展示や季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。
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【人形劇「死と再生・生きものたちの物語」】
生きもののことに触れるようになって、とても驚き、当たり前だと思っていた基本的な考え方がひっくり返ってしまったことがありました。それは、「死なない生きものがいる」ということです。生きているものは必ず死ぬ。これは、1+1=2というくらいに、自明のことと思ってきたのですが、そうではなかったのです。このびっくり仰天したことと、死ぬのはいやだという気持ちと。そこで、生きものの死というものがどういうものかを知ることで、自分が死ぬということを、少しでもきちんと捉えることはできないか。それが、今回の企画の出発点でした。 そこで、まず、研究者の人たちに、お話を伺いました。そうしているうちに、生きものは生きようとしている。そのための工夫のひとつが死なのだということが見えてきました。だから、死は生殖に深く結びついていて、生殖の仕方は種によってさまざまで、それぞれに工夫された戦略があります。 それを細胞という観点でみていくと、単細胞のバクテリアは、一つが二つというふうに分裂していくので、基本的には全部自分。種全体が、一つの多細胞体とも見ることもできそうです。一方多細胞の生きものは、死すべき体細胞体としての個体があり、その個体は、必ず死ぬが、生殖細胞に託して、種としては生き続ける。単細胞であれ、多細胞であれ、生きものは、種として生きていく。 他の生きものと一緒に、死の進化的意味を考えると、個体の死は種の存続のために必要なことだというのは、理解できるのですが、こと日常のこととなると、自分の死も身近な人の死も受け入れるのは簡単ではありません。 生きもの全体のなかで人間の死について考えていくと、共通性とともに、人間の特殊性が浮かび上がってきます。死ぬからこそ、個が生まれ、個としての意識、つまり私が生まれる。しかも神経系の発達した人間は、私という意識が強く、自分が失われることを恐れます。 しかし、その個は、連綿と続いてきた種という存在の中で生まれたのであり、それを存在あらしめているのが、死。個としての存在に意味があるとすれば、その限られた時間を最大限に生かし、個性を発揮して次へ繋いでいくことなのだろうか。人間は、生物としてつながるだけでなく、さらに、文化によって、つながっていくこともできる。死によって区切られた時間だからこそ、個としての意味が生じ、終わりがあるからこそ、今という時間が輝く・・・。 などと、答のない自問を繰り返しながら、人形劇の形にしてみました。ぜひ、ご覧ください。 関連ページ 人形劇「死と再生・生きものたちの物語」 [高木章子] |