Special Story
バクテリアから生きものの基本を探る
ヒトゲノムの塩基配列の解析がほぼ終わり、いよいよゲノムに書き込まれている全遺伝情報をもとに生命現象を理解する時代がきました。個々の遺伝子に還元せずに、ゲノムを単位にして“生きものをまるごと見る”という考え方を基本にする生命誌としては、さまざまな分野がさまざまな生物のゲノムについて明らかにする成果から“生きている”とはどういうことかを考えられる面白い時代になったと思っています。
ところで、ゲノム研究といえばやはり中心はヒトゲノム、とくに病気への関心が高い。病気関連の遺伝子の解明は確かに重要ですが、部品の壊れが見つかったので、それをなおそうという見方が強くなると、人間が機械のように扱われる危険があります。あくまでも人間は生きもの。生命誌としては、常にそこを考えていきたいと思います。そこでまず、ゲノムから生命現象をどのように理解していくかという基本を考えるために、バクテリアを取り上げました。
じつは、DNAを基本にした生物研究、つまり分子生物学は1940年代後半から、大腸菌を研究材料として始まりました。大腸菌は単細胞生物であり、実験室で手軽に培養できたので、世界中の研究者が同じ材料での研究結果を比べ合い、研究は急速に進みました。こうしてDNAの複製やタンパク合成など、教科書に書かれている基本的な現象はすべて大腸菌で明らかになったといっても過言ではありません。70年代に入り、発生、免疫、神経、がんなど、とり複雑な現象に関心が移り、幸い組換えDNA技術によってヒトをも含めた真核多細胞生物の研究が可能になって以来、バクテリアの研究は時代遅れという評価になった感さえありました。
けれども、時代は常に巡るもの。ゲノム全体を解析し、全体の働きを研究できるようになった今、バクテリアの研究が次のような点でまた新しい意味をもち始めたといえます。
1)すべての生物に共通な生命現象をゲノム全体の働きとして調べるには、ゲノムが小さくて遺伝子数も少ないバクテリアが向いている(分子生物学の始まりの時と同じ)。
2)バクテリアはすでに40種ほどのゲノムが解析され、まもなく100種になるといわれている。動植物に寄生したり、土中や下水に住んだりと自然界のさまざまな場所にいるバクテリアのゲノムを比較することで、ゲノムの多様性と進化の基本が見えてくるだろう(バクテリアゲノムの大きさは百万から数百万塩基対、遺伝子数は千から数千とばらついているが、ほとんどが1本の二重鎖DNAで環になっている)。
3)生きものの単位である細胞の全体としての働きや挙動を知り、生きていることの基本を理解する。
分子生物学の始まりの頃を思い出し、もう一度バクテリアに大事な答えを出してもらおうというわけです。その先にはヒトにまでつながる複雑な生命現象の理解へとつながる道があります。バクテリア研究のいくつかからそんな意気込みの見られる研究を4つ取り上げました。
まずおなじみの材料から入ろうと「O157」を紹介します。大腸菌なんて腸の常在菌で恐れるに足りないと思っていたところへ突如登場して感染の怖さを再認識させたことを記憶していらっしゃる方も多いでしょう。同じ種の中でもいかにゲノムが多様であるかの見本です。
次いで、「ゲノムの複製開始点」。細胞が増えるためには、まず、ゲノムが2つに増えなければ困ります。ゲノムのもつ能力の中でも基本の基本は複製であり、それがどのようにして始まるかは、生命現象のイロハ、ここでも共通と多様の妙が見られます。
そして「細胞まるごと理解」への挑戦。日本の分子生物学の1期生の一人である、石浜さんが、ゲノム科学の始まりに優等生の大腸菌を再び活躍させようと実験を組み立てます。
そして最後は、進化のメカニズムにユニークな攻め方をしている古澤進化学。大腸菌での実験と理論との組み合わせで考えていくもので、まだ追試もなく定説になっているわけではないことをお断りしておかなければなりませんが。
バクテリアの分子生物学は終わったといわれたこともあったけれど、どうしてどうして、DNAを個別の遺伝子としてではなくゲノムとして捉え、生きているという現象をまるごと見ていくことができるようになり、またそうしなければならなくなった今、また「バクテリアの出番あり」です。それに、ゲノムが解読できたからといっても、バクテリアという単細胞だってすべてわかるなどという時代はまだまだ来そうにもありませんし、地球上の生きものは皆つながっていることがはっきりしている以上、バクテリアから学ぶことはたくさんありそうです。それに彼らに敬意を表しておかないと、O157よりも怖い逆襲もあるかもしれません。
全ゲノム配列が明らかになったバクテリア
バクテリアの全ゲノムが次々と明らかになることにより、祖先細胞の様子もうかがえるようになった。バクテリアのゲノムサイズはさまざまだが、そのいずれにも存在し、祖先を同じくすると思われる遺伝子があり、そこから祖先細胞の最低遺伝子セットは、わずか1000個であると推測された。
( )内の数字はゲノムサイズ。単位は100万塩基対。
(写真=①田端哲之/かずさDNA研究所、撮影協力:関田諭子/高知大学 ②、④~⑦天児和暢/元九州大学教授 ③PPS)
(中村桂子/JT生命誌研究館館長)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。