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お釈迦さまの教えと生命誌
生き物は長い時間とさまざまな関係の産物である。
ゲノム研究によって明らかになったそのことを,お釈迦さまはとっくにご存じだったのかもしれない。
梶田貫主の説法を中村副館長が聞きます。
法然院山門。日常を離れた空間へのアプローチ。
1. お釈迦さまの智慧
中村
大学院の頃、百万遍の下宿に1年暮らし、このあたりは散歩コースでした。京都もその頃とずいぶん変わりましたが、このあたりは変わっていない。そのために力を注いでいらっしゃるのでしょうね。
梶田
変わらないためには手を加えていかなければなりませんからね。
中村
DNA研究が生き物の基本はみな同じということを明らかにしつつありますが、子供の頃に読んだお釈迦さまの本にはすでにそう書いてあったことを思い出します。科学の最新成果はとうの昔に言われていたということで、その背景に関心がわきます。
梶田
もともとインドに「輪廻」という考え方があって、生き物はこの世での形としての命が終わったら、また次に生まれ変わって違う形として生きていくのだということが自然に信じられていました。
中村
人間が自然の中で生きていた時代は、おのずとそう感じられたのでしょうね。輪廻思想を前提としてそこから脱け出す方法を説いたのが佛教の始まりなのですね。
梶田
そうですね。生きていったら、必ず老いて死んでいかねばならない。物は必ず移り変わっていく、お釈迦さまはそこに、物は現象としては存在しているが実体としては存在していないという、「空」なる存在のあり方を見出されたわけです。輪廻する生を苦とみなして、それを根本的に解決する方法ということで、佛教をお説きになったわけです。なぜ輪廻するのかということについて、お釈迦さまは、物は縁起として存在しているからであるとおっしゃった。原因と条件が整うことによって物は存在しているので、その条件の一つでも欠ければその物はそういうあり方では存在できない。原因と条件は、刻々変わっていくものであるから、一瞬一瞬、同じものでありつつ、また次の瞬間には違うものとして存在している。今の私と次の瞬間の私というのは、同じ私でもあり、また違う私でもあると言えるのです。
中村
科学は簡単なモデルを使い、因果、つまり、ある原因があれば必ず一定の結果が出るとしてきたわけですが、生物学でも縁のようなことを考えなければ事柄が説明できないことがわかってきました。たとえば、卵から個体ができる発生で、基本の情報はもちろん DNA(ゲノム)にあるわけですが、実際にその途中には、偶然も含めてさまざまな要素が影響を与えます。つまり、因・縁・果という関係です。これが生き物の姿なのだと思いますが、やはり科学の方法論としては、因・果をきちんと押さえることが大事で、そこに縁がどう関わるかを見ていきたい。それが生命誌です。
2. 全体と私
梶田
現在の私を成立させているものは、狭く言えば身近にある縁ですけれども、広く言うと、親を生活させ一生を送らせた縁があり、またその親を成立させる条件というふうに無限に広がるわけです。そうなると、空間的には現在の私の周りのすべての環境、時間的には全歴史を背負った私というものが、今ある私であるということになってきます。華厳経に説かれている縁起の考え方というのは、私の周りの全体が私である、つまり宇宙全体の一つの現れが私であるというところにいきつきますので、一切即一・一即一切という言い方になっていくんです。
中村
DNA研究が、まず全生物の共通性を明らかにしたわけですが、それだけで終わるのではなく、多様性、さらには個のもつ意味を考え始めています。同じということは大事ですが、その中での個を考えなければ日常の気持ちにつながりませんから。
梶田
宗教というのは、世の中に不思議なことはいろいろあるけれども、自分自身が生きているということがいちばん不思議だなというところから出発すると思うんですね。その時に、今の科学とどこが違うかというと、自分自身は過去のあらゆる歴史やあらゆる空間的なものを背負った存在なんだということを別に証明しなくても心の中で自覚してしまって、そこから進めていくということですね。
中村
それをこつこつと調べているのが科学者なのかもしれません。でも今、私がもっているDNAに40億年の歴史があるという実感をもてるということは大きいと思っています。その中でどのような変化があり、私という存在につながってきたかを解いていきたいのです。
梶田
変わっていかなければ物は存在できないとお釈迦さまはおっしゃっていますよね。存在の本質ですね。だけれども、人間の感情としては、好ましいものは不変であることを求めるために、変わることが苦しいわけですね。
中村
変わるけれど、その中にある私、それをないものと思ってしまわずに、変わるダイナミズムの中に、ある平衡を保って存在する私、つまり個体、を見事だと捉えてもよいと思うのです。無の意味の大切さはわかりますし、お釈迦さまに盾つくわけではありませんが。
梶田
それはそのとおりです。縁によって存在するそれぞれの個体の不思議さ。それは本当に見事といってよいものです。
3. 日常の表現
中村
科学も宗教も、難しいという印象をもたれますが、じつは日常的なもののはずですね。科学は新しい知ですから、自然や人間の本質に十分迫るところまでいくのが難しかった。やっと身近なこと、たとえば、多様な生き物がいるということを科学の言葉で考えられるようになってきました。それで多くの方がいらして、一緒に考えたり楽しんだり不思議がったりする場所がよいと思って「生命誌研究館」にしたのですが、梶田さんもお寺でそのようなはたらきかけをしていらっしゃるようですね。
梶田
お寺も昔は、人の常識としてあの世や神さま佛さまがいらっしゃった中にあったわけですけれども、現在はあの世があるということがもう常識じゃなくなった時代ですね。その中にあって、今我々がもっている時間の感覚とか自分というものの日常的捉え方―どこどこ会社の誰それとしての役割を日常的に果たしていく自分、家族の中で父親としての役割を果たしていく自分―そういうことを離れて、一つの命としての自分を考えていただく場所としての役割が大きくあると思っているわけです。法然院の場合はまずここに来て、庭を見ていただいて。
中村
そうですね。ここにいるだけで、落ち着いてきます。そして少し考えたくなる。
梶田
それからその庭の背後にある山のことを思ってください。目に見えているものの後ろにある目に見えないものを感じていただいたり、イメージしていただくということが大事です。禅の庭は塀で囲ってあるところに宇宙が表してあって、昔の人にとって、それを見て宇宙を想像したり自分の命を確認するということは、わりと容易なことだったと思うんです。今いきなりそういうことを思いなさいと言っても難しいので、アプローチできる空間が必要でしょう。さらに、人間は何を考えていったらいいのかという時に、人対人との関係、他の命とのつながりを大事にしていく。そういうことをお寺で考えていただきたいと思っているので、コンサートとか写真展とか何でもやっています。お寺の敷居が高くなってきて、なかなか来にくいところというイメージがついてしまっていますが、本当は生きている者が楽しむ場所だと思うのです。
中村
大学などいろいろなところがそのような場としてはたらいている社会がいいですね。
4. 伝えていくこと ― 佛教のルネッサンス
梶田
日本の佛教の不幸は、昔はエリートだけの宗教でしたから漢文で読めることが当たり前で、日本語に訳す必要がなかったことです。本当に理解することは難しいですが、やはり宗教である以上、伝える努力が必要です。それを怠ってきたということは確かにあります。
中村
DNA研究も遺伝子治療など社会と直接結びつく問題が出てきた時に、欧米では、ヴァチカンがどう判断するかということが意味をもちます。日本ではそういう形での宗教と社会のつながりがあまりありませんね。日常の中に宗教がないという気がするのですが。
梶田
今まで、日本では厳密な意味では佛教が必要なかったですからね。ご先祖のことを拝むことによって安心してきたわけです。自分はまた子供に弔ってもらってご先祖さまになるという形が日本人の宗教心だったので、自分自身が特定の佛や神を信仰することは全然求められてこなかったんです。戦後の高度経済成長で家が解体するまでは。
中村
なるほど。それは気づきませんでした。ところが今は家、先祖という支えが壊れてきたので、どうしていいかわからない。そこで、みんな迷って何かを求めている。
梶田
佛教の教えを見直す人も出てきて、お寺としても、今本当に佛教を説いていかないといけない時代だということに若い坊さん方が気がついてきています。我々の一代前までのお寺は、ただ法事をして、先祖を供養しているだけで成り立っていたんですけどね。
中村
社会が変化している中で、日本の佛教も今転機なんですね。
梶田
ルネッサンスですね、いわば。本当の意味ではじつは今まで佛教はなかったんです。ただ、お寺には来ていただいてましたけれども。先祖を拝むために来てはったんですね。だから南無阿弥陀佛であろうと禅のお経であろうとね、何でもいいわけなんですよ。お寺へ行ったら、何か知らんお経があって、何となく先祖が弔われているんだなという気分があれば、もう十分満足していただいたんです。
中村
コンサートを入り口にして、新しい佛教と社会の関係を築こうと。
梶田
来ていただいたら、佛教のヒントを入門として喋らせていただきますからね。そこに見えているあの木とあなたの命とにどういう違いがあると思われますかとかね。
中村
長い歴史をもつ佛教の生き物の見方と、科学から見えてきたものとが合致するという興味深い時代に生きる者として、日常から生命について深く考えることのできる社会になればと思いますので、いろいろ教えていただきながら、いつかご一緒に何かやりたいですね。
①澄み切った水の湧き出る井戸。
②現代画家,堂本印象の描いた抽象画が襖を飾る。
③講堂は市民のギャラリーとなっている。写真展や絵画展の予約でいっぱい。
(写真=外賀嘉起)
梶田真章(かじた・しんしょう)
1956年京都生まれ。法然院貫主。大阪外国語大学ドイツ語科卒業。「法然院森の教室」「アート・イン・法然院」など,幅広い活動を通じて,仏教やお寺の新しい可能性を探っている。