Research
熱帯雨林の植物研究
圧倒的多様性と消滅の危機
熱帯雨林での研究は,大変な労力と時間のかかる仕事です。 未知の世界に取り組む研究の現状を,植物分類学者が語ります。
湿ったひややかな空気がゆっくりと流れていく。まだ薄暗いが,鳥の声はあたりにうるさいほどだ。誰かがごそごそと起きだした気配がする。まもなく熱帯の強い日差しがこの深い森林の中にも差し込んでくるはずである。
数日前から私たちはボルネオの熱帯雨林の真っただ中に宿営中である。痩せた尾根のわずかな平坦部を少しばかり切り開き,切った木の幹はベッドに,残った樹木は柱にしてビニールを張っただけの仮小屋だ。数日間このキャンプの周囲を歩き回って植物標本を採集するのである。熱帯の植物はかさばるものが多く,全員でがんばっても一日に数十点採集するのがせいぜいである。
熱帯雨林は地球上でもっとも陸上植物の多様な森林である。高さ70mにも達する巨大高木層をはじめとして,おおよそ5層にもなる複雑な階層構造が発達している。多くの樹木はつる植物をまとわりつかせ,枝の上にちゃっかり根をおろした着生植物も多い。熱帯雨林の特徴の一つは,狭い面積に異常な数の樹木がひしめいていることである。ボルネオ島のサラワク州(マレーシア)にあるランビル国立公園で,52haの調査区に生えている胸高直径(胸の高さで測った直径)1cm以上の樹木36万本すべてを調べた例では,なんと1200種もあった。これは日本列島に生育する木本植物の総数に匹敵する。温帯とはくらべものにならない圧倒的な多様性の世界なのである。
なかでも,スマトラ,マレー半島,ボルネオ,ニューギニアなどからなる東南アジアの湿潤熱帯地域(植物地理学的にマレシア区系と呼ばれ,一年を通じて温暖で湿潤な環境)は,全陸地面積のわずか2%を占めるにすぎないが,全世界の維管束植物の14%にあたる3万5000種がここにあるといわれる。研究者によっては4万種以上ともいう。数が確定しないのは,この地域に生育する植物がまだよく調べられていないからだ。ある地域に生育する植物種全体を調べ上げたものを植物相というが,マレシア区系の植物相をカバーする大事業「マレシア植物誌」計画は1950年に開始され,現在オランダ国立植物研究所を中心に世界の植物分類学者が協力して継続中である。すでに半世紀を経ているにもかかわらず,いまだに終了していない。少なくともあと40年はかかるだろう。
その間に熱帯雨林はどんどん伐採され,今では湿潤熱帯地域を訪れても見事な熱帯雨林は珍しいものになりつつある。熱帯雨林が貴重なものとなるにつれ,生物資源・遺伝子資源としての価値も上がり,各国政府はその保護と管理に乗り出しているが,植物相の調査はなかなか進まない。植物相の研究には十分な数の標本が必要なのだが,マレシア地域で得られている植物標本は,あまりにも豊かな植物相の前にまだまだ絶対数が足りないのだ。
木材として重要なフタバガキ科などの高木はかなり研究が進んでいるが,あまり有用でない植物や,よい標本の作りにくい植物はほとんどわかっていない。91年からマレーシア,日本,アメリカが3国共同で長期にわたり生態調査を行なってきたボルネオ島のランビル国立公園を例にとってみよう。私もこの計画には92年から関わってきた。熱帯雨林の林床植物として重要なグループにショウガ目がある。その代表的な科の一つがショウガ科で,ランビルには46種が生育していることが調査の結果わかったが,その40%以上にあたる20種が新種だった。しかも1種はこれまで知られていない新属である。植物体が大きく採集が面倒であるうえ,柔らかで繊細な花は普通の押し葉標本にするとつぶれてしまうため,これまで研究に適当な標本があまりなかったのだ。
熱帯雨林の林床にみられるショウガ目の植物
① Orchidantha inouei(ロウイア科)。大きな花弁を発達させ一見ランのように見えるが,雄しべは5本あって明らかに違う。動物の糞のような匂いを出し,だまされたフンコロガシに花粉を運んでもらうという変わった植物。ランビル国立公園の航空機事故で亡くなった故井上民二氏を記念して永益氏らにより命名された。
② Boesenbergia sp.(ショウガ科)。ランビル国立公園のBoesenbergia 属では唯一黄色の花をつける小型の植物。名前はまだなく,おそらく新種。
③ Hornstedtia minor(ショウガ科)。薄暗い林床の赤い花序と花はよく目立ち,鳥が蜜を求めて訪れる。
④ Etlingera brachyanthera の花序を掘り出す共同研究者の酒井章子氏(スミソニアン熱帯研究所)。
⑤ 地中を伸びる長い花序は2-3mにも達し,根本から花序をたどりようやく花を見つけだすこともある。
標本を採集して蓄積していくには,長い時間とかなりの費用がかかる。世界の主要な植物研究施設では,100年以上にわたって標本を蓄積し,数百万点の植物標本を有しているところが多い。現在も熱帯地域を中心に調査隊を派遣して新しい標本を収集し,植物相研究の拠点となっている。これらの標本は貴重なコレクションとして多くの研究者に利用されている。標本の維持管理にはかなりの費用がかかるので大学では荷が重い。日本でも長期的視点にたってこのような研究施設の充実をはかるべきだ。
昨年6月には,「ブルネイ樹木誌」計画の一環として企画されたブルネイ政府の植物採集調査に同行した。石油資源に恵まれているせいか,ブルネイでは熱帯雨林がよく保存されている。この計画は軍の全面的な協力を得ており,軍事用ヘリコプターを利用して,あっという間に奥地へと移動した。密林の尾根上に作られた小さなヘリポートに着陸するのである。バックアップ態勢のよさにブルネイ政府の資源管理にかける意気込みが感じられた。もっともそのあとは重い荷物をかついで採集してまわる,いつもと同じ植物調査だったが。
熱帯雨林での調査旅行
⑥ブルネイにはまだまだ手つかずの熱帯雨林が残されている。伐採の進んだサラワクとは対照的だ。
⑦密林の中にわずかに伐り開かれたヘリパッドに,軍事用ヘリコプターで移動する。原生林の真っ只中まで市街からわずか15分。
⑧ヘリコプターはほんの短い時間しか留まってくれない。大慌てで集めた植物やキャンプ用具をみんなで積み込む。
⑨林の中を歩き回る一日が終わると,採集した植物の整理が待っている。間違えないようにタグを確認しながら新聞紙に挟んで押し葉標本をつくる。
⑩宿泊用の仮小屋は少しでも平坦な場所を探して設営する。
⑪調査を終えて迎えのヘリコプターを待つ間に記念撮影。ブルネイ,マレーシア,オーストリア,日本の植物学者と,協力のブルネイ空軍兵士。一番右が永益氏。
(写真1~11=永益英敏)
(ながます・ひでとし/京都大学総合博物館助教授)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。