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  4. PAPER CRAFT 絶やすのはたやすい消えた動物 ステラーカイギュウ





生命誕生からおよそ40億年、この地球にいるすべての生きものも同じだけの時間を経てここにいます。人間もまたその生きものの一つです。ところが人間の活動は、多くの生きものの暮らしに影響を与え、中には種を絶やすほどの行いもありました。絶滅というと「恐竜の絶滅」のようにはるか過去の事件のようにも聞こえますが、実は今まさに絶滅しつつある生きものがいます。私たちが気づかない間に消えてしまった生きものも数多くいるはずです。紙工作「絶えるのはたやすい消えた動物」では、人間の些細な都合で絶滅してしまった生きものをつくります。いなくなってしまった生きものは取りもどせません。今、私たち人間も生きものとして自然のなかに生きるとはどういうことか、改めて考える時です。

1. ステラーカイギュウ

18世紀に絶滅したステラーカイギュウは、現存のジュゴンやマナティと同じ海牛目(ジュゴン目)の哺乳類です。「海牛」と言いますが、牛に近縁の鯨やイルカの一種ではなく、アフリカに起源をもつゾウの祖先から海の暮らしに適応した仲間です。

ステラーカイギュウを最初に記載したのはゲオルク・ヴィルヘルム・ステラーで、その名に因んでステラーカイギュウと呼ばれます。ステラーは、1741年にベーリング海峡の由来ともなるヴィトス・ベーリングによるロシアの北方探検隊に生物学者として同行しました。シベリアとアラスカが陸続きか否かを証明するため氷の海を進む過酷な旅で、難破した先のコマンドル諸島の無人島で指揮者ベーリングを失い、帰国の機会を待ちながら島の生きものを調査しました。翌年には修理した船でロシアに帰りつきましたが、功を妬む何者かの策で投獄されるなどの悲運のうちに、帰国翌年1743年に病気で亡くなっています。航海中、コマンドル島の動物について「De Bestiis Marinis(海の獣類)」に詳細な記録を残しました。ステラーカイギュウについての唯一の学術的な報告であり、解剖を通して生理学的考察を行い、行動を観察したものです。しかし、生前にはロシアの科学アカデミーに受理されず、出版までには没後10年近くを要しました。ステラーはステラーカイギュウを「マナティ」と呼んでいましたが、ジュゴンやマナティとは別種であることを理解していました。分類学の父リンネが動物の命名法を提唱したのは1758年であり、まだ分類の基礎が築かれていなかった時代です。一方で、コマンドル諸島に多数の海棲哺乳類が生息することはステラーの帰還直後に知れ渡り、ロシアの狩猟者が毛皮目当てに押し寄せました。結果として発見からわずか27年後の1768年に「マナティ」が滅びてしまったことをステラーが知ることはありませんでした。

 

(図1) ステラーカイギュウが生息した地域

青がコマンドル諸島(最後の生息地)、赤は化石の発見地

2. ステラーの観察

マナティやジュゴンが温暖な海に棲むのに対して、コマンドル島の「マナティ」は寒冷地に適応しており、厚い皮膚をもち大量の脂肪を蓄えていました。観察された個体から体長は最大9メートル、胴回りは7メートル、重さは推定3トンと巨大であり、海の浅瀬や河口で背中を水面に出して浮かんでいたそうです。厚い皮膚はオークの幹のようで丈夫でしたが、時に引き潮で陸に取り残されると身動きできず全く無力で、陸上では生きられないことを指摘しています。餌はもっぱら昆布などの海藻であり、歯がない口で食いちぎりすりつぶして食べました。大型で葉の長い特定の種類を好み、海藻が少ない冬には骨が透けて見えるほど痩せ細っていたそうです。ステラーはここから、魚を選ばずに食べるアシカやアザラシなどの肉食獣とは異なり、生息域が限られると考えました。また、食べると肉は臭みがなく美味であり、長期保存に耐えることも草食のためと考察しており、草食という性質がこの種の寿命を早めることを予見していたようです。

一夫一婦性で子供は1匹ずつ産み、子供を囲むように群れをつくって暮らしていた様子が観察されています。草食獣らしくいつも食べ続けており、満腹になると浮いている大人しい性質でしたが、人間が鉤縄で捕らえようとすると、鉤を引きちぎったり、傷ついた仲間を助けるために縄に体当たりをしたり、自らの危険を顧みず激しく抵抗して助けようとしました。仕留められたメスが岸に寄せられ食料のために肉が切り取られていようとも、オスがそばを離れず、その様子を見てステラーは夫婦愛と表現しています。仲間を思い助けるために人に近づく性質も、容赦無く傷められ狩られ絶滅へと向かった一因と言えるでしょう。

3. 絶滅の原因

絶滅の直接の原因には、毛皮目当てにラッコやアザラシを捕獲する目的でやってきた狩猟者が食糧として乱獲したことが挙げられます。容易に手に入る大量のご馳走として狩り尽くされたということです。それだけでなく人間たちが無駄に傷つけることで死に至らせたことも指摘されています。一方で、狩猟によるラッコの減少が原因という説もあります。ラッコの餌は主にウニで、ウニの餌が海藻であることから、ラッコいなくなるとウニが増えて海藻を食べ尽くすためです。ステラーの報告から、ステラーカイギュウたちは冬には痩せ細るほどそもそも海藻は不足しており、さらに減ることで飢餓のために絶滅したということです。食物連鎖の破壊による生態系への影響が共絶滅につながる例として警鐘を鳴らしています。いずれか証明は難しいかもしれませんが、直接手を下したにせよ間接的に死に導いたにせよ、知られてからわずか27年で消えてしまったのは、人間の仕業であることに疑いはないのです。

4.化石からDNAヘ

ステラーカイギュウなどの寒冷地に適応して大型化し、海藻を食べることで歯を失ったカイギュウはすでに絶滅しており、化石の研究からヒドロダマリス属というグループに分類されています。ヒドロダマリス属は、約200万年前の更新世以降の氷期と間氷期が繰り返される気候に適応し、生息地を拡大していました。実は、ヒドロダマリス属のカイギュウの化石は日本で多く見つかっており、ステラーカイギュウの化石も見つかっています。中でも東京の多摩川で2006年に発見された化石は、130万年前と推定され最も古いステラーカイギュウの記録です。千葉の房総半島の化石と北海道広島町の化石は、約700万年前のチバニアン紀のものです。

近年、残された骨からDNAが取り出され、研究が進んでいます。DNAの比較を用いた系統解析の結果、ステラーカイギュウを含むヒドロダマリス属は、マナティよりジュゴンに近い仲間に分類されました。また、遺伝子を調べることで脂肪を蓄積するための代謝や厚い皮膚をつくる遺伝子に特徴が見つかっています。また酸素を運ぶタンパク質であるヘモグロビンが、血液に溶けやすく温度変化を受けにくく変化していました。体のすみずみやお腹の胎児に酸素を効果的に運び、熱をつくることができたようです。ステラーカイギュウの肉について、とりわけ赤かったといわれた理由なのかもしれません。

(図2)海牛目の系統

5.絶やすのはたやすい

発見からは短命であったステラーカイギュウですが、たかだか20万年前に出現したホモ・サピエンスよりはるか昔から生きていたのです。動物学者のスタイネガーによる推定では、発見時にはコマンドル諸島の限られた環境にわずか1500頭が残されていたとされ、いずれ絶滅する運命だったとも考えられます。とはいえ人の手によってたやすく途絶えさせてしまったことを忘れるわけにはいかないのです。



 

参考文献


Georg Wilhelm Steller De Bestiis Marinis (1751)

Miller W. Miller JE. Royster P. The Beasts of the Sea (1899)

Turvey ST. Risley CL. Modelling the extinction of Steller's sea Biol Lett. 2005 2(1):94–97

Estes JA. Burdin A. Doak DF. Sea otters, kelp forests, and the extinction of Steller’s sea cow Proc Natl Acad Sci U S A. 2015 113(4):880–885

Signore AV. Morrison PR. ... Campbell KL. Evolution of an extreme hemoglobin phenotype contributed to the sub-Arctic specialization of extinct Steller's sea cows Elife 2023 12:e85414

Duc DL. ... Shapiro B. Schöneberg T Genomic basis for skin phenotype and cold adaptation in the extinct Steller’s sea cow Science Advances 2022 8(5)6496

甲能直樹 多摩川で大海牛の全身骨格化石を掘る-世界最古のステラーダイカイギュウの発掘調査-

 

  

 


 

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