季刊誌「生命誌」通 巻1号 
生命の物語を読む:中村桂子
生命の物語を読む
生命の物語を読む:中村桂子
  普遍性をふまえた多様性
  チョウはどのようにしてチョウになったか
  生き物の曼荼羅を描く
「生命誌」は、ほかならぬ中村先生の造語です。35億年という長大な時間の中で繰り広げられてきた生き物のドラマを読み解きたい−との思いから生まれた言葉「せいめいし」。新しい言葉の誕生は新しい生命観の始まりです。

 生命誌研究館。この6文字に、今、私の心の中にある思いのすべてがこめてあります。
 生き物がこの世に存在することの不思議さ。それは私自身がこの世にいることの不思議さでもあります。その本質を問うこと(あえて知ることとは申しません。どこまで知ることができるのか、それすらまだわからないからです)が今とても大事になっていると感じています。子供の頃から抱いてきたこの素朴な疑問が、質の高い、しかも日常性をも持つ知として展開する可能性が見えていると思えるからです。生物学だけでなく、あらゆる学問の中にその兆しが見えていますし、一方社会の側からは、新しい価値観を築く基礎として生命について問うことが求められています。

普遍性をふまえた多様性
 19世紀から20世紀にかけて急速な発展をとげた自然科学は、世界を統一的で単純なものとして理解しようとしてきました。「真実は単純であり、単純なものは美しい」。アインシュタインはそう考えていたようです。そのような考えの下で得られた多くの法則や成果は、科学技術を生み、現代社会を作りあげました。その恩恵の大きさは改めて言うまでもありません。
 しかし、私たちの日常をとり巻く自然は、統一的で単純でしょうか。多様で複雑であるように見えます。しかも、単純化した自然認識から生み出した科学技術は私たちの外側にある自然,また、私たちの内側にある自然をむしばみつつあります。
 自然科学としての生物学は細胞を発見し、その中で遺伝子としての役割を果たすDNAの姿を明らかにしてきました。あらゆる生物は細胞からできており、その細胞の中には必ずDNAが含まれている。これを知ったことが、どれほど私たちの生命現象の理解を深めたことでしょう。まさに統一的で普遍的な理解です。しかし、それで生き物がわかったとは思えません。なぜ、同じDNAの情報で働く細胞でできていながらこんなに多様な(それは3000万種ともいわれています)生き物の姿があるのか。普遍を踏まえながら、多様で複雑なものへと理解を進めていくことが必要になってきました。
 普遍性に関する理解から私たちは地球上の生物は皆、共通の祖先から生まれ、進化と呼ばれる変化をして多様になったと考えています。今も当初の名残を止めながら、進化の結果、みごとな生き方を獲得している大腸菌などの細菌たち。これらは一個の細胞でみごとに生きている、いわば生き続けることの達人です。
多細胞生物へのステップ(?)
 多細胞生物へのステップ(?)
ボルボックスはいくつもの細胞が集まってできた群体(写真=OPO)
 私たち人間を含む多くの生き物は真核多細胞生物。いくつかの細胞が集まることによって新しくどのような性質を得たか、その様子を教えてくれるよい例が、ボルボックスです。ここにはすでに大型化する可能性、細胞が役割分担することによって複雑化する可能性が見えています。性と死という重要な性質さえ現われています。ここまでに20億年、生命の歴史の三分の二が過ぎました。
 以来、15億年の時間をかけてさまざまな可能性を試しているのが生き物と言ってよいでしょう。
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チョウはどのようにしてチョウになったか
ミドリシジミチョウの仲間は、翅の色彩によって、未明、早朝、昼といった具合に、棲み分けている。行動形態の多様性の好例(撮影=山口進/栗田貞多男)
 ところで、一つ一つの生き物の性質を決めているのはその生き物の染色体の中にあるDNA。その総体をゲノムと呼びます。ヒトの染色体の全DNAはヒトゲノム。チョウはチョウゲノムをもっています。同じDNAの働きでできるのに、ヒトはなぜヒトでチョウはなぜチョウなのか。それは、ヒトゲノムとチョウゲノムのちがいによっています。しかも、ゲノムは設計されたものではない。長い長い生き物の歴史の中ででき上がったものです。つまり、「ゲノム」は、ヒトはどのようにしてヒトになり、チョウはどのようにしてチョウになってきたか、ヒトとチョウはどこがちがいどこが同じなのかということを教えてくれます。「ゲノム」の中に、それぞれの生き物の歴史とお互いの関係の基本が書きこまれているのです。これを手がかりに生き物たちが描いてきた歴史物語を読み解いてみよう、それが生命誌です。時を同じくして、宇宙、情報などの分野でも、普遍と多様、時間などという言葉が重視されるようになってきました。おそらく、ここから新しい自然の認識が生まれることでしょう。
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生き物の曼荼羅を描く
 この歴史を読むには二つの方法があります。一つは、ゲノムを解読し、進化の跡を追うこと。大百科事典を読む作業です。もう一つは、このゲノムを基に生き物が演じてくれる発生や再生などのドラマを観ることです。たった一つの細胞である受精卵からチョウができ上がっていく過程。でき上がったチョウが舞うメカニズム。そこでは、ゲノムに閉じこめられた時間が解きほぐされています。これまでにもたくさんの系統図が描かれてきました。しかし、生命の中に流れた時間とあらゆる生き物の関係を正確に捉えた図は描かれていません。多様性と時間を織り込んだ、生き物の曼荼羅を描きたいと思っています。それを眺めていると豊かなイメージがわくようなものを。そのようにして新しい知の世界をひらき、知的に豊かな、ふくらみのある社会を作りたいのです。私たちは今、科学をあまりにも実用化の中に埋没させて、それがもっている知的なふくらみを大切にしていないのではないでしょうか。
35億年の歴史がさまざまな生物をこの地球上に登場させた。
時間と多様性を組み合わせた新しい進化の系統図。
橋本律子画、アイデア協力・団まりな大阪市立大学助教授。撮影=渡辺未知
 空に舞うチョウからは詩も音楽も絵画もそして科学も生まれました。形や動きだけでなく、その内部で起きているドラマまで知った時、もっと豊かな詩や音楽や絵が生まれないだろうか。そして科学自身が豊かになることができないだろうか。それが生命誌の願いであり、研究館はそのような知を育てる場なのです。
 このように科学が文化として存在する社会、アリストテレスやレオナルド・ダ・ヴィンチやゲーテのような大きな人物が生まれる社会を夢見ています。
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(なかむら・けいこ/生命詩研究館副館長予定)
Lecture

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