Column Special
岡田節人の歴史放談(4)
波瀾の時代に生まれた波瀾の発見
Boris I. Balinsky(1905~1997)
次ページの図⑤は1匹のイモリの幼生のスケッチである。しかし、よく見るとおかしなイモリであって、肢を5本もっているのだ。本来なら肢が付いているはずのない横腹に5本目の肢がにょきっとできたのだ。これはある実験のなんとも奇想天外な結果として起こったのであった。その実験とはイモリの胚の横腹に、胚の耳の原基を移植したのであった。この実験を行なったのは、当時キエフ大学(当時はソ連、もちろん現在はウクライナ)の未だ卒業前の学生であったボリス・イヴァン・バリンスキー(以下BBと略)で、なんと20歳にも達していなかった。
建国後間もない当時のソ連は、学問への評価は案外健全かつ公平に機能していたらしく、この実験の結果は直ちに世に知られることになり、BBによる発生学研究は大いに力づけられた。1925年にはドイツで刊行されるこの分野でのバイブル的権威をもった雑誌に論文は発表され、同年にはウクライナ科学アカデミーのメンバーとなり、新しく奨学金を得た。そして、この研究のさらなる発展のために必要な器具であり、当時天文学的な価格であっただろうと思われる、ドイツ・ライツ製の双眼顕微鏡が(おそらくソ連政府によって)彼の使用に供されるべく購入された。
ボリス・イヴァン・バリンスキー。1930年代。
動物の個々の器官が発生するのは、それ以外の場所にある細胞組織からの刺激を必要としている、という発生における誘導関係の重要さはすでに指摘され、大いに注目されつつある分野であったが、それにしても5本目の肢を(耳で)横腹に誘導させたことの成功は、なによりも一見して視覚的に訴えるものであり、器官の誘導という発生の基礎原理の存在を、誰の眼にも直裁的に知らしめたのであった。
波瀾の日々
BBは1905年キエフで生まれる。父は教師で、ギムナジ
ウムで西欧の歴史を教えていて、幼児期から豊かな西欧文化に触れることがあった。英国人家庭教師から英語やテニス(!)を学んだという。加えて夏の休暇をクリミヤ地方や、さらにスイスでまで送った経験は、BBの生物自然への関心を誘発したであろう。蝶を採集し、蝶の図鑑を見ることは、彼の生物学への関心を促したのであったが、それは1916年のこと。この翌年ツァーは退位し、キエフにおいてはボルシェビキとウクライナ民族派との間の内戦が3年間続く。
キエフ大学で。
1923年にはキエフ大学にて、動物学の勉強を始めた。教課目一般は別に面白くもなかったが、教授陣のなかにはシュマルハウゼン(Ivan Schmalhausen)がいた。彼こそはロシア一ソ連における発生学の大パイオニアであって、すでに紹介したグルヴィッチ(季刊『生命誌』25号)を含めて、ロシアーソ連の発生学研究の中核をなす研究者のほとんどは彼の影響下に輩出している。そのなかにはアメリカに亡命して、後年集団遺伝学において、大をなすかのドブザンスキー(Theodosius Dobzhansky)もいた。
要するに、ソ連の最初期時代はイデオロギー的抑圧もなく、とりわけてキエフでは学術文化の花が咲いていたのだ。そう言えば今世紀最大のピアニストとも言えるホロヴィッツも同時代のキエフ生まれで、カユの地で活動を開始していた。
このような文化の花咲く時代は、長く続かない。
BBは1933年には大学助手、1935年には講師、大学動物学教室の副主任として、発生力学(実験発生学)研究部門の長となり、肢の誘導の研究は続けられた。同年には全ソ連若手科学者会議で発表するなど個人的にも順調な進展である。
しかし、スターリン指導下のイデオロギー的抑圧は暴力的にすさまじいものになっていく。1937年10月には妻カチアはある朝突如として、かの悪名高き秘密警察NKVD(日本ではケー・ベー・ウーの名で知られる)に位致され、数年を収容所で過ごさなければならなかった。
1939年にはナチス・ドイツはポーランドに侵攻。BBは魚類の発生と(肢ではなく)、消化器官の発生力学研究という2つの新しい研究テーマに取り組んでいて、後者の研究では、1940年にはソ連アカデミーからカワレフ賞を受けている。
③ロシア時代のスナップ。④図04:1940年代。
1941年にナチス・ドイツはキエフを占領。以後10年間のBBの生きざまはすさまじい。占領下のキエフ、後にはポーゼンで水産研究所に職を得て、魚類の発生研究を続けたが、やがては東からのソ連軍の侵攻を受けベルリンへ、そして1945年2月にはチュービンゲンへ逃れ、亡命者のための難民収容所で過ごす。同年12月には国連による難民のための大学にともかく職を得て、戦災を免れた数台の顕微鏡を与えられて、組織学、発生学の教育を行なう。1946年にはヨーロッパ在住の発生学者たちに履歴書を送って職を求める。戦争が終わった直後の政治経済の極度に不安定な時代にもかかわらず、英国のワディントン(C. H. Waddington)はBBのかつてのキエフ時代の見事な研究をよく記憶していて、彼を自らが所長となったばかりのエジンバラ動物遺伝学研究所の研究員として招いたのであった。これこそ西欧の科学研究が国際性を自明としたうえで行なわれていることを証明するもので、今日言うところの国際性とは、それに比べてなんと魂の抜けたものであることか。そしてBBの経歴を辿ることは第二次世界大戦のヨーロッパの歴史のおさらいをしている感がある。
南アフリカへ
1949年に南アフリカ・ヨハネスブルグのウイットウォータースランド大学に、講師、後に教授の職を得る。そこでそれ以前の波瀾をつぐなって余りある平和な日々を送った。その間、当時南アでは他に行なわれていなかった電子顕微鏡を用いて、卵細胞の構造を研究した。彼の少年時代からの生物自然への愛は、生物学の道に入る動機であった。アフリカの自然は、彼にこの原点的関心を大いに喚起した。それが動機となったはずの、南アフリカ産の両生類の発生の比較実験発生学の研究があり、ここでは自然への関心とキエフ以来の実験発生学の体験と成果が見事に結びあわされている。1955年にイギリスで発表された、このテーマの論文は、このような視点はシュマルハウゼン以来のロシア発生学を特徴づけていたところであって、学術的なユニークさは目立っている。
BBは、80歳を超えてから2回にわたってお里帰りをしたが、日本を訪れることは無かった。しかし、日本の発生学研究との交流は驚くほど密であった。肢の誘導の発見を直ちに引き継いで、大規模に展開した2人の研究者のうちの1人は日本人であった(高谷博)。
この肢を誘導する、というすさまじい効果をもつ物質の本性を明らかにした2つのグループの1つは、日本人のものであった。じつに1990年のことであって、BBの発見以後約65年の歳月を経てである。この研究の日本のリーダーであった野地正晴は、この5本目の肢をDASOKUと呼んだ。これには翻訳不可能なニュアンスがあるが、日本人ならではの味わいのある見事な表現だ。BBがスターリンの暴政の始まる頃に取り組み始めた消化器官の研究も日本で発展した。そして、それは私自身の研究の揺籃期のものでもあった。
⑤イモリの過剰肢の誘導実験。
1925年、バリンスキーはイモリを使って、将来耳や鼻になる組織を幼生の腹に移植すると、過剰な肢ができることを発見した。
⑥バリンスキーの名著「発生学」(岩波書店)。
BBの残した半頁程度の長さの英文で書かれた要旨(本文はウクライナ語!)からスタートした私の研究は、1950年代の中期に完成度のあるものとなった。BBはまた、今も不朽に残る『発生学序論説(An Introduction to Embryology)』(W. B. Saunders Co.)という、じつにバランスのとれた名教科書を南ア時代にものした(林雄次郎訳『発生学』岩波書店、1969)。世界各国語に翻訳され1971年までに1万部が売れた。この著の中で、私の処女的研究が一種の古典として紹介されており、実際1940年代終わりに私がこの彼自身と同じテーマの研究を始めた時以来、励ましと称賛を受けてきた。同一テーマの研究者の間で、このような関係が成立するのは今も昔も珍しいことである。
私がエジンバラで勉強していたのは、彼がこの地を去ってからかなり後のことになるのだが、古いスタッフは彼のじつに良い思い出をもって記憶していた。人物としても、このような波澗の生を送ってきたにもかかわらず、じつにスィートであったらしい。南アの天地は彼の原点的関心であった蝶を中心とした生物自然への興味を改めて呼びさまさせたらしく、蝶やトンボについての報告を書いている。1997年9月ヨハネスブルグで没。
この稿の執筆は、BBと共に南アの同じ研究室で助教授として過ごし、彼の後継者となったB・ファビアン教授の一方ならぬ力添えによる。彼はBBのお嬢さんであるH・デヴィッドを私に紹介してくれ、彼女からはじつに貴重なBBの写真と数多くのメモアールを送って頂いた。この稿の完成は両人の絶大な協力によっている。心から感謝する。
自宅の庭で遺伝研究のためにチョウを飼育した。
⑧1978年。
(おかだ・ときんど/JT生命誌研究館館長)
※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。