TALK
仏教の時間・生物の時間
CHAPTER
1.因果を結ぶ縁
永田
生命誌研究館は、今年、開館30周年を迎えます。その節目に、季刊誌では「生きものの時間」というテーマを立て、昨年は「生まれるまでの時間」、今年は「生まれてからの時間」を考える記事づくりに取り組んでいます。研究館の30年の営みを振り返りながら、一つの生きものが生まれてくるまでの発生の時間や、多様な生きものが関わり合い進化してきた時間を総合的に考える企画です。生きものにとって、時間とは、非常に重要な問題で、前回は、京都大学で素粒子がご専門の橋本幸士さんに、物理学の時間について伺いました。今日は、私たちの日々の生活にも重なる仏教の時間と生物の時間がどんな風に交わるかとお話を伺って考えたいと思って参りました。宗教の中でも仏教は、時間ということをもっとも体系立てて捉えているように思いますが、梶田さん、いかがでしょうか。
梶田
仏教には、一刹那から一劫まで、という時間を説く言葉があります。劫とは、一つの宇宙の始まりから終わりまでを一劫とすると表現される、途方もない時間で、一劫が、何劫も続くのが仏教の世界観です。一方、刹那とは、一つの指をはじく間に60刹那あるという。
永田
65刹那など、いろいろな説があるようですね。
梶田
元々は、劫という長大な時間の中で、一刹那をいかに大事に生きるか。今の一瞬をどう生きるかを説くために、刹那という時間を強調してきたのだと思います。
永田
現代では、刹那的なという意味から、「刹那刹那を楽しまなくては損だ」と刹那主義という言葉まで出てきましたね。
梶田
言葉は、使い方次第で、時代と共に意味も変化しますが、お釈迦様の本意は、「今を生きよ」ということです。想像力を持ってしまったが故に、過去に囚われ、未来を憂い、なかなか今を生きられないのが人間だと。未来がどうなるかは諸行無常でわからない。だからこそ「今を精一杯、生きよ、今をあきらめて、未来をあきらめるな」とお釈迦様は教えられたのだと思います。
永田
仏教では、死後の世界にも数々の段階がありますね。輪廻転生する六道や、地獄も八大地獄と言われ8種類も考えられている。死後の世界をそこまで具体的に示すのは、逆に今をしっかり生きよということなのでしょうか。
梶田
輪廻思想が生まれたわけは、この世の生だけでは因果の辻褄が合わないからで。善行も、悪行も、直ちにこの世でその報いを受けるわけでもない。昔のインドの人は、この世がなぜそのように不条理なのかと考えたのです。人間は、意味付けや納得を求める生きものです。前世・現世・来世の連関を通じて因果の法則が成り立っていると信じることで納得しようとしたわけです。前世、現世の業によって、次の世でどの界へ行くかが定まると。特に悪行については、その度合いによって、報いとして地獄のあり様が多様な物語として思い描かれた。
永田
今の世では、その人の正しい評価は得られないということが前提に考えられているということですね。今の世で、あんな悪行をしている奴がいい目を見ているけれど、次の世ではきっと罰せられると思うことで、今の自分の生を肯定したいということでしょうね。
梶田
そもそも人類が、なぜ宗教を必要とするか。それは、この世が不条理だからです。そこを、どのように自分なりに納得していくか。キリスト教であれば、運命は神様が決めることだと信じて、悲しくても、神が与えた試練だと納得して受け止める。一方、うまくいったら神が与えた祝福であると。その点、インドの人は、誰かの思し召しに帰することなく、すべて私の業、行いの集積が結果を生じさせていくと考え「因果応報」、あるいは因果だけで合わない辻褄は縁次第であると、これを「因縁」と捉え、それぞれの存在が生じ起こっている因縁生起を略して「縁起」と、「すべては縁起であります」と捉えます。単純な因果でなく、因と縁が合わさって結果が生じると受け止めるのです。仏教では、うまいこといけば縁があった、そうでなければ、今日のところは、その果を結ぶ縁がなかったと言うわけです。
2.椿が人で、人が椿であった時
永田
例えば、キリスト教は、現世を生きるための宗教だという印象を受けますが、死後、浄土へ行くか地獄へ行くかは現世の行い次第という仏教は、むしろ、現世以外の世界に重きを置いており、現世は仮の世だという印象が強いですね。
梶田
インドの人が、2000年程前に、極楽を構えられている阿弥陀様の物語をなぜつくったかと言えば、当時のインドでは、この世に生きる希望がなかったから。来世に、希望ある世界が用意されているという物語をまとめることで、人々に希望を与えたのが阿弥陀信仰だと思います。人間社会は、それぞれが自己中心的な損得勘定で生きる限りは、いつどこで、また不条理な世界が巡ってくるかわかりません。悲しいことではあるけれど、争い事の絶えない人間社会では、現在も、阿弥陀様の物語は希望となることかと思っています。
永田
もう少し、仏教における時間について伺います。先程、刹那という言葉でおっしゃった短い時間について、現代科学では、例えば、1000兆分の1 秒を表すフェムト秒や、もっと小さなゼプト秒という時間まで計ることができるようになりました。短い時間は現代物理学が勝っているけれど、長い時間への想念ということで言えば、断然仏教が勝っている(笑)。劫という長大な時間は、この宇宙の誕生から現在までの138億年を超える、計り知れないスケールの時間ですね。
梶田
一つの宇宙の始まりから終わりまでが一劫で、阿弥陀様は、五劫の思惟、つまり五劫の間、自分の浄土のデザインを考え、次に、永劫の時間を掛けて修行し、今から十劫の昔に成仏したとの阿弥陀の物語という、壮大な時間の流れと対比させて今の一瞬をどう生きるかを説かれたのです。
永田
しかも、梵天様にとっては一劫がたったの一日であると。それがどれくらいの長さかを計る喩えで、芥子粒を数えるという…。
梶田
四十里四方のお城に芥子粒を満たして、100年に1回、一粒取り出していくという…。
永田
そのすべてが無くなるまでの時間を「芥子劫」と言うんですね。それから、石垣を、100年に1回、さらりと布で撫でて削れて無くなるまでの時間が…。
梶田
「盤石劫」ですね。削れても終わらない長大な時間の喩えですね。
永田
この宇宙の中で、自分は芥子粒ほどに小さく、瞬く間の存在に過ぎないというインドの人々の、その想像力はいったいどこから湧いてくるのでしょう。
梶田
これまでの行いによって、ちょっとやそっとの修行では清められない悪業が私たちの中に溜まっているという意識が、そこまで長いこと考えて修行しなくては成仏できないという阿弥陀様の物語をつくらせているのだと思います。
永田
私たちのような凡人は、阿弥陀様ほどの悟りは思いもよりませんが、果たして、自分が浄土に行けるかどうかは、それなりに切実な問いですね。
梶田
それはご信心次第で。元々、仏教が六道を言ったのでなく、お釈迦様は、インドの人々に信じられていた六道輪廻転生の世界からいかに解脱するかを説かれたのです。輪廻を、仏教では生死(しょうじ)とも言い、私たちは、生まれては死ぬということをくり返す、永遠の生死の中で、たくさんの業を溜め込んでしまっている。それをいかに清らかにしていくか、そのための長い修行の果に成仏するというのが阿弥陀様の物語ですが、一方、空海の密教のように、即身成仏、この世で直ちに成仏できますという教えもありますから、仏教と言っても、どのような信心によって来世を考えていくかで、まったく違って参ります。
お釈迦様は、これが私の最後の生涯でありますという言葉を残していらっしゃいます。お釈迦様もずっと輪廻をくり返し、この時、真理に目覚め、仏陀となって解脱し、輪廻を離れたということですので、私もそういう状態を目指そうとするのか、別に私はこの世の生は苦しみではありません、くり返されても結構ですという方は、浄土へ行くことが希望にはなりませんし、阿弥陀仏を信じず、南無阿弥陀仏も唱えず、業を重ね六道を輪廻することになると仏教では説いております。
永田
科学では客観的であることが大事ですが、仏教では、何を、いかに信じるかが大事なのですね。
梶田
今、人間としての私がいるということは、昔、私は、天にいたかも、地獄にいたかもしれない連関の中にいるということを納得して、輪廻の物語を生きることであり、そうすると、今、私は人間で、庭に、椿が咲いているけれども、あの椿が人で、私が椿だった時もあったかもしれないというような、周りの生きものとのお付き合いの仕方、すべての生きとし生けるものとの仲間意識が自ずと育って参ります。これは、仏教の輪廻思想の善いところで、仏教を説くうえで、私なりに、自分を納得させる物語の一つでもあると思っております。
3.自分の中にあるわからない自分
梶田
「自業自得」という言葉は、自分にも悪いところがあったからこそ、その報いに遭うという意味で使われます。昔の人は、自分の中には善も悪もあることを受け止めていましたが、現代人は、法律さえ守っていれば善人だという意識なので、なぜ善良な私が酷い目に会うのかと思ってしまう。今の日本人は、善行は自分のせい、悪行は誰かのせいだと思いたがる傾向が強いようです。
善くも悪くも、仏教では、すべては縁起、因縁で、それを受け入れられないのは、私たちに愛があるからだとお釈迦様はおっしゃいました。愛するから、嬉しい、苦しい、悲しいとなる。つまり私たちは、自分に都合のよい物語をつくらないと生きていけない生きもので、自己中心的で自己愛に基づいて生きている。人間は、その時々でどうなるかわからないのだから、自分なりの都合で物語をつくってはいけないと、お釈迦様はおっしゃったのですが。
永田
親鸞に「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉がありますね。これは、どんな悪業を積んだ人も、信じさえすれば成仏できるという理解でよいのでしょうか。
梶田
いえ、信じる時、何を信じるかが大事です。二つ信じるのです。まず、自分を悪人だと信じます。
永田
自分を悪人と信じるのですか。
梶田
悪人は普通の修行、つまり自力修行では悟れませんから、仏の力、他力を信じるほかないというように信心が定まっていく、というのが親鸞の説いた仏教です。ご自分を善人と思う方は他の宗派でも成仏できます。だから、貴族は、仏像をつくり、写経し、お布施し、平等院が建ち、中尊寺が建ちと、要は、自力修行は、法然までのお金持ちの阿弥陀様の拝み方で、一方、庶民は、農作業や狩猟に明け暮れ殺生して生きるしかありません。殺生をくり返して生きることは、仏教的には悪人です。現代では、法律を守っていれば、なんぼ鳥や牛を殺しても善人だと思っていらっしゃいますけど、なるべく生きものを殺さずに暮らしましょうという不殺生戒がお釈迦様によって定められていますから、それを破って生きるのは悪人です。つまり、普通に暮らしていたら悪人です。仏教では、口で言うことも、口に出さず思うだけでも業なので、誰かを憎いと思ったらもう悪業で、輪廻のどこかでその報いを受けることになります。ですから、比叡山天台宗で自力修行に明け暮れた法然が、自力修行しても私は自分の心は制御できない悪人だと納得したわけです。
そして、この悪人、愚か者にふさわしい仏さんは阿弥陀様しかいない。悪人を何とか救いたいと願ってくださる阿弥陀仏の本願を頼りに救われるほかないといと信じるに至ったわけです。
永田
なるほど。つまり他力本願の本質は、自分は悪であり、愚か者だと自覚することが大事で、信心すれば救われるという単純なことではないのですね。
梶田
生涯を通して一番厄介なのが、自分の心です。それを自分で整えられると思うか、いや自分の中には、自分では制御しきれないところがあると。つまり意識下の私と無意識下の私がいるということを受け止め、わからない自分を抱えながら生きてくんだと、法然は比叡山で修行した結果、そのように納得したのです。親鸞も比叡山で修行した結果、納得して、法然の弟子になった。要は、ご自分を善人と問うか悪人と問うかで、これが自力修行か他力信心かという仏道の分かれ目になります。
永田
自分の悪は、現世の自分の責任というより、前世の業が今の私の中にあるという理解でよいのでしょうか。
梶田
そうです。そして、現世でも悪を重ねてしまいます。なぜなら、私たちは自己中心的で、そこから逃れることはできません。だから、お釈迦様は、愛ではなく、慈悲に生きなさいと説かれました。特定の対象を愛するのでなく、すべての対象を慈しみ、悲しみ、一切衆生との成仏を願って生きなさい、「一切衆生とともに目覚めよ」と説かれたのです。しかし、法然、親鸞は、この世の自分にそれはできないことだと納得して、このような愚か者を悲しんで阿弥陀様が浄土を構えて待ってくださっていると信じた。
永田
なるほど。まさに『蜘蛛の糸』の世界観ですね。
梶田
悪人、愚か者を救うことが、阿弥陀様の本願、つまり根本の願い、あるいは悲しい願い、悲願だと信じましょう。本気で阿弥陀仏を信じて、とにかくあなたに帰依しますという信心は、自分を善人と思う人では定まらない。自分を悪人と信じた人が、私が仏になる唯一の方便として阿弥陀仏の本願を頼みに信じていくのが他力本願の信心です。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉は親鸞の言葉として流布していますが、元々は、法然にそのような言葉があって、それを受け継いで親鸞もそうおっしゃったわけです。
4.万人に共通の物語・それぞれが必要とする物語
永田
梶田さんは、仏教を説くお立場から、私は、前世では、椿であったかもしれないという風におっしゃいましたね。しかし、生命誌研究館という立場で科学的にものを言うと、椿もヒトも、それぞれ別種の生きものとして、先祖代々、世代を超えて受け継がれるゲノムDNAに基づいて生きており、もちろん進化という長い時間の中では遺伝情報も変化し、新しい種が誕生することもありますが、基本的には、ヒトはヒトゲノムを、ツバキはツバキゲノムに基づいて生きるほかないという。一方でヒトと猿の遺伝子上の違いはたったの1パーセントでしかないということもわかっている。このような科学による生物学の知見と、仏教の輪廻思想とを、仏教学者でもある梶田さんの中では、どんな風に納得しておられるのでしょうか。
梶田
科学というのは、この世界の因果や、生命の在り方を納得させてくれる、人間が培ってきた素晴らしい知恵の働きだと思っていますけれども、一方で、人は、同じことをやって同じ結果が出るとは限らない人生を生きていかざるを得ません。それを自分なりにどう納得していくのか、そのための物語が必要だと思うのです。
人類共通の因果を納得させる知恵の結晶である科学という物語と、一人一人が生きていくうえで、それぞれの在り方を納得するための物語である宗教と、人類はその両方を必要としているということではないでしょうか。
自分にふさわしい物語といかに出合い、信じるかで心豊かに生きていく。人間って、基本的に善いこともするし悪いこともする、縁によってころころ変わる生きもので、お互いにそれを認め合っていこうというのが一切衆生を成仏させる阿弥陀様の物語です。自分も悪人、あんたも悪人やね。うちも自己中、あんたも自己中ね。大阪風には、私はあほや、あんたもあほみたいやねと。あほ同士、怒りたいところを笑い飛ばして、この世を何とか生きていこうという一つの知恵は、上方漫才が表現する人間文化だし、法然、親鸞の仏教も、この世で反りが合わなくても、来世には、わかり合える、目覚める世界が用意されていると信じることでお互い寛容になれる。来世を極楽と信じ、この世でどんな人との縁を培っていけるかを大事にしているのが、法然、親鸞の仏教だと私なりには思っております。
永田
因果の因がどのように果に結び付くかを探求していくところに科学がある一方で、私にとっての真理はこれですという、科学の届かないところにあるのが宗教ですから、科学と宗教に整合性がある必要はありませんね。
5.「できる」けれど「やらない」という選択
永田
ふだん私たちが感じている時間とは、まず、刻一刻と過ぎ去っていく直線的な時間であり、もう一つに、1日、1年の周期で巡る、円環する時間があると思います。特に日本人は季節の移り変わりに敏感です。更にもう一つ、私は、手渡す時間ということがあるように思っていて、それは、先人が築いてきた時間を、私たち一人一人が受け取って今を生き、これを次に手渡していく。この手渡す時間は、直線的な時間と円環する時間を橋渡しする鍵になるようにも思うのです。
そのように考える背景の一つに、今、生命科学の分野で、寿命ということが注目されています。寿命は、宗教にとっても重要なテーマの一つではないでしょうか。
近年の研究により、寿命に関する遺伝子がかなり解明され、例えば、老化を、自然現象としてでなく病気と捉えて、関連遺伝子を操作することによって寿命を伸ばすことができるというような知見も出ています。皆が、120歳まで生きられるようになるかもしれないというように。しかし、宗教的な観点からは、寿命とは、抗い難く受け入れるべきことになるのでしょうか。
梶田
それも科学技術の因縁によって決まっていくことなので、そのことを受け止めながら、今を生きるほかないぞという当たり前の話に帰結すると思うのです。手渡す時間ということをおっしゃいましたが、私たちの死は、あとの者に生きる場を与えることにもなりますから、そこを考えずに個人の寿命を延ばすことに執着する、即ち自分が生きたいという思いは、人間の抱えている煩悩の一つですからね。
永田
難しい問題ですね。地球の全人口が80億を超えて、単純に、皆が長生きすることが必ずしもよいことであると言えないことは確かですね。
梶田
それでも生きたい方は生きるでしょうし、そこまでして生きたくないと思う方もあるでしょうし。寿命に限らず、人間のあらゆる関心事は、それぞれの煩悩のなせる業で、執着することで、喜びも、苦しみや悲しみも生まれてきますから。例えば、ある人の言い方だと、認知症にならないなら長生きしたいということになりますね。
永田
それは今、本当に難しい問題ですね。
梶田
人はそうやってずっと生きてきたし、科学技術も発達させてきたわけですね。科学とは、世界のなんたるか、人のなんたるかを納得させてくれる大事な学問ですけれども、その結果生じた科学技術は、それによって人を幸せにも、不幸にもするということかと思っております。
永田
地球の資源は一定なので、例えば、先進国で、遺伝子を操作して長生きさせると、もう一方で、資源が不足し、若者や子供まで生きることが難しいという状況も起こりかねず、資源や廃棄物の問題だけでなく、他の人による介護を必要とするという可能性まで含めて、他の人々の生きる可能性を狭めていることになるかもしれない。地球全体で、上手に科学技術を生かしていくことが、私たち人類にできるのか。大きな課題ですね。
梶田
できるけれどもやらないという選択が、人類にできるのかが、現代では、問われていますね。新しくできることはどんどんやろう、進歩させようという流れで、これまで来てしまいました。でも、これからは、やればできるんだけれども、それをやることが本当に人類の未来の幸福につながるのかどうかを、人類全体で問うて、使えるけど使わないという判断ができるのかということが問われていると思っています。
6.生きものにとっての円環する時間
永田
今、生命誌研究館で「生まれてからの時間」という企画展示を開催しています。その中で、概日時計と呼ばれるしくみを紹介しています。地球上の生きものは、それぞれが体の内に時間を計るしくみを持っており、このしくみによって、自分の体内の時間周期を制御するだけでなく、お日様が昇っては沈むをくり返す、1日24時間の周期や、さらに1年間の日長の変化を感知して、自分の時間を、環境変化にうまく同調させて生きているのですが、その概日時計のしくみを制御している遺伝子の働きが、分子レベルでかなりわかってきています。動物か、植物か、バクテリアかで、そのしくみの詳細は異なりますが、それぞれの生きものが柔軟に、環境の時間を自分の時間に取り入れて生きているのです。
「生きものの時間」を考える時、一つの生きものが生まれてから死ぬまでという直線的な時間に加えて、巡りくる時間をいかに生きるかが、生きものにとって大事だということを、概日時計というしくみは物語っていると思うのです。
日常的にも、例えば、今年、見る桜は、同じ桜でも、去年、見た桜とは違って見えます。1日、1年と、一周り巡ることで少し進んでいる。そんな時間を生きることで、自分が歳を重ねていくことも実感できるようにも思うのです。私はそれを「螺旋の時間」と言ったりしてきました。時間とは捉えがたいものですが、生きものと時間とは切っても切れない縁で結ばれていますね。
梶田
仏教の世界観としては、要は、生成と消滅をくり返しているのがこの世界であり、今、私たちがいるこの世界というのは、三千大千世界のうちの一つの小さな世界に過ぎません。
永田
三千大千世界というのを一人の仏様が担当しているということですね。
梶田
小さな一つの世界を1000個合わせて小千世界、それが1000個合わさって中千世界、さらにそれが1000個合わさって大千世界で、これを三千大千世界と言います。その広大な世界の中で、私たちは輪廻転生しているわけで、今、私が人間として、この世に生まれたというだけでも、めったにない、ありがたいことなので、この機会を生かして、輪廻を抜けて真理に目覚めたいと思うかどうかが、お釈迦様によって問われているのだと思います。
7.自然そして共生
梶田
阿弥陀仏というのは、成仏しているけれども成仏していないという不思議な仏様なのです。
永田
どういうことですか。
梶田
阿弥陀様は、浄土を構えているという点では、一応、成仏していますが、阿弥陀様の悲願、本願は、すべての衆生の成仏なので、その悲願が達成されるまでの間、私たちの成仏を待っていらっしゃいますので、阿弥陀仏は無量寿仏とも呼ばれます。つまり無量の寿命、永遠の命をもって、一切衆生の成仏を遂ぐという、私たちの心の奥底にある悲願が結晶化したものが阿弥陀様で、その働きは皆が成仏したあかつきには、その存在自体がなくなるという。これが、インドの人々が思い描いた阿弥陀様の物語なのです。
永田
未完を前提にしている物語なのですね。梶田さんのお話を伺いながら、仏教の時間を考えると、永劫の時間の中で、浄土という未来を信じつつ、今、現実の時間を生きるということになるのですね。
梶田
それと、もう一つの時間、過去世の因縁によって、その業を背負って今の私がいるということを見つめ直して、これからの私の生き方を考えるということになります。
永田
今、自分は、縁あってここに生まれてきたものであると。未来にも、過去にも、思いを馳せつつ今を大切に生きるということですね。
梶田
今、これからを生きるうえで、悪業でなく、善業をということでは、なるべく生きものを殺さない、嘘をつかない、なるべくお酒を飲まないというように、お釈迦様の説く五戒を守ることは、即ち、この世の生活を律することで、なるべく人に迷惑を掛けず、傷つけることなく、他者の命をないがしろにせず生きていくことになりますね。仏教の教えの基本に、支え合いこそが大事ということがありますから。ほかの生きものを食べたりして暮らしていくのが私たちですが、一方で、育てるということもできるわけで、これが共に生きる、共生という当たり前の関係にもなり、そのためのお釈迦様の教えとして、慈悲、慈しみ、悲しみが実践できること、「慈悲を実践して生きよ」ということがあります。
永田
慈悲とは、含蓄のある言葉ですね。慈しむとは、実際に何か物を与えることではありませんね。
梶田
柔和な顔をするだけでも慈しみ、慈悲を実践できると、仏教はそれを勧めております。
永田
もう少し、仏教でいう自然についてお聞かせください。
梶田
日本語の自然という言葉には、例えば、「鴨川の自然」と言った時、歩いている人も含むか、人は除いて、鴨川の自然と言っているのか、どちらの意味にも取れますが、一般的には、「自然と人間の共生」という言い方に表れるように、人間が外側から自然を守るか破壊するかと、自然とは別に人間がいるという前提で、自然という言葉が使われる場合が多いようです。しかし、私の信心では、自然は、名詞的な個物の存在を指す言葉でなく、生きものを支えるしくみ、生きているしくみを、自然というのであって、自然が豊かだと言う時、それは、生きものがたくさんいることではなく、お互いが支え合って、因縁、縁起がうまく働いているということだと思います。皆さんに、そのような意味で、自然という言葉を使っていただけると善いなというのが、長年の私の自然という言葉への思いです。
永田
人間も含めて、生きものは、皆、それぞれ単独では生きられない、お互い関わり合って生きているという、そのような生態系のしくみを象徴的に物語る一例として、研究館では、イチジクとイチジクコバチの共進化のしくみを解明する研究も行っています。イチジクの花は、花嚢と呼びますが、果実のように袋状の球体の内側にたくさんの小さな花が咲きます。これでは、花粉が外に飛べません。ところが、イチジクの花嚢を子育てのゆりかごに利用するコバチがいて、イチジクの花で育った次世代のコバチが花粉を別のイチジクまで運んで受粉させるのです。コバチは住む場所と栄養をイチジクからいただき、イチジクはコバチに受粉を助けてもらうという共生関係で結ばれています。
今、梶田さんがおっしゃったように、人間も、そうした小さな生きものたちが関わり合って成り立つ自然の一部だということを物語る科学の知見を、自然を豊かにするために生かす社会の実現が理想ですね。生命誌研究館の目指すところです。
梶田
今のお話は、それこそ30年くらい前に、岡田節人先生に申し上げたら、えらい喜んでいただきまして、あなたも研究館の催しに出なさいと、呼んでいただいた思い出が蘇って参りました。いつも派手なお洋服を着られて。
永田
真っ赤なポルシェに乗って、緑のジャケットに赤いパンツという、とんでもない出で立ちで、本当にユニークな方でした。実は、僕の学生時代の博士論文の主査だったのです。
梶田
それも、ご縁ということですね。岡田先生と中村先生と名コンビでいらっしゃいましたね。
8.寺に訪れる時間
梶田
お寺にいますと周りの生きものと付き合いながら暮らしていくことになります。毎年、同じ季節が巡り、その中で、私が生きていることのありがたさを感じます。もう一方で、人というのは、来年は、今年と違うこと、新しいことをしたいと思って暮らしていく生きものでもあります。しかし、それだけでは疲れてしまうので、やはり、くり返す時間の流れの中で、私は生きているということを感じたいと思う。そんな時、例えば、京都のお寺に花が咲いていることで、自分もこの花とともに、くり返される生命の時間の中にあるということを思い出させてくれる。そのような意味で、いろんな方が、時々、お寺に来られて、この空間に身を置くことで安らぎを覚える。それが、今の日本のお寺の存在価値の一つだと思っています。
永田
とても印象深いお言葉です。人間は、秩序から離れたところでは生きていけないけれど、単調なくり返しの中でも生きていけず、常に新しい出会い、それは新しい時間との出会いを求めているということでもありますね。
梶田
お寺に花があるだけでも一つの意味はあるのですが、坊さんとしては、インドの人がつくった仏教という物語をお伝えすることによって、更に、その方の生きていく時間感覚を養っていただくことができればと思っております。
永田
四季の巡りと共に行われるさまざまな年中行事を通して、仏教が日本人の時間意識を養ってきたところは大きいですね。
梶田
やはり、日本人の時間感覚は、四季を愛で、年中行事のくり返しの中で何となく、特定の神仏ではなく、ご先祖様や村の鎮守様や周りの生きものや、さまざまなおかげ様で暮らしていますという感覚を培ってきました。地域の中で人が暮らし、同じ場所で生涯を送った時代はこの宗教でよかったのですが、今は家族がばらばらに住み、家や地域との絆も薄れ、自分の生き方は個人が選ぶ時代なので、地域の宗教、家の宗教から個人の宗教への転換が求められています。それに日本のお寺、坊主はどう応えていけるのか。仏教が説く物語が、現在においても、いかに人々が生きていく拠り所となり得るかが、今、問われています。その中で、仏教的な時間感覚を皆さんにお伝えすることが、それぞれの方が過ごされる日々の暮らしの豊かさにつながる手掛かりになるようであれば、坊主にも存在意義があるかなという風に思っております。
永田
今日は、仏教の壮大なスケールの時間から、瞬きする間の一瞬の時間まで、生きものにとっての時間を考える手がかりとなる面白い話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました。
写真:大西成明
対談を終えて
永田 和宏
先人が築いてきた時間を
今、一人一人が受け取って、次に手渡していく。
この「手渡す時間」は、直線的な時間と円環する時間を
橋渡しする鍵だと思うのです。
劫から刹那まで、仏教ほど時間の階層構造を精緻に組み上げ、そのなかで人間の営みを捉えている宗教は他にないと思ってきた。その興味深い仏教の時間について、直接お話を聞けるのを楽しみに伺った。我々が知識として知っている仏教の時間を、梶田貫主にあっては、まさに日常の時間として生きていることに改めて驚かされたが、そんな永劫の時間に己の生を置いてみるところから、仏教の教えが立ち上がってくるのだということを納得させられた一日であった。
梶田 真章
永劫の時間の中で、
刹那という一瞬の時間をいかに大事に生きるか。
お釈迦様は、今を、精一杯生きよと、
教えられたのだと思います。
中村桂子名誉館長との対談「お釈迦さまの教えと生命誌」が掲載された1996年8月1日刊行の季刊「生命誌」13号から27年、永田和宏館長とも佛縁があり、対談のお相手を務めさせていただき、誠に有難く存じます。永田館長のご期待に沿えたかどうか、心許ないことですが、一刹那から永劫まで、佛教経典に説かれている時間についての物語が少しでも皆様に伝われば幸いです。貴重な時間を賜りありがとうございました。
梶田真章(かじた・しんしょう)
1956年、京都府生まれ。法然院貫主。1980年大阪外国語大学ドイツ語学科卒業、法然院執事となる。1984年法然院第三一代貫主(かんす)に就任。境内の環境を生かして、芸術やさまざまな学問の交流の場として寺を開放するなど、現代における寺の可能性を追求している。多くの市民団体にも参加し、法然・親鸞の教えを語り続けている。