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TALK

見えない世界に自由を描く

森 重文京都大学高等研究院院長
中村桂子JT生命誌研究館館長

 

1.見えない世界

中村

38億年前から続いてきた生きものの一つとしての人間であり、その連続の中で人間を考えるのが生命誌ですが、やはりその中で人間の特性を考えますと学問があります。ただ学問も自然や社会を対象にする点で共通点があり、例えば生きものをさまざまな切り口で見るさまざまな学問があると思います。ただ、数学はちょっと違うという気がします。そこで、数学にはとても興味があります。先生のご研究を理解するのは無理であることは充分承知しながら数学が見ている世界に接してみたいという想いで伺いました。

数学はそうだと思います。学士院に毎月1回行って、色々な人と話すのですが、例えば数学以外、化学の人がある分子について話したり、生命の人がある物質について話したりする時は、分野が違うはずなのにお互い伝わるのです。それは対象が同じで、ただ違う方向から見ているからですね。ただ数学は非常に残念ながら。

中村

DNAを化学は物質としてその構造を見ており、私たちは生きものの中でのはたらき方を見るという違いはあっても実体があるので見方は補完します。数学は別世界のようで。

例えば、物理なら理論物理は数学に近くはないですか。

中村

物理の細かいことは分かりませんけれど、例えば宇宙論の佐藤勝彦さん[註1]に宇宙論を伺っていると、宇宙という実体があります。数式は難しいですがイメージがわきます。正しいものであるかどうかは別として。

実体があるというのは、もしかしたら誤解かもしれません。つまり物理だと素粒子とか言葉がすでに流布しているので、見えないけれども言葉を聞くとそういうものがあるように思える。ところが、数学のそれに対するような言葉は一般に耳にする機会がないので、聞いた途端にアレルギーを起こすのではありませんか。

中村

アレルギーはあるかもしれません。ただ素粒子は確かに見えませんし、生きものの場合も、ネズミや猫は見えてもそれを構成する細胞になったら肉眼では見えません。もちろん顕微鏡を使えば見えますが、DNAになると普通の顕微鏡では無理です。このように、現実では見えないものなのですが研究をしているとDNAが見えてきます。実体として分かるのです。

それは譲れないところでしょうね。

中村

私には素粒子は見えませんが、素粒子を研究しているお友達に、素粒子が見えていると言われると、そうだろうなと思います。

物理でも、素粒子というのは何となくDNAとの比較で分かる。でも例えば、物質相互に関わる力とかいうものは見えませんよね。

中村

確かに。しつこいようですが、力は見えないけれど、ここに物と物があったら力が働くというイメージとしては見えるのです。数学はそれと全く別の世界を作ってらっしゃる気がして。

数学が抽象的ということでしょう。例えば、数学には文字があります。XやYという変数です。物理だと変数には必ず名前が付いていて、1個1個の物理量として個性を持たせることが大事ですが、数学ではXやYは意味のない名前です。そこが物理と数学の大きな違いの一つです。変数の名前が違うだけで、まったく違って見えたものがほとんど同じであることがあります。名前に固執しているとそれは見えない。数学では個性を取ってしまうので実は同じことだと分かるのです。

中村

抽象性の重要さはとてもよくわかります。

個性がないという意味では弱さかもしれませんが、数学の持つ強さでもあるんです。最近だと渋滞論という分野があります。1次元のものの動きを解明すると、実はそれから血管の中の血の動きだとか、一般的な動きの法則が見えてくる。

中村

自動車の動きも血も同じというふうに。

そういう種類のほんとうに似ても似つかないもの同士が関連しているとわかるのは、数学では個性を取り払って、文字に全部変換して、それだけで比べてみると、実は同じ法則に従っていることがあるからです。

中村

実世界も、数学の目で見ると新しい共通性が見えてくるかもしれませんね。

見えてくることはよくありますね。

中村

かもではなく、実際見えてくるのですね。

実際にそうです。数学が最近必要とされているのは、そういう種類の使い方ですね。ある方法で、方法論が確立すると、それは実は他の分野で使えることがよくあります。水平展開というらしいですが、領域横断的に数理科学が使えるということは、非常によく議論されています。

中村

役に立ちますかという発想はそこでも求められているのですね。

僕はあまり好きではないですけれど。

(註1) 佐藤勝彦【さとう・かつひこ】

関連記事:生命誌ジャーナル53号「理論と観測が明かす宇宙生成」



2.概念を名付ける

数学について言えば、昨今は、世の中のものはほとんど背後では数学を使って動いているということです。例えば、莫大な量のデータベースの中から比較により目的のデータを見つける必要があるとします。1000個のデータがあったとしますと、全部順序良く並んでいれば、1個のデータを選んでそれより大きいか小さいか比べる、という操作を比較対象を上手く選んで10回繰り返したら目的のデータを見つけられます。バラバラに並んでいたら、1000回比べないといけない。こういう並び替えというのは確立した手法ですけれど、ある意味では数学の理論です。つまり数理科学の概念です。実体はなくても、何となく分かりますよね。いろいろ何にでも概念というように名前を付けて研究するのが数学です。名前を付けることを通して、概念として認識することが非常に大事です。

中村

抽象・概念としての認識は、まさに人間だからこその能力であり、そこからとても新しいことが生まれるわけですね。

数学を研究していて、最終的な答えに到達できればいいですが、問題を理解しようとした時に、途中に色々な大事な概念が出てきて、それに名前を付けて認識してもらうことによって、新たな分野が広がるということもあります。そういうことは生物でもあるのではありませんか。

中村

例えば、森の中で新しい生きものを見つけて名前を付けます。それは森という環境に適応しているはずであり、次々と生きものを見つけ、似た生きものを比べるなどして森全体を捉えるわけです。今先生に伺うと、森の中に概念を見つけて、それに名前を付けて、そこからその森はどういう森かということが分かっていくということなのかなと思いました。

そうですね。例えばもう一つ違う言い方すると、生物を研究するのに、昔は外見で研究していたけれど、途中でDNAという新しいものが出てきた。それまでは使われていませんでしたよね。

中村

おっしゃる通りです。それが今は生物研究の基本はDNAを調べることという時代になっています。全ての生きものに共通だと分かっているから、それを調べることで、生きものとしての全体の中での位置付けが一番よく分かるからです。現実は、まだまだ分析は足りませんし、分析によってどこまで分かるかは言えないのですが、気持ちとしては、すべてに共通のものを探そうと思っているのです。

実際の生物を理解するのには、総合化する必要が出てくると思いますが、一番共通の道具として、普遍的に便利だからということですよね。そういううまい概念を見つけて、それで研究するという立場に立つと、数学も同じようなことをしています。

中村

数学の歴史をよく知らないのですが、まったく新しい概念が、次々と出てくるのですか。

そうですね。少し前になりますが私の専門の代数幾何の分野でも、スキーム、日本語で「概型」という新しい概念が出てきました。それはそれまでのものを置き換えるような概念でしたが、出るまでかなり時間がかかりました。本質が変わるわけではないのですが、本質をより分かりやすくするために、新しい概念が出てきたのです。

中村

そうやって新しい概念が出てくることが続いて数学という学問が豊かになり、できあがっていくということですね。

そうです。まだこれは確立してないですけど、所長をしていた数理解析研究所の望月新一さん[註2]が、ABC予想[註3]というのを解いたと証明を発表して、今世界中でそれをチェックしています。それは概型よりも多分もっと新しい概念を使っているだろうと考えられます。概型が出てきたのが1960年ぐらいで、その数十年以前は、いわゆる普通の数、複素数くらいまでしか見ていませんでした。それを置き換えるように概型という概念が出てきたように、それをさらに置き換えるようなものかもしれません。

中村

60年代から今までの間の研究を踏まえて世界を膨らませる新しい概念をお考えになったのですね。

そうですね。

中村

素晴らしい。

世界中で議論になっています。非常に誇らしいですね。

中村

先生のお話から、新しい概念が出てきたことで、世界が広がるのだろうなという気持ちになり、内容は分からないながら何となくワクワクします。

数も単に1、2、3、4と書けばそれで終わりのように見えますけれど、実はそうではない。自然数から整数に行って、有理数に行って、実数に行って、複素数になってと、広がっていきます。さらに整数の問題を調べるのでも、複素数まで広げて初めて分かるとか、それでも駄目なら、もっと広げます。ゼロと1の世界、モッド2というのですが、1足す1がゼロになる。モッド3になると1足す1足す1が3ですが、3はゼロになります。

中村

1足す1足す1がゼロになる。

要するに3で割った余りしか考えない。

中村

なるほど。

3の代わりに勝手な素数Pにすると「標数P」の世界といいますが、そこでも同じように四則演算ができるのです。「標数P」の世界でも複素数で考えたのと同じように方程式を考えることができます。そう聞くと何かおもちゃの世界のように思えますけれど、実はそれがコンピューター通信などの分野で非常によく使われるようになっています。

中村

数というのも、そうやってどんどん膨らんでいるのですね。

(註2) 望月新一【もちづき・しんいち】

1969年東京都生まれ。19歳でプリンストン大学数学科を卒業、23歳で同大学院数学科博士課程を修了し、Ph.Dを取得。京都大学数理解析研究所助手、助教授を経て、現在は同研究所教授。数論幾何を専門とする数学者。

(註3) ABC予想

1985年にジョセフ・オステルレとデヴィッド・マッサーが提唱した整数論の未解決問題の1つ。2012年に京都大学数理解析研究所の望月新一教授が証明を論文発表した。
「自然数a,b,cが互いに素であり、a+b=c、a>bを満たすとき、積abcの互いに異なる素因数全体の積をRとおく。任意の正の数Kに対し,c>R1+Kとなるa,b,cの組は有限個しか存在しない。」



3.感性と論理

中村

私には数学という特別な頭の中の世界があるように思えて仕方ないのです。例えば、以前対談をした数学者の津田一郎さん[註4]が書かれた本で、「心はすべて数学である」とおっしゃっています。

心を数学で理解できるという意味ですか。

中村

私たちが学校で習っている数学は論理的にものを考えるように思うけども、むしろ数学の本質は感性だということをおっしゃっているのです。

なるほど。そういう意味であれば、私もそう思います。

中村

どういう時に数学を感性だとお感じになりますか。

数学では実際に問題を解こうと色々考えますが、そもそも冷静になってみると、普通に考えて解けるようであれば、それは問題になりません。ある問題が見つかったとして、何年も、あるいは何十年もそのままになることもあります。問題を解くというのは、それをどうしたら解けるかと考える状況です。

中村

そのような問題は、どうやって思いつくのですか。

解く問題は思いつくというより、未解決問題として残っている問題です。解けていない問題はそれなりに難しいです。そこで、それに関連したもう少し易しい問題を考えてみるという方法があります。問題の筋がいいか悪いかも大切です。いくら考えても解けないこともありますから、それを避けるために先生に就いて勉強するのです。「このような解かれてない問題ありますけど、どう思われますか」と先生に聞くと「それはこれこれこういう理由でつまらない」とか、あるいは「すでに知られている」とか、「凄く面白い」とか、色々な答えが返ってきます。単に解けていないかどうかという論理的な話だけでは片付かないことがあるのです。そこは感性と言えるかもしれません。

中村

直感のようなものでしょうか。

棋士に次の一手がフッと思い浮かぶのと似ているでしょうね。そしていざ解こうと思った時は色んなことを思うわけです。解かれてない問題なので、普通の取っかかりでは歯が立ちませんから、自分なりに突き詰めて色々な方法を考えます。それで場合によってはパッと思いついて何か、ちょっとしたきっかけができることがある。そういうことを積み重ねていくしかないのです。考えていて、「うまくいかないけど、こんなことできないかな」とか、空想で思ったものをどこか書き留めておいて、後で見返してみるのもよくやる大事なことです。そういう意味でも論理的に進められるわけではありません。

中村

考えている過程のお話とても興味深いです。考えるってそういうことですね。

なぜ、論理的に進めなくてもいいかというと、一度解ければ数学の場合には後で確実に論理的に詰めて、論文を書くことができるからです。

中村

最後はきちんと論理的に説明しなければいけないのだから、途中はそうでなくてよいというのは面白い。

逆に論理的に説明できるので、どんな突拍子もないこと考えても構わないのです。「今まで誰もやっていない方法だから、それは駄目だ」ということは数学の場合はありません。合っているかチェックができれば、それでいいわけです。だから逆にどんなことでも考えられる。そういう意味で数学は自由だといえます。難しそうだからやらないということはありますが、「それは正しくない」と昔ある高名な研究者に言われました。もちろん一生かかっても解けないような極端な例はありますが、一般的には興味を持てば何でもやればいいとなります。

中村

とても楽しそうで羨ましい。興味を見つけて調べるのは子供が大好きなことですし、研究者はその延長にいると思って、それはありがたいことだと思っているのですが、数学にはそこに制約がないのですね。

ないですね。

中村

制約のない世界を考えるということ、人間にとってとても大事なことですよね。

制約はないですけれど、普通は研究者になるまでに分野を決めて、専門が出てくるので、それが対象になります。でもそうしなくてはいけないというわけではありません。お金のかかる実験をする必要はありませんから、予算も制約にはなりません。

中村

確かに予算がいらないというのは、今の社会では自由度の保証になりますね。

そうですね、物理だともう簡単に実験できるようなことはみんな済んでいますから。

中村

カミオカンデを作らないとニュートリノは見つからないわけですから。

そこが他と数学の違うところです。しかも問題は自分なりの捉え方するのが大事なのです。他の人が考えたことを使ってみようということももちろんありますが、新しい手法を発見するという種類の結果が数学の論文なので、何か新しいアイディアがない限り、大した論文にはならないです。

中村

新しいアイディアは、そんなに次々と出てくるものなのですか。

私の場合は滅多に沸かないですね。だからそんなにたくさん論文は書けません。

中村

それが研究者として数学の世界では認められているわけですね。

数字を変えて違う結果が出ましたというのは、実験の世界なら大事な場合もあると思いますが、数学の世界ではそれは意味がない。例えば、工学の実験などの分野では2年、3年で結果が淘汰されてしまうこともあると思いますが、数学ではそういうことはありません。100年前の論文が引用されることは、別に珍しいことではないです。

中村

新しいアイディアも100年前からの続きだということですね。

簡単な例え話をしましょう。今、AならばCという命題を証明したいのに証明できないが、BならばCという命題は証明できたとします。もしAならばBという定理が100年前に証明されていたら永久に有効なので、その結果を引用してAならばCという結果を証明できます。そのような引用のされ方は日常茶飯事だということです。

中村

みんなで続きを考えることで、数学の世界ができていくのでしょうか。

つまり世の中には色々な問題があって、各人各様に勝手に興味持って、好きな問題を解くというのが正しい。色んな人が色々考えているので、それぞれが個性を発揮するという状態です。

中村

そういうユニークなアイディアが、一人一人がやるほど、まだまだあるはずだと実感していらっしゃる。

レベルは色々ですが、そうですね。数学の場合は、同じ数学と分類されていても、研究対象は各研究者の頭の中にしかありません。同じ分野の人が議論するとしても、頭の中にあるものを自分の言葉に直して、相手に吐き出し、相手はそれを飲み込んでまた頭の中で再構築します。もちろん分野が近ければ用語が通じますのでその操作は割と容易ですけども、ちょっと分野が離れていると、一般人と話すのとほとんど同じくらい通じないと思います。

中村

数学者同士でも、ですか。

数学者同士でも。

中村

一人一人違うのですか。

そう思います。

中村

生き物は、これまで名前をつけたのが百何十万種類ぐらいあるといわれていますが、例えば熱帯林に行くと、まだまだ知られているのは数パーセントに過ぎないのです。何千万種類もいると思われます。でも限りはあるはずです。それに対して数学は無限ということでしょうか。

数学者はあまり軽々しく無限とは言いませんが、そうですね。例えば人工知能、AIがでてきて、人間なしで考えてくれるというけど、そういうことをやるのには数学を使うので、数学者が失業するのは大分後だろうと思います。

 

 

(註4) 津田一郎【つだ・いちろう】

関連記事:生命誌ジャーナル65号「カオスで探る生きものらしさ」



4.クレーとコーン

中村

中学生時代に大好きだった授業が幾何です。補助線を見つけるのが面白くて。補助線を引いた途端に今まで見えていた世界がパッと変わって違うふうに見え、訳の分からなかった図が「分かった」となります。それが引けた時飛び上がるほど嬉しかったのを、今でも覚えています。

それは数学の喜びの一つの典型的なパターンですね。

中村

見えないものを自分で見つけたという経験です。あの喜びをもっともっと次元を膨らませて、広げた世界で見つけてらっしゃるのが数学者なのだろうと思い、羨ましいのです。

当たらずとも遠からずですね。僕の専門は代数幾何というもので、代数というのは文字を使う。幾何は先ほどの初等幾何ではないですが、絵を使う。両方うまく組み合わせるのです。

中村

とてもぜいたくですね。

ぜいたくといえばぜいたくですね。幾何的なことを代数を使ってやるし、代数的なことを幾何を使って見る。一般的にある物事を発見するのは、僕の私見ですが、アナログ的なところからが多いと思います。それを一般化していく時は、アナログで見ることは困難なので、代数を使って高次元化していきます。

中村

先生がご研究のイメージを説明するのにクレーの絵を使っていらしたのを拝見して、私はクレーが大好きなので気になっていたのです。

そうでしたか。少し一般的な話からしますと、代数多様体というのは、代数的な方法で作り出される図形です。その図形を研究する学問が代数幾何です。

中村

図形といわれても、私たちにはイメージできない図形ですよね。先生の頭の中にはその図形がおありになる。

ある意味ではあります。例えば簡単な例ですと、X二乗足すY二乗イコール1(X2+Y2=1)の方程式の解が、単位円という図形です。一方で代数があって、一方で図形がある。

中村

式と図形が同じものを表すということですね。

はい。実数で描くと円になりますが、実数の代わりに複素数で描いたり、あるいは標数Pで描いたり、色々な世界で描くことができます。その図形を理解する時に、図形がどう曲がっているのかを考えるのです。実数円も円なので曲がっていますね。複素数で描くと1次元は複素平面という2次元なので、すでにある形を持っている。例えば、ある1点を持ってきて、その複素曲面がその点でどういう形をしているかを見ると、どこから見ても膨らんでいる形とか、ウマの鞍のようにへこんだ形とか、あるいは真っ平のようにとか、典型的にはその三つです。その曲がり方で空間を理解するとどうなるかという発想です。最初に興味持った問題は、僕の先生がずっと研究していたハーツホーン予想というものです。空間で、シャボン玉のように、どの点も必ず同じ一方向に曲がっている、プラスに曲がっているといいますが、そういう図形にはどういうものがあるかという問題です。3次元の場合を解き、一般次元の場合はアメリカに行ってから解けたのですが、それが出発点です。プラスに曲がっている場合は一つしかなく特殊だとわかりました。次の興味は、至るところプラスに曲がってはいなくても、例えば曲線に沿って全体として平均するとプラスに曲がっているような図形がどういうものかです。実はそれで非常にきれいな絵が描けました。代数多様体を与えられたら見えませんよね。

中村

私には残念ながら見えません。

私にも実際は見えないですけど、代数幾何学者というのは脳の心の中にキャンバスを持っていて、そこに自分なりの見え方を描くわけです。画家だとほんとうに自分がこう見える、他の人には見えないだろうというものを絵に描く。でも数学者としては、うまい方法で見えるようにして、しかも特徴を持った、誰が描こうが同じ図形でないといけないのです。

中村

見えるというところは同じですが、誰でも同じものを描かなければいけないというのは、画家と違いますね。

その絵が廣中先生[註5]が考えられた曲線のコーンなのですが、その端に角ばっているところが出てくるのを発見したのです。そこを端射線といいますが、曲線のコーンを描くと必ず端っこがあるということです。そこで端っこがあったらどういう意味があるのかを、元の多様体に戻って調べると、多様体の構造が出てくるという図式なのです。その話を突き詰めていくことによって、多様体の形を決定したりするのが、私の研究手法です。

中村

そのプロセスでの頭の動きが、クレーが絵を描くのとある意味では同じということでしょうか。

多分クレーが自分にはこう見えると描いた絵と同じように、私にはこう見えるという図形です。代数幾何は絵が描きにくいのです。

中村

そこが不思議です。

微分幾何は実数を扱うので3次元の中で曲面が描けます。

中村

代数幾何で扱われるのは、もっと抽象的な図形なのですね。

そうですね。より抽象的だという理由の一つは、解の集合を考える時に、実数だけでなくて複素数にしたり、標数Pに行ったりそこまで持っていって、初めて見えるものが出てくるからです。

中村

持っていくから、図形としては描けないのですね。

ええ。ほんとうに抽象的になってしまうのです。だから直接描かずに、曲線のコーンというものだけを見る。

中村

そこです。クレーなら描いてくれますが、これは先生の頭の中にしかないというのが、ずるいですよね。

ずるいですが、クレーさんよりずるくないのは、同じ方法なら私以外の誰でも同じ絵を描けることです。

中村

理解できれば、その人の頭の中に同じ絵が描けているはずなのですね。

そうです。空間がどう曲がっているかということから出発して、曲線のコーンという実際にアイスクリームコーンのような図形を描くことによって、それが見えてくるのです。それによってその図形の本質的なものを研究することができる。

中村

画家の中ではクレーの絵にそれをお感じになるわけですね。

そうですね。キュービズムの線画で描いたものを探したのですが一番似ています。

中村

私は彼の描く変てこりんな天使が好きなのです。晩年、あまり手が動かなくなってあの線が出てきたのだそうですが、パッと見た時は向きも何も分かりませんが訴えてくるものがあります。

クレーは色々な意図を背後に隠した絵を描く人ですが、僕が彼の絵を比較に用いたのは見たところとても似ているという非常に単純な理由です。

中村

クレーと言っていただくとわかった気になりますが、やはり先生の頭の中は見えません。残念ながら。

 

(註5) 廣中平祐【ひろなか・へいすけ】

1931年山口県生まれ。京都大学理学部卒。ハーバード大学大学院数学科博士課程修了。ハーバード大学教授、京都大学数理解析研究所所長などを歴任。数学者。専門は、代数幾何学。日本人として2人目のフィールズ賞を受賞。



5.印象派と概型

僕はよく一般の人に説明する時、クレーに限らず印象派の絵も使います。代数幾何というのは代数方程式、多項式イコールゼロで描かれる図形なので、不等式は使わないし、三角関数も使わないし、非常に単純ですが制約も多い。微分幾何ならもっと色々な色っぽい絵も描きますけど、代数幾何はそうはいきません。でも図形として扱える図形が少ないという制約の中で研究するところが、印象派が光を描こうとしたのと似ていると思い、面白いのです。例えばモネが、たくさんのキャンバスを並べて大聖堂の絵[註6]を時間を変えて描いています。時とともに変わる光との関係で対象を描くように、代数幾何で多様体を様々な標数で見ると、各々違う図形になるのです。標数とともに違う絵が描け、解集合を変えていくと、方程式の全体像が浮かび上がるという発想が概型です。

中村

何か一人で楽しんでらっしゃるみたい。やはりずるい。

これはグロタンディーク[註7]という人の考えです。彼は色々な人の仕事をベースにグランドデザインを考えた人ですけど、その背景には図形としてできるだけ一般的な図形を描くにはどうしたらいいかという、とても一般的なフィロソフィーがあります。図形を描く時にそれが他の図形との関係、どういう関係を持っているかに注目するだけで、その図形が見えてくる。モネが「描く対象というのは対象自身を描くだけでは本質ではなく、置かれた環境の中で、環境(例えば光)にどう影響を受けているかによって成り立つ」と言っています。それが概型の考え方と物事を捉える視点が非常に近い。概型という概念を作り出す時に、芸術家とそういう議論もあったのかもしれません。

中村

芸術家はモネもクレーも絵を通して考えを共有できますが、先生が描いてらっしゃる世界は、芸術と同じように人間にとって素晴らしいものなのに共有できないのは残念です。絵が描けるのと同じように、人間は皆そういう世界を持つ可能性を持っているということなのに、それを実感できるのはほんの限られた人だけだというのは、どういうことだろうと思うのです。

画家は、絵を描くのが生業ですが、代数幾何学者というか数学者は、研究する時に必要に駆られて、概念を考え、描くというか作り出します。こういう図形ができましたと発表するのではありません。文字を使えば式は見えます。見えるというのとは違うかもしれないけれど、式で表せば分かる。

中村

理解は難しいですが、数学というのはそういうものだということはよく分かります。

本当は見える必要はないのではないですか。見たいというのは分かりますが、必ずしも正確に見える必要はないし、見えるというのは幻想でしかないかもしれない。だから、式を使って代数的に理解すれば、それで済む。

中村

日常的な言葉では、それを見えるといってもいいということですね。現実に見えているわけではないけれども、私にとってのDNAは、他人事でなく、いつも自分の中にあって何か見えているという感じがします。

実体として感じるわけですね。数学者も同じようなものです。

中村

同じことですね。先生にはとても素敵なものが見えていらっしゃるように思うので残念ですが。

それはありがとうございます。でも説明できないもどかしさは、絶えず持っています。

中村

専門家というのは、もしかしたらそういうものなのかもしれませんね。物理学者だったらニュートリノが、私だったらDNAが見えて、先生には図形が見える。

経済もね。実体は見えないのだけど指標をうまく取り出してきて。

中村

あの人たち見えているのかな。見えていたらもうちょっと上手にやってほしいですね。

まあ確かに予測通りにいかないですけどね。

(註6) ルーアン大聖堂

クロード・モネ
(左から)
扉口、曇天(LePortail,tempsgris)1892年
扉口、太陽(LePortail,soleil)1892年
扉口(LePortail)1893年
出典commons.wikimedia.org 

(註7) アレクサンドル・グロタンディーク[1928年-2014年]

イツ生まれ。フランスのモンペリエ大学を卒業後、パリの数学者集団ブルバキに参加し、1950年代後半より代数幾何の共通言語とされるスキーム(概型)など代数幾何学、数論幾何学の基礎となる様々な概念を提案した数学者。



6.デジタルとアナログ

中村

私は今役に立つとか、実社会がこうなっているとかということだけではなくて、何が描けるかという能力が、人間としての大事なことだと思うのですが、その大事なことをしていらっしゃる数学者の頭の中は見たいです。

数学者同士でも理解はそれほど簡単ではないです。研究対象はいまだかつて他分野の人々と共有できると思ったことはないですが、研究対象に対する興味の持ち方とか態度とか、共通するものはあります。それから、考え方を説明することはできます。最初の段階は絵で見る、視覚的にアナログで理解し、発見することができてそれを突き詰めていこうと思うと、デジタル。文字を使って、式を使って、精密化していく。そうしたら次元が増えようが、変数を一つ二つ足していくだけで、できます。人によりますから絶対全てがそうではないですが根っこのところは、大きな場合のテーマはアナログです。

中村

その根っこがアナログというのもとっても興味深いです。

代数幾何、私の分野だからです。

中村

私は花にくるチョウという自然を見て考えますから、現物がないと何も始まりません。完璧にアナログ世界ですね。人間の豊かな発想はそこからしか出て来ないと、正しいかどうかは別として思っているのです。今の社会にちょっと疑問を持つのは、小さな子供のころからデジタルの世界へ放り込んでしまうことです。普通の言葉でいえば、子供のころは原っぱで遊んでいたわけです。そこを通って、もちろんその後デジタルに行くことはあるでしょうが、最初はアナログにいるほうが、発想が豊かになるのではないでしょうか。

そういう意味ではそうだと思います。

中村

今、東京ではどんどん高層マンションを造っていますが、そうするともう地面に降りることもなく、開けたら怖いですから、窓もきちっと閉まっていて風すら入ってこない。ほんとうに人工空間の中で子供が育ってしまいます。私はやっぱり小さい時、その原点、根っことしてアナログにいないといけないのではないかと感覚的に思っているのです。

その感覚を共有しますけど。これからどうなるかに関してはまったく分からないですね。そういう状況にあった新人類が出てくるのではないかと思います。

中村

ただ私は、これは生命誌の信念のようなものですけれど、38億年ずっとこの形でやってきた生きものの歴史はとても強固なものなのではないかと思っているのです。だから先生のお仕事が、アナログが根っこだとおっしゃったので嬉しかったのです。

代数幾何はアナログとデジタルの両方使うということです。

中村

両方使うけれど、根っこはアナログだということですね。

発見する時はアナログですね。

中村

ここで勝手に自分に引きつけますと、数学は発見が大切だから、アナログが基本かなと。

今だかつてない新しいものを見つけたかどうかが勝負です。

中村

伺えば伺うほど、何か不思議な学問に思えます。でも一方で、だからこそとても人間の基本に関する行為とも思えます。

実体があるのかないのか分からないような学問ですよね。

中村

それが、人間の普遍的な能力として大切なものだということですね。

それに対するアンチテーゼのような言い方をすると、数学というのは、人間に限らず、自然を、あるいは宇宙の動きを記述してできる学問、あるいはしている学問だというふうにも思います。

中村

この世界のベースに数学があるということですね。

世界のベースには数学があるという理解は、みんながしなければいけないという傾向が強まっています。デジタル化すればするほど、全部数になってしまうので、いかにうまく表現するかに必ず数学が使われます。

中村

全部数字でやらなくてはいけないけれど、数学の発見の基本はアナログからというところが面白い。

生物でもDNAの四つの数で記述しますよね。デジタルかと思うとつまらないかもしれませんが、不思議ですよね。

中村

そう不思議です。DNAまで戻ると基本はデジタルです。

そういう何か理屈に合わないところが面白いですね。

中村

デジタルとアナログというのも、そう考えていくと、もしかしたら絡み合っているのかもしれませんね。

絡み合っているんだと思います。デジタルというと今は巨大な数をイメージしますが。

中村

先生が図形と文字とを合わせた、デジタルとアナログが絡み合った世界をつくっていらっしゃるイメージがわいてきたように思います。世界ってそういうものなんだと改めて思っています。

写真:大西成明

 

対談を終えて

中村桂子

世界で数人しか理解できない数学研究をなさっている森先生にお話を伺うという大それたことをしました。幾何を習ったとき、頭の中で補助線を引くと図形の意味がパッと見える面白さに引かれ、以来与えられた課題には必ず補助線を引いて答えを探してきました。数学者は、私には引けないような補助線で豊かな世界を描き出しているのではないかと想像し、羨ましく、そこに触れたかったのです。森先生の研究は難しいものでしたが、モネやクレーと重ねてゆったりと優しく話してくださるとその豊かさが感じられ本当に素敵な時間でした。ありがとうございました。

森重文

中村桂子さんは数学に興味はあるが分からないので是非知りたいと仰いました。ただ、弱点に見える抽象性こそが普遍的な応用につながる数学の強みであることも御存知でしたし、自然に数学研究が話題になりました。分子生物学では生物が出発点であるのに対して、数学では抽象概念であり目に見えない、という相違点の話に始まり、アナログとデジタルの話では意見が一致して、私が研究する代数幾何ではアナログの図形とデジタルの記号の両方を駆使することを話すときは誇らしい気分でした。一貫して感じたのは、中村さんの幅広い興味と瑞々しい感性で、とても楽しい会談でした。

森 重文(もり しげふみ)

1951年愛知県生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院修了。理学博士。京都大学理学部助手、ハーバード大学助教授、名古屋大学教授、京都大学数理解析研究所教授、同所長などを経て、京都大学高等研究院特別教授、院長。専門は、代数幾何学の研究。1978年ハーツホーン予測を解決し、その後「代数多様体の極小モデル理論(森理論)」で1990年フィールズ賞を受賞。現国際数学連合総裁。



 

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