展示や季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。
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【分子生物学と複雑系の科学】
科学の世界では、実証されたことだけしか語らないという了解事項がある。実証されていない仮説をペラペラ喋ると、いかがわしい者と見られる。そのために、ある遺伝子を壊したときには、形はこうなるといった事実の記載が優先する。その記載をみた人は、この遺伝子が形を決めていたのだと短絡的に考えはしないだろうか。この繰り返しで、生き物は精巧な機械で、機械と生物の間には量的な差はあっても質的な差はないというイメージをもってしまうこともあるかもしれない。 分子生物学がこうしたイメージの形成に一役かっているかどうかはともかく、都市化した日常生活は、ヒトを機械と見なして進んでいると多くの方々が指摘している。今さら言うまでもなくそうなのだと思う。 あるTV番組で、高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問をした。この話が話題に上ったとき、「そもそもそういう質問をすること自体、常軌を逸している」という結論になった。当然の反応だと思うが、この高校生には殺人を肯定する気持ちなどなかったと思う。自分には機械にはないどんな価値があるのかと問いたかっただけではなかったか?そう素直に問えず、皮肉を交えただけのような気がする。 私のような者が、こんな偉そうなことを書くのは気が引けるのだが、「日記」なので自分の感じていることを素直に述べると、今、生物学の世界でも、この高校生と似たような思いから、生物の見方に対する揺り戻しが来ているように思う。 生き物の一部分をいくら詳細に見ていても、生物の本当の姿はわからないのではないか。そこで、複雑系の科学に期待が寄せられ始めた。ある瞬間のある限られた領域で起きていることは、すべて因果的に説明できる分子の反応だが、だからと言って、全体として見ても同じで、全体が予測できる機械のように振る舞うということにはならない。生き物はもっと動的で活き活きしたものだ。複雑系の研究者は、自分のもつ活き活きとした生き物のイメージと研究の成果が一致していないと不満なのではないかと思う(次号の生命誌ジャーナルに登場する茂木健一郎さんは、どちらかというと複雑系のグループに入ると思うが、意外にも大変な昆虫好きということだ。もっとも、本当は意外でも何でもないのかもしれない)。 しかし、複雑系の研究のように、トップダウン的に理論から攻めるような方法は、細かい事実を積み重ねていくボトムアップ的な研究をしている人からは胡散臭がられる。また逆に、トップダウン的に進めている人は、ボトムアップ的な研究などどこが面白いのかという風に見る節がある。 やはり次号の生命誌ジャーナルに登場する中田力さん──熱対流の法則など面白い仮説(複雑系における証明は間接証明なので本当は証明されているが、通りがいいように仮説としているという)を提出されている──は、このことについて、まさにそういった壁があるために“学際的”にはなかなかならないと返事を下さった。 しかし、状況は少しずつ変化してきている。「情報」の概念について問い直すなど、今から20〜30年前に大きくとりあげられたことが、今再び話題になってきている。“学際的”になるのも時間の問題かもしれない。 次号の生命誌ジャーナルは「脳」を切り口にしているが、その中で上田哲男さんの粘菌の研究をとりあげた。どうして粘菌?と思われるだろうが、変ないい方だが、粘菌はまさに単純な複雑系で、脳とも関連があるかもしれないと感じたからだ。 例えば、三角形の頂点に相当するところに餌を置いておくと、粘菌の変形体は、3つの頂点を最短距離で結ぶような形態をとる。ちょうど、ベンツのマークの輪っかを外したような形だ。これは、数学的に正しい。しかし、中には、数学的な正解に到達せず、私のように短絡的に解答を出し、三角形を描くあわてん坊もいる。何となく人間の直感的ひらめきに似ていないだろうか?実は、私は、人間の脳に数学的直感が生まれる原理と共通のものがここにあるかもしれないと思っている。 もちろんこれは空想過ぎないが、粘菌がトップダウン的研究とボトムアップ的研究をつなぐ橋渡し的役割をしてくれるかもしれないとは思っている。ジョン・C・エックルスやG・M・エーデルマンといった脳研究者も最終的には人間として生きることの価値は何かという疑問を発した。正反対のベクトルをもつこれらの研究がつながることで、もっと活き活きとした生き物のイメージが描けるようになるのではないかと思っている。 つい長くなってしまい申し訳ないが、これが生命誌ジャーナル34号の編集に当たって感じたことだ。 [鳥居信夫] |