Science Topics
コオロギの分子生物学
1994年の阿波踊りの頃、擬態の研究をするために輸入、飼育していたハナカマキリの最後の一匹が死んでしまった。皮肉にもこれがコオロギの研究の始まりだった。
昆虫で分子レベルの研究といえばほとんどショウジョウバエ。しかし、そこから得られた情報がどこまで昆虫全般に通用するかはわからない。しかも擬態に関心があったので、形づくりの普遍性より、むしろ形の違い、多様性の生じるメカニズムを明らかにしたかった。それには別の昆虫を材料にしなければならない。今後の研究材料に頭を悩ませていた私たちの目にとまったのは、カマキリの餌として食べられてしまうはずが、生き残ったフタホシコオロギだった。
よく考えると、この餌、必要としていた理想の実験動物に近い。ショウジョウバエと比べて体が何十倍も大きく、形態も異なる。そして、大量購入可能、温度と湿度をコントロールさえすれば年中繁殖が可能で、飼育も非常に簡単である。つまり、欲しい状態の胚や幼虫が1年中手に入る。私たちはまずコオロギの脚の形成について、ショウジョウバエとどこが同じで、何が異なっているかを明らかにしようと研究を開始した。
あれから4年、ショウジョウバエで確立された分子生物学的手法をコオロギに応用しようとする試行錯誤から始まり、現在、徐々に成果をあげつつある。
まず着目したのは脚の基本軸である。ショウジョウバエの足の基本軸決定に関わる一連の遺伝子をコオロギで見つけ、発現を調べた結果、コオロギ脚の前後軸はショウジョウバエと同様にhedgehog 遺伝子がおそらく同じようなシステムではたらいていると予想できるところまできた。さらに脚の遠近軸に沿って発現するホメオボックス遺伝子の Distal-less (Dll ) がコオロギでは、脚の伸長とともに触角とは異なる発現パターンに変化することがわかった。つまり、脚と触角の土台づくり(基本軸の決定)は共通するが、Dll のような遺伝子の発現パターンの違いが、両者の形態の違いを生み出す最初の別れ道のようである。
では、そのような発現の違いは何を目印にどうやってコントロールされているのであろうか。私たちは “位置情報” がヒントだろうと考えている。位置情報とは基本軸が決定した後、その軸に沿う、より細かく正確な「番地」である。しかし、残念ながら位置情報がどんなメカニズムで決められているかはほとんどわかっていない。
現在私たちは、コオロギの幼虫の脚が切れても再生し、かつ外科的手術が可能というショウジョウバエにはない能力に着目している。再生とは、位置情報が再構築されることなので、様々な再生の過程を解析してゆけば位置情報の決定メカニズムに関する手がかりが得られるかもしれない。
ただの餌であったコオロギが、今は私たちに多様な昆虫の形づくりのメカニズムについて重要な情報を与えてくれている。
③コオロギ幼虫を用いた再生実験の一例。後脚を同位置で切断し、左右を入れ替えると、移植した脚の両側に新しい脚(過剰脚;矢印)が形成され、3本脚になる。(写真=丹羽尚)
(にわ・なお/徳島大学工学部生物工学科博士後期課程在籍)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。