RESEARCH
分化を避けたら脳細胞
脳の形を決める未分化性と細胞増殖
細胞が何かの性質を持とうとするのが分化です。その過程では、周りの細胞がいろいろな命令を出してきます。ただし、分化は命令に従って行動することだけを意味しません。脳(頭部神経)はどうやら、「何かになる」ことから逃げ続けた結果できているようなのです。
脳のでき方は面白い。中枢神経の先端である脳は、終脳・間脳・中脳・後脳の各領域に分かれ、厳密な形作りが行われる。このような詳細な形の情報は受精卵の時点から存在しているわけではなく、初期の発生過程でまず大まかな領域が形成され、次いで厳密な境界の形成によりパターンが決まっていく。この過程で重要な意味を持つのが、細胞の分化と増殖のバランスであることがわかってきた。
1.脳のできかた
神経はそもそも、皮膚と同じ外胚葉に由来する組織だ。受精卵が分裂して外胚葉、中胚葉、内胚葉の区別ができたあと、未分化な外胚葉が皮膚と神経とに運命づけられるのである。神経領域は、次に頭部と胴体部に分かれる。この時期の神経はまだ胚の表面にあるため神経板と呼ばれる。発生が進むと、神経板は管状になりながら体の背中側に埋め込まれ神経管となる。神経管には、将来の前脳や中脳となるいくつかの膨らみ(脳胞)ができ、厳密な分化が進んで成体の脳となる。(図1)
(図1) 脊椎動物の脳のできかた
脳胞が現れるまで「脳の形」を外見から理解することはできないが、この「形」は実は神経板ができるよりもはるかに早い段階で潜在的にできていることがわかってきた。胚が形を作るためには、その形になるべきところに特定の遺伝子が発現してくる。だから、外見からは将来の形が全く見えない外胚葉に発現している遺伝子を調べることによって、将来の脳の形を理解できるのだ。これを突き詰めると、神経領域ができるよりももっと早い時期に、その遺伝子をその場所に発現させる何らかの仕組みがあることを推測させる。この積み重ねから、皮膚と区別が付かない神経領域でどのように脳が「形づくられる」のかを理解しようと考えている。
2.分化を避けたら脳細胞
未分化な外胚葉から神経と皮膚に運命が分かれる仕組みは、今から80年ほど前、ドイツのシュペーマンとマンゴルトによって示された。「オーガナイザー(形成体)」と呼ばれる背側の中胚葉領域が、外胚葉の背側に神経組織を誘導することを発見したのである。それ以来発生学者は、神経が積極的に作られて、神経になれない部分が皮膚になると考えてきた。しかし最近の研究から、積極的に誘導されるのはむしろ皮膚の方であり、未分化外胚葉が皮膚へと分化しないことによって神経は運命づけられることが分かった(図2)。
(図2) 外胚葉から神経と皮膚が分かれる仕組み
(上)カエルの胚を背側から見た図。(下)胚の断面図を横から見た図。背側中胚葉は外胚葉が皮膚に分化するのを抑制し、結果的に神経組織が誘導される。なお、背側中胚葉自身も脊索前板と脊索に早くから領域化されていることがわかっており、その情報が神経の頭部と胴部の領域化に影響を及ぼす。
さて、脳が決められるには神経の中に頭部の領域が決まらなければならない。実はここでも、頭部というのは積極的に作られるというよりも、胴体にならなかった結果であることが分かってきた。別の言い方をすれば、神経は皮膚よりも未分化な状態を維持しており、頭部神経は胴体の神経よりも未分化な状態なのである。
未分化な状態とは、極論すれば、増殖(細胞分裂)能力を維持することである。受精卵は、何かに分化する前にとにかく分裂を繰り返して細胞の数を増やす。また、胚の成長や成体の維持のためにどんどん新たな細胞を供給している幹細胞も、特定の組織への分化が決定した後は原則として分裂を行なわない。実は神経では領域によってこの未分化状態の程度が異なり、胴体部の神経はかなり初期に細胞周期が止まるために増殖能力を失い、神経細胞への分化が進む。しかし頭部神経では、その時期にはまだ細胞周期が周り続けて未分化性を維持している。調べてみると、細胞周期を止めるはたらきをする遺伝子は胴部で発現が始まり、頭部側ではその遺伝子の発現を抑える仕組みがあった(図3)。大ざっぱに言えば、何かの性質へと分化することから徹底的に逃げた結果として脳ができているように見えるのである。
(図3) 予定神経の頭部と胴体部ではたらく遺伝子
3.細胞の分化・増殖・移動から脳の形づくりを探る
脳のうちでも最も前方部分の領域は終脳と呼ばれ、神経領域の中では分化に入るのが最も遅い。この「分化に向かう時期」はカエルに比べてほ乳類では遅く、ヒトではさらに遅い。分化に至る前に細胞分裂を繰り返して、その領域の大きさを増しているのである。それでも、比較的早期に最終分化に入るためカエルの終脳は小さな領域であるが、ヒトになれば未分化状態が長い間維持された結果として終脳領域が爆発的に大きくなり、最終的に脳の大部分を占める大脳半球となる(図4)。
(図4) カエルとヒトの脳の比較
成体の脳の外形。終脳領域を黄色で示した。カエルの脳の先端部(終脳)は、ヒトの大脳半球に比べて小さい。脳の発生で、未分化状態がどれだけ長い間維持されるかの違いがこのような差を生み出していると考えられる。
脳に付随する感覚器の形成には表皮の特定領域が必須であるし、神経と表皮の間に現われる細胞群(神経堤細胞)は動き回って末梢神経や頭の骨を作ったりもする。これらの組織は原則的には未分化性を維持しており、必要な時期に必要な場所で最終分化するのである。あらゆる組織・細胞が協力しあい、未分化性と細胞増殖が組み合わさることで、脳の形が厳密に決められていくのだろう。この過程を詳細に観察するため、様々な時期の胚を薄く切った膨大な断面図を写真に撮り、詳細な立体画像のデータベースを構築する試みを始めた(図5)。細胞の増殖・移動と遺伝子発現が脳の形とどう結びついているかを知る良い手段となると期待している。
(図5) アメリカツメガエル胚の立体画像データベース
直径数ミリメートルの胚を、10数μメートルの厚さで連続切片標本にして写真を撮り、コンピュータ処理によって立体画像に再構築した。この作業により、胚の外見や内部構造をあらゆる角度から観察可能となる。
橋本主税(はしもと・ちから)
1992年京都大学大学院理学研究科博士課程修了。東京大学医学部助手、カリフォルニア大学アーバイン校研究員、京都大学ウイルス研究所助手、同大学院生命科学研究科助手を経て、2002年よりJT生命誌研究館主任研究員。