研究セクターのスタッフが、日常で思ったことや実験の現場の様子を紹介します。
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生命誌の『誌』は、歴史の『史』ではなくて、『ものがたり』という意味を含んでいるの」
小さい頃から、ものがたりを読むのは大好きだけど、歴史の暗記は大の苦手だった私にとって、その言葉は衝撃的でした。ことある毎に中村館長がおっしゃる言葉ですが、私が初めて聞いたのは大学四年生の時なので、かれこれ四年ほど前のことです。その時はただなんとなく、その言葉やコンセプトが素敵だなと思っていましたが、最近になってようやく、それじゃあ『ものがたり』って、具体的にどういうこと?ということを考え始めました。
私が生命誌を語るなんておこがましいですが、私が生命誌研究館に入りたての頃、「生命誌の研究はどういうことをすればいいのですか?」と、おそれ多くも中村館長(当時は副館長)に聞いたことがあります。その時、「ここでやる研究は全部生命誌」と答えられました。もしかしたら、そんなに深い意味はなかったのかも知れませんが、「生命誌って何?」ということへのはっきりした答えを期待していた私は「??」と思いました。それから、ずっと考え続けていましたが、今は、生命誌についてそれぞれの人が一生懸命考えること自体も、生命誌なんだよ、と言われていたのかな、と思っています。なので、私なりの生命誌、を勝手に考えているわけです。
さて、『ものがたり』って?という話に戻りましょう。『史』は事実そのもので、情報を蓄積し、知識を得るためのものだと思うのですが、それでは、『ものがたり』からは何が得られるのでしょうか。先日、岡田節人顧問が、「みんな『知って』はいるけど、『感じて』おらんのです」とおっしゃっていました。この、『知る』と『感じる』の差が、『史』と『誌』の違いではないかと私は思います。『ものがたり』から得られるものは、まさしく『感動』ではないでしょうか。いきものについて知り、感動することが、生命誌なのかな、と最近は思っています。
人によって、感動する場面は様々ですよね。「人が月に着陸した」「ウミガメが卵を産んだ」「庭の桜が咲いた」・・・すべての人が同じように感動するなんてありえませんが、そこには必ずその人が共感できるドラマがあるはずです。逆に言えば、自分と共感できるドラマがなければ、いくら良い話であっても、自分の「ものがたり」にはならないのではないか、と思います。私は、生物の研究をしているので、自分の研究に近い論文を読むだけでも、「この遺伝子がこんな働きをしてるんだって!」とか、「これだけ調べるのにこの人たちはどれだけ苦労したんだろう」「これって偶然みつけたっぽいよな・・・」とか、いろいろとドラマを想像して、マニアックなことで感動してしまいます。でも、自分が感動するだけでは、なんだか物足りないのです。もっと多くの人と一緒に、いきものの巧妙さに感動したい、非常に贅沢かもしれませんが、私は欲張りなので、そう思ってしまいます。
では、どうやって感動を共有するのか。一番重要なことですが、その答えを私はまだ見つけられていません。方法は、もちろん一つではないと思います。この、生命誌研究館の活動はまさしくその答えの一つですが、私は、それにぶら下がるだけではなく、ずっとずっと考え続けていきたいと思っています。
[脳の形はどうやってできるのかラボ 大学院生 山口真未]
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