目が止まった。そのつぼみを少し整えて色を変えると細胞のように見える。さらに違うつぼみを選び、また色を変えると、内部被ばくで生命力がそがれた細胞に見えるようになった。
中村
物語の終盤に出てくる死にそうな細胞は悲しがっていますね。
ビナード
ほんとうに、無条件に悲しい。言葉で「いのち」と言うと、抽象的です。どうすれば、もっと強く、俊さんと位里さんの「いのち」への思いを表現できるだろう? 暗中模索から始まって、ようやく細胞の声で表現したいと思い至ったわけです。
中村
素直に流れていく思考過程が素敵です。私も、地球上の生きものは皆、始原細胞から続く仲間なのだというメッセージを込めて『いのち愛づる姫 〜ものみな一つの細胞から〜 』という朗読劇を、絵本にしました。絵は、日本画家・堀文子さんの画集からお借りしたのです。ミドリムシも、ボルボックスも、ミジンコも、クラゲも、魚も、シダも、花も、生きものの歴史物語に登場する仲間たちがすべてあった。いのちを大事と考えて、身の回りの小さなものを観察してお描きになっていた堀さんの世界の中に全部いたのです。ほんとうにびっくりしました。
ビナード
すごい! 絵が先に本質を掴んでいた。
中村
科学も芸術も、ほんとうに大事なものを見ようとすれば、見えてくるものは同じなんだって、その時、実感しました。そして、生命誌はこのまま進めていいんだと。
ビナード
『ちっちゃいこえ』という紙芝居で、絶対やらなくてはならないと思ったのは、細胞の声を聞きなすこと。
中村
細胞の語りかけを聞いて、自分の細胞に収める。
ビナード
細胞が発する音は声にならない微かな響きかもしれない。でも紙芝居では、それを言葉にしなくちゃいけない。意味じゃなくて、音の連なりとして言葉を手探りで掴みたい。だから「ずんずん るんるん ずずずんずん るんるんるん」以外にもいっぱい試して試して…やがて「ずんずん るんるん ずずずんずん るんるんるん」が、一番自分もしっくり来るし、人にも伝わるとわかった。紙芝居を編集者や保育園の先生にも演じてもらいましたが、皆、違うんですよ。今日は、是非、中村桂子さんの細胞の声を聞きたいので、ちょっとここ読んでもらえませんか。
中村
はい。細胞の声。「ずんずん るんるん ずずずんずん るんるんるん」。
ビナード
今、考えてお読みになりましたね。考えないで読むとどうでしょう。
中村
考えちゃいけないのね。「ずんずん るんるん ずずずんずん るんるんるん」。
ビナード
面白い。今までにない独特な声です。一人一人細胞のリズムは違って、それが僕らの個性にもつながっていると思うんです。
中村
実際は、音で表わされているものだけが言葉でなく、お互いをわかり合う手段を言葉と考えれば、あらゆる生きものに、それがあることは科学的にも明らかです。
ビナード
それは、科学が証明しなくても、昔の人はわかっていたことだと思うんです。虫たちや花や森の木々が交わしている匂いのコミュニケーションは、きっと日本語や英語より断然、高度ですよ。
中村
そうですね。コミュニケーションの手段としては、人間の言葉はあまり上等じゃないかもしれない。でも抽象的にものを考え、思考し、概念をつくるには言葉が必要。
ビナード
たぶん、言葉がないとできないことですね。
4.『なずず このっぺ?』
中村
私たちにはわからないだけで、小さな生きものたちもお互い話し合っている。ビナードさんが、虫たちの声に耳を傾けた世界が『なずずこのっぺ?』という絵本になった。私、これ読んだ時に、まず何じゃこれ? って、思いましたよ。
ビナード
こっちの狙い通りです。何じゃこれ? って。
中村
ええ。何じゃこれ? でも私は、虫じゃないのだからと思いながら、読んでいくうちに、だんだんわかってくる気がするじゃありませんか。
ビナード
この絵本は原作があって、カーソン・エリスっていうアメリカの素敵な絵描きが、絵だけでなく、自分で言語をつくりました。一切、英単語は入れず、ぜんぶ新しい昆虫語で。
中村
その翻訳ですか?
ビナード
翻訳と言えば翻訳です。どのような翻訳かと言えば、英語ではない昆虫語を、日本語ではない昆虫語に訳しました。エリスが最初にやったことは、虫たちがしゃべっている音の感じを、アルファベットを使って表現した。でもそれは英語ではない。しかも、解説しない、注釈を付けない。大事なことは、虫たちが生活している場に、人間も身を置いて、耳を澄ますこと。
中村
そうすると虫たちの会話が聞こえてくる。
ビナード
聞こえてきたら自分で考える。これには、子どもたちが飛びついた。でも大人たちは、何だかわからなくてきょとんとして。子どもたちは、たとえば、生命誌研究館に来たら、わかんない単語だらけですね。細胞分裂とか、難しい言葉がいっぱいで何だかわからない、ムシ語よりややこしい。
中村
そうね。もっとわからない。
ビナード
でもそれでいいわけ。子どもはちゃんと出合う。わけのわからない言葉とそこにあるいのちや、大人たちの営みを鋭く観察して、言葉のカオスにだんだんと分け入っていく。そのアドベンチャーができる。さっきの紙芝居も、細胞という単語の意味は知らなくていい。でもそれぞれ細胞が感じられた時に、わかってくることがあるんです。
『なずずこのっぺ?』は、ムシ語、昆虫語という設定ですが、実は、よく考えたらアゲハチョウ語と…。
中村
そうね、ミツバチ語…と。
ビナード
みんな違うでしょ。昆虫の世界はすさまじく多様だから。昆虫語ってちょっと大雑把過ぎね。でも、この本を幼稚園や保育園で読むとどんどん盛り上がって収拾がつかない。クスクス、ゲラゲラって、途中から笑い出して、終いに「もう一回!」って、最高記録は6回。僕が「なずずこのっぺ!」って言うと、皆が「なずずこのっぺ!」って声を返してくれる。音の響きから一体感が広がって。果たして「なずずこのっぺ?」という言葉が正しい訳かどうかは、僕にはわかりません。じゃあ正しいって、そもそもどういう意味? それは、この本を楽しんでくれる人たち、とくに小さな一人一人が、どういう風に感じてくれるか、どう響くか、そこしかないと思う。
5.「ちちんぷいぷい」
中村
子どもたちは、わけがわからないことを楽しむのがとても上手ですよね。でも今の社会は、全部わけがわかるようにしようとしている。
ビナード
僕らには、生きものとして、謎を抱えて、謎を深めながら、答えでなくクエスチョンマークを求めていく。そういう機能が備わっているのに、それをやめさせられちゃう。恐しい教育の賜物ですね。
中村
マルですかバツですかって聞かれるでしょ。そして、早く答えなさいと言われる。
ビナード
僕らが生きものとしての自分を見失なった場合、つまり答えの袋小路に入った時、もう一回、生きものに戻るために、他の生きものたちから謎をインストールする、ダウンロードする。いのちの謎を手渡してくれるのが文学の役割。だから本物の文学は謎をはらむ必要があるのです。
中村
科学も同じ。生きものたちの世界はわからないことだらけですから。宮沢賢治も、わけのわからないものが好きですよね。だから私たちに対しても、わけのわからないまま投げ掛ける。ビナードさんは、日本語と英語とで、賢治の『やまなし』を絵本になさいましたね。賢治の物語には、感覚的にわかるけれども、日本語として、こりゃ何じゃ? というような言葉がたくさん出てきますでしょ。
ビナード
『やまなし』は、サワガニ語の物語ですね。宮沢賢治が、誰よりも見事にやってのけた仕事は、言葉づくりです。賢治は造語を、その物語に必要な表現を探る中から掴み出してくる。その新出語が共有され、中には「クラムボン」のように独り歩きする謎の単語もある。冒頭の川底でのサワガニの兄弟の会話で、「クラムボンは笑ったよ」って弟が言うと、お兄さんは「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」と返す。
中村
かぷかぷ笑うという言葉を聞くと、その音でしか表せない笑いが浮かんでくる。
ビナード
「かぷかぷ」って国語辞典にない。でも「クラムボン」は「かぷかぷ」笑ったり、その後死んだり、また笑ったり、とそういう辞書に固められない謎の言葉が賢治の物語にたくさん出てくる。どういう状況で、いつ、誰が言ったか。物語を読み進んでいくうち、次第に、身体を伴った音としてある種の実体を帯びてくる。大事なのはその輪郭ではなく、言葉の内側に湧いてくるいのちです。「ちちんぷいぷい」とか「よっこらしょ、どっこいしょ」って、日本語には、実は、よくわからない謎のまま、僕らが使っている言葉がいっぱいあって、たぶん謎があるからこそ受け継がれている。サワガニの子たちが交わす言葉はそれだけの存在ではない。そのうち立派な父さんガニが出てきますが、彼も子どもの頃には、きっと同じ単語を使っていただろうと思う。
中村
なるほど。そうやって、サワガニ語として続いてきたのね。
ビナード
彼らに見える世界は水面まで。その向こう側のよくわからない世界を探る。そのために言葉がある。向こうとこっちをつなぐコミュニケーションとして、サワガニ兄弟の間で伝わっているのは意味でなく謎です。謎を共有して抱えながら意味を探っていく、そのためのツールとして機能する言葉は、実はニンゲン語にもいっぱいある。
中村
言葉の本質ですね。
6.私たち生きものの中の私
中村
ムシ語にもサワガニ語にも、身体性が大事ですね。もちろん人間の言葉にも。
ビナード
ところが、今、メタバースとかバーチャルとかね。
中村
ムシ語、サイボウ語、サワガニ語という、今日のビナードさんとのお話しから、現代社会のニンゲン語の危うさが照らし出されますね。
ビナード
宮沢賢治という人は、自分の身体を基に、自分とつながる自然の一つ一つと向き合って、それを声として記すことができる言葉に表す。「どっどど どどうど どどうど どどう」って。
中村
『風の又三郎』ね。風も多くを語ります。
ビナード
賢治は、万物を感じ取って聞きなす通訳に徹した人。彼の文章は豊かな理性に満ちている。同時に、生命と身体がうまく交流しているからああいう言葉が出せる。僕も、言葉を探す時、その方法は一つ、自分の身体とその現象とを、つなぐしかないのです。身体を経由しない言葉は豊かな表現になりません。
中村
日常が自然から離れ、機械の中で日々を過ごす現代社会では、身体という問題はとても大事です。それは、自分が常に生きもののつながりの中にあるという意識を求めるのではないでしょうか。「私たち生きものの中の私」という存在です。それは身体を通してムシ語もサイボウ語も楽しみます。それは地球を通して宇宙とつながり、40億年という長い時間の中にある存在となり、大きな広がりを持ちます。今日、皆さんと一緒に耳を傾けたムシ語やサイボウ語に学びながら、生きもののつながりの中の「私」を豊かに生き、ニンゲン語を、生きものとして生きるために使っていかなくてはいけないと思います。ありがとうございました。
写真:川本聖哉
対談を終えて
中村桂子
言葉を、自己表現でなく、
生きもののつながりの中の「私たち」という
広がりを伝えるために
活用したいと思っています。
今の科学技術のありように疑問を抱き、それが科学不信につながっているビナードさんの気持ちはよくわかります。私も「科学はこのままでよいのかな」と思っています。でも、21世紀に自然・生命・人間の本質を問うには、科学は不可欠です。見直しをした科学を活かし、科学では解けないたくさんの不思議にも眼を向けると、大事なことがはっきり見えてくるのです。それをするのが生命誌の役割です。ビナードさんはそこを見抜き生命誌への期待を語られました。努力します。文学も同じ力があるはずですから一緒に歩きましょうとエールを送りながら。
アーサー・ビナード
言葉は、意味を伝えるためでなく、
謎と向き合うためにある。
身体を通して新たな表現を探る
かけがえのないツールなのです。
科学と生命誌の違いをわかったつもりでいましたが、今日のお話で、より深く思いが伝わってきました。わからない謎に迫る本来の姿を見失い、行き詰まった科学に、「そっちじゃないよ! こっちだよ!」と道を照らし出す。生命誌は、そういう役割を担おうとしている。
中村桂子さんが学者として、人としてやろうとしていることは、「生の哲学」を提唱したアンリ・ベルクソンの哲学に通じる所が多く、科学技術も含めて「生きる」というほうへ引っ張って行こうとする。文学も、それをやらなきゃいけないと改めて感じた、実り多い時間でした。
アーサー・ビナード(Arthur Binard)
アメリカのミシガン州に生まれ、高校生のころから詩を書き始める。ニューヨーク州の大学で英文学を学び、1990年に卒業と同時に来日、日本語で詩作、翻訳を始める。主な著作は、詩集『釣り上げては』(思潮社・中原中也賞受賞)、絵本『さがしています』(童心社・講談社出版文化賞絵本賞)、絵本『ドームがたり』(玉川大学出版部・日本絵本賞受賞)など。エリック・カールの絵本の和訳も手がける。