館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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【初めて知った御近所のメタセコイア並木】
2009.9.1(9月15日追記)
先週の土曜日、思いを同じくする10人ほどで街を歩き、フィールド・ミュージアムの展示としてプレートをつけられる場所を見て歩きました。成城の街は成城学園(1917年に創設され、1925年に今の場所に移転)と共に始まったので、100年足らずの歴史です。でも、生け垣をつくるなど、できるだけ緑の多い街にしようという計画の中で植えられた桜並木は今ではがっしり、春は、遠くへお花見に行かなくとも、花のトンネルを楽しめます。1年、2年でなく、10年、20年先を見ての街づくりがあったからのこと。長い時間を見ることの大切さを感じます。 ところで、今回みごとな樹を見て歩いて気づきました。桜、マツ、イチョウ、モミジなど日本の庭にありそうな樹の他に、堂々とそびえているヒマラヤスギとメタセコイアが意外に多いのです。両方とも、古くから日本で植えられてきた樹ではありません。ヒマラヤスギは、「ヒマラヤ地方原産で日本には明治の初めに渡来、庭園樹として広く植栽された」とありました。芝生の庭にヒマラヤスギを植えるのが超モダンだったのでしょう。一方メタセコイアは、アメリカのヨセミテ国立公園を思い起こしたのですが、これも調べたら意外でした。1939年に日本で化石が発見され、1945年になって、中国四川省の「水杉(スイサ)」が同種とされて、1949年に国が挿し木、皇室が種子を譲り受け全国各地に植えられたとあったのです。それから60年。成城の樹々はそれより若いでしょう。よく育ったものだと大木を見上げました。昭和天皇はこの樹をとても愛されたそうです。因みにヒマラヤスギはマツ科、メタセコイアはスギ科ということも知りました。確かに木肌を見れば前者は松そのもの、後者は杉です。名前に惑わされないようにしないと。 大蔵団地という古くからの公団住宅の裏が、湧き水でできた池の脇にメタセコイアが並ぶ23区内とは思えないホッとする場所になっていました。歩いて30分ほどのところなのに、今回初めて見てびっくりです。池でお父さんと男の子がザリガニ釣りをしていました。サキイカの小さいのを糸の先につけて。「いやあ、僕の子どもの頃と同じだ」と喜ぶ人、「僕はまずカエルをつかまえて、その肉で釣った」という人。バケツには10cmほどのザリガニが、もう三匹入っていました。これもアメリカザリガニ。「1930年に食用ガエルの餌として移入された」と事典にありました。カエルとザリガニの関係、逆転してますね。 ヒマラヤスギ、メタセコイア、アメリカザリガニ。それぞれの歴史がありますが、いずれも最近取り入れたものです。メタセコイアは同種があったようですが。今、生物多様性とからめて外来種が問題になっていますが、新しいものへの関心、実用性などから外のものを入れるという行為は、以前から行なわれてきたのだと改めて思いました。それで外来種についてはどう考えればいいのとなると・・・。要は、私たちの生きものとの接し方の基本が問題なのだろうと思います。みごとな緑の並木をつくっているメタセコイアを見上げながら、生きもののことは難しいなと思ったことでした。 <追記> これを書いた後、たまたま送られてきた雑誌を見ていたら、「東大のキャンパスからヒマラヤスギ追放の主張がある」という記事がありました。「日本の気候風土や伝統とまったく関係がないばかりか生態的にも貧相で虫も鳥も寄りつかないし、見た目も大味きわまりないものをどうして日本の大学が許しているのか。」というのだそうです。確かにそう言えなくもありませんが、ここまで言われるとヒマラヤスギの肩を持ちたくなるのが人情というものです。やはり生きものは難しいと再度思いました。 【中村桂子】 ※「ちょっと一言」へのご希望や意見等は、こちらまでお寄せ下さい。 |