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Special Story

縄文人は何を食べていたか
— 新しい科学が明らかにする日常

遺跡からみた縄文の食生活:小山修三

生命誌では,DNAを切り口に生物の歴史や関係を探り,私たち人間が生物界でどのような位置にあるかを理解しようとしている。今回は,もっとも知りたい生き物 — 人間に関する最近の研究例として,縄文の人間の生活を取り上げる。

縄文文化は,氷河期が終わり,温暖化していく中で出現した。1万3000年前のことである。6000年前の最高温期のあと,日本列島は再び寒冷化,乾燥化へ向かう。このような激しい気候変動は,生態系に大きな影響を与えたことだろう。人々の生活もまた,変わりゆく環境に適応していったはずだ。

1万3000年前にすでに栽培していた?

縄文時代は,約1万3000年前に始まり,2500年ほど前まで続いた先史時代である。採集狩猟経済に依存する原始的な社会で,弥生時代に始まる稲作を基盤にした文化とは,伝統を異にしていると考えられてきた。ところが,最近の発掘によって,思いのほか多様で豊かな社会だったことがわかってきたのである。これには,先端科学の活躍が大きく貢献している。最近話題になった遺跡を取り上げ,縄文の生活を描き出してみよう。

1997年5月,鹿児島県上野原(うえのはら)遺跡から9500年も前の集落が発見された。家は13軒で,1軒あたりの家族が4人だとすれば,50人近い人が住んでいたことになる。食事は石で蒸したり,炉を使ったりして屋外で作っていたようだ。また,土器や石器のほかに土偶や耳飾りなど,祭祀や装飾のための品まであった。上野原遺跡と同じ系統の土器は南九州に広く分布しており,古いものでは1万3000年前まで遡る。これは縄文時代の始まりの段階だが,すでにこれほど定住的な村が営まれていたのだ。これまでのイメージを大きく覆す発見だった。

定住生活を支える食べ物は,狩猟・採集・漁撈などによる自然からの採取だけでは難しい。もし栽培があれば,安定した量の食物を確保できる。この遺跡の土を分析すると,ハトムギのプラントオパール(植物のガラス質細胞)が見つかり,その栽培の可能性が浮かび上がってきた。

①三内丸山遺跡。38haを超える広さで、聖域、墓地、居住、貯蔵の場所が整然と区画された都市的景観を備えている。
②縄文時代にイネはあったか?(写真は栽培されていたと考えられる熱帯japonica)

巨大集落を支える食料

約4500年前の縄文中期になると,集落は大規模になってくる。青森の三内丸山(さんないまるやま)遺跡では,94年に直径1mを超す6本のクリの柱が見つかった。塔のような高層の建物の跡であることがわかり,その規模の大きさに息を呑んだ。その後の調査で,この遺跡は38haの広さで,塔のほかにも,公会堂のような大家屋,高床倉庫群,祭祀用の盛り土,幅15mの道路を備えた,都市的景観をもっていたことがわかってきた。住居址の数からみて人口は500人を超えていたと考えられる。物質文化も豊かで,糸魚川産のヒスイや北海道の黒曜石の出土は,広い交易ネットワークの存在を示している。

ここで再び,これほどの人口を安定して支えた食べ物は何かという問題が浮上する。東北地方では,ヒエ,ヒョウタン,ゴボウ,エゴマ,アサなどの種子が発見されており,栽培植物が食料として利用されていた可能性が高い。他に大きな問題となったのはクリである。まず安田喜憲氏(日本文化研究センター教授)がクリの花粉が異常に多いことに注目し,佐藤洋一郎氏(静岡大学助教授)が出土したクリの実のDNA分析によって,クリが栽培されていたと考えられるデータを出した。集落規模の大きさから,クリが主食としての役割を果たしていたと私は考えている。この遺跡の泥炭層からは魚類,獣類の残滓が発見されているので,陸奥湾や八甲田山系の海山の幸も併用して,この大きな人口が維持されていたのだろう。当時のバラエティに富んだ食生活が生き生きと眼の前に見えてくるようだ。
 

③イネのプラントパール(長崎・稗田原遺跡)。3600年前に噴出した火砕流に覆われた地層から出土。縄文後期中葉と考えられる。
④炭化したクリが大量に出土した。
⑤マダイの骨も出土。 

三内丸山遺跡のその後

ところで,この巨大な集落は数奇な運命を辿る。約5000年前,三内丸山遺跡に初めて小さな村がつくられたあと,村は順調に成長していったが,4000年前(中期末)を境に突然,この集落が姿を消すのだ。そのあまりの唐突さは,戦争や疫病に原因があるのではないかと考えたくなるが,今のところその証拠はない。ところが,その後に続く後期のこの地域での遺跡分布を調べると,数は増えているが,規模は小さくなっているのだ。しかも,深い山や狭い湾など,それまでほとんど利用されていなかった場所に進出している。どうやら,三内丸山で一度は人口が膨れ上がったものの,何らかの原因でこの人口が維持できなくなり,離散を余儀なくされたようである。その原因はおそらく食糧問題だったと思われる。

気候変動の歴史をみると,氷河時代からの温暖化は,約6000年前を境に逆に寒冷化に向かう。そんな環境下でクリを主食としていた三内丸山人は苦境にたったはずだ。まずクリは冷害を受けやすい。さらに栽培によって品種が画一化されていたことが,一網打尽の被害をよりいっそう受けやすくしていたはずだ。また,寒冷化は海水面の下降をもたらすことから,海辺の環境も悪化したに違いない。

いずれにしても,食料調達を考えると,当時の技術で500人規模の人口を支えることは難しくなったはずだ。効率のよい食システムは,温暖期には円滑に動いていたが,この気候変化によって,もろくも崩れ去ったのであろう。そのため,縄文人は,人口集中方式の住み方をやめ,再び小集団に分かれて,新しいニッチ(生息領域)を開拓していったのだろう。地球的な気候変動への対策は,21世紀へ向かおうとする私たちも悩んでいることだ。人口問題,食糧問題,環境問題・・・人間の暮らしの本質を縄文にまで思いをはせながら考え直してみる必要がありそうだ。

 

⑥直径2m,深さ2mの穴が6個,規則的に並んでいた。
その中から,直径約1mのクリの木柱が出土。巨大な構造物の跡だと考えられる。
(写真①,④~⑥三内丸山遺跡対策室,②佐藤洋一郎,③藤原宏志/宮崎大学)

小山修三(こやま・しゅうぞう)

1939年香川県生まれ。国際基督教大学教養学部,國學院大学大学院日本史学専攻博士課程修了,カリフォルニア大学大学院人類学専攻博士課程修了。現在,国立民族学博物館教授。

※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。

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