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進化研究を覗く

顧問の西川伸一を中心に館員が、今進化研究がどのようにおこなわれているかを紹介していきます。進化研究とは何をすることなのか? 歴史的背景も含めお話しします。

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ゲーテの原型

2015年3月2日

前回前々回と四肢の進化研究について紹介した時、なぜかゲーテの原型が頭をよぎって、少し脱線したくなった。私たちは骨格標本を見ると、ゲーテの「原型(Urform)」を連想してしまう世代だ。一般の人には、ゲーテと言うと文学者のイメージが強いと思う。しかし、彼は様々な科学に通じたプロの科学者で、色彩論のような物理学に関する著作から、植物学や動物学の論文まで、数多くの著作を発表している。私のように生命科学に携わってきた人間にとってゲーテは、特に骨の形態学、比較解剖学の先駆者としてのイメージが強い。ゲーテ文学といってもウェルテルしか読んだことのない無粋な人間にとっても、ゲーテの動物学は当時の生物学を知る上で貴重な本だ。今回私が書いたゲーテの理解は、すべて木村直司編訳『ゲーテ形態学論・動物篇』(筑摩書房)に掲載された文章に基づいている。引用のページは、この本のページ数をそのまま使っている。

図1(左)筑摩書房『ゲーテ形態学論集 動物篇』この稿での引用のすべてはのこの本から。(右)ゲーテの肖像。(Wikimedia Commonsより)

ゲーテの時代の生物観を理解しようとするとき、生物という日本語が、当時の哲学や科学で生物を表すOrganismという言葉を表現しきれていないことを心に留めておいてほしい。18世紀から19世紀にかけて、生物のことは有機体(Organism)と呼ばれるようになっていたが、ゲーテもこの言葉を使っている。これは、「生物、生き物(living being, living thing, ドイツ語 Lebenswesen)」と呼んだ途端、生気や価値といった、人間が根拠なく抱いている考えが付け加わるからだ。代わりに18世紀、物理法則だけで説明できない生物共通の性質として、構造・機能が組織化(organize)されている点が注目され、Organismという言葉が生物を表す言葉として定着する。ただ、この言葉を日本語に訳すとき、生物(living thing, Lebenswesen)としか訳せないのは残念だ。また有機体と訳しても、Organismという言葉が持つ組織化という意味を捉えきれていないように感じる。もしゲーテの本を読まれるとき、生物や有機体と訳された言葉の背景には、組織化されていることを表すOrganismがあることを心に留めて欲しい。

さて文学者のゲーテから考えられないかもしれないが、彼の生物についての著作を読むと、生物の記述から人間の勝手な解釈や、因習を排除することの重要性をよく認識した真の科学者だった事がわかる。すなわち詩人の心を持つ科学研究者が、詩人の心を排して科学に向かっている。このことをしっかり心に留めておかないと、彼が動物形態の原型を、プラトンのイデアの概念と同じ概念だと誤解することになる。彼は論文の中で「生物がある種の目的のために外部に向けてつくりだされ、その形態はある根源的力により意図的にそのために決定されたという物の見方は、自然の事物の哲学的考察において、われわれの進歩をもう何世紀もはばみ、今なお阻んでいる。」(p61)「この物の見方はそれ自体、信心深く、ある種の心持の人々には快く、ある種の観念には必要かくべからざるものであるかもしれない。わたしもそれを全面的に否定することを得策だとも可能だとも思わない。こう表現して良ければ、それは日常的物の見方であり、すべての日常自体と同様、それが日常的であるのはまさに、それが人間の本性に全体としてかなっており、それで十分だからである」(p62)と明確に述べている。次に「この人間の本性に全体としてかなっている見方」を拒否して生まれた「原型」とは何か見ていこう。

彼が原型を提案する動機となったのは、ビュフォンの「自然史」(第2回の自然誌誕生参照)を頂点とする18世紀の自然史の問題、すなわち個々の生物を詳細に記述し続けるという当時の科学の方向性だけでは、Organismがどう組織化されているのか本当に理解することが難しいと感じたからだ。事実ビュフォンの名を挙げてゲーテは次のように述べている。「人々は様々な動物を人間と、また動物を相互に比較した。そのため多くの研究にさいして個別的な物しか目的とされず、個別研究がふえるにつれあらゆる展望が不可能になってきた。ビュフォンに見出されるのが誰しも考えるその好例であろうし・・・・・」(p84)。わかりやすく言ってしまうと、個別にこだわると、違いばかりが目について、有機体の共通性を見失うという問題に気づいたわけだ。代わりにゲーテは「それゆえ、ここで(この本で)なされるのは解剖学的原型の提案である。これは普遍像であって、その中にあらゆる動物の形態が可能性として含まれており、それに従っていかなる動物も一定の配列で記述できる」(p84)と、原型の概念を示している。ただ、原型を何か具体的に存在する原始型や、具体的な規範と勘違いしないようにしなければならない。彼は、「原型という普遍的な理念からすでに帰結されるのは、いかなる個々の動物もこのような比較のカノン(規範)として設定され得ない、ということである。いかなる種も全体の範型となり得ないのである」(p84)と述べている。すなわち、はっきりと原型が具体的な大きさや形で表せるものでないことを示している。例えば、存在するすべての四足類のすべての骨を計測して、平均値を出すといったアプローチで原型を決めることはできない。代わりに「経験により我々がまず提示しなければならないのは、どの部分がすべての動物に共通であり、どの点でこれらの部分が異なっていることである。理念が全体を支配し、発生論的な仕方で普遍的像を抽出しなければならない。」(p85)と述べている。彼の形態学の本を読み進むと、なんとなく具体的原型を描けるよのではと期待できる感触も持てるのだが、結局「理念が全体を支配し」と表現されているように、各動物の部分の共通性を明らかにする科学的観察を経て、理念の内に形成されるのが原型だといえる。ゲーテの形態学に書かれた内容の大半は哺乳動物の骨各部の共通性についての記載だが、もちろんこの原理を哺乳動物と魚にも適応できる。頭、胴、尾の区別の共通性、脊椎と胸椎の区別の共通性などなどだ。だとすると、ゲーテの原型は私たちが今ホモロジーと呼んでいる概念に近い。私はゲーテを、それまでアナロジー(類似)として議論されてきた生物の特徴の記述に、起源の同一性を示すホモロジーの概念も新たに加えて記述することを提案した科学者だと思っている。実際、私たちが分子系統進化を研究するとき、相同な分子を選び、その分子変異を比較する。この過程で実際に比較するのは、個別に組み合わせた動物間のアミノ酸や塩基配列だが、全くランダムに選んだ数多くの動物について、相同性を持つ分子間の変化の量を定義し、すべての系統関係を見事に描くことができる。この時正しい比較のために必要な条件は、比べている分子が相同性を持っているということだけだ。ゲーテが比べる骨がすべて起源の共通性を持つことさえ保証できれば(すなわち相同)、「その中にあらゆる動物の形態が可能性として含まれており、それに従っていかなる動物も一定の配列で記述できる」(p84)と言うことができるわけだ。この背景には、現在の分子系統学を可能にしているのと同じ条件がある。ゲーテの原型と分子系統学はほぼ同じ概念に基づいている。

さて、ここまでゲーテの原型を、分子系統進化学とあえて呼ばなかったのは、ゲーテの原型や形態学にダーウィンの「共通祖先」の概念が認められないからだ。原型の概念を今風に理解していくと、ホモロジーの起源を共通祖先と置き換えてもなんの問題もない。ただこのゲーテの形態学に書かれている内容から判断すると、ゲーテには、原型を中心に横に広がる系統分類の概念は存在しても、「共通祖先」を順々に通っておこる「進化」の概念はないように思える。実際、彼が1820年及び1821年に泥炭採掘場で発見された牡牛の完全な化石について述べている文章を読むと、生物学者としての彼の問題が見えてくる。この文章のほとんどは骨の形態の比較に割かれており、現在の牛と骨格がどう違うかが興味の中心のようだ。さらに、この化石から時間をかけて現在の牛に変化して来たことを完全に理解していることも、例えば「あの昔の被造物は、広範囲に生息し、やがて死滅した現種族とみなされる。通常の牡牛とインド産の牡牛はその子孫とみなされて差し支えないであろう」(p278)を読めばよくわかる。ただ、ゲーテにとって長い年月を経て牛の角が変化するのは、不思議な現象ではなく当たり前の、自然の必然的帰結として見られている。原型から動物の多様性を理解できるにせよ、この共通部分を環境に合わせて変化させる力についてゲーテは、自然の力、自然の当然の帰結と決めてしまっている。例えば牡牛で言えば「自然はこのように、ある程度真剣な荒々しい集中により、「原」牡牛のつのをそれ自身にはむかわせ、それによりこの動物から自然状態では必要な武器をある程度まで奪ってしまう」(p285)といった具合だ。実際この論文集の至る所に自然の力、自然の制限が現れている。そして骨格の多様性の原因について「自然は骨のシステムの拡大と制限において不安定である」(p122)とまで言っている。このような考えのルーツをたどると、ドイツ特有の自然哲学の影響があるように思える。乱暴に言ってしまうと、自然哲学とは神を自然に置き換えただけの思想だ。科学的探求の結果、系統関係やホモロジーの概念に到達したのに、これを説明する段に自然哲学の思想を持ち込んだ途端、不思議はなくなり、すべて愛すべき自然の力で終わってしまう。結局ゲーテも、「ダーウィンの何故?」を問うところまでには至らなかった。これについては、エルンスト・マイヤーが『The Growth of Biological Thought: Diversity, Evolution, and Inheritance』で、英国より早く進化論を受け入れたドイツで、進化論が生まれなかった原因は、ドイツ人研究者への自然哲学の影響にあると考察している。先ほどの化石についての文章に続いて、ゲーテはシチリアで見かけた牛の群れを美しい文章で描写している。この文章を読むと、ゲーテにとって、詩人の心を排することが難しかったことがなんとなくわかる。

「カタニアの広い草原で、可愛らしい、褐色をした一種の小型のウシの群れが放牧されているのを見た。その角はこの動物がのびのびした眼差しで可愛い頭を上げたとき、最高に快い、言葉に尽くせない印象を与えた。これからわかるように、このように素晴らしい被造物が同時に有用な家畜である農夫に取って、彼がその日を無意識のうちに感じている群れの頭の飾りが躍動して動くのを見るのは最高に楽しいに違いない。」(p285)。

ではゲーテが必然として考えた「自然の力」は全くないのかと考えると、もちろんダーウィンの自然選択にも、同じ自然の力は含まれている。人間の個体レベルの成長に限ると、自然の力や自然の制限の例は数多く見ることが出来る。例えば、最近の子供たちの足が長くなったのは、決して遺伝変異が選択されたせいではない。生活環境や食事の変化の寄与が大きい。実際私たちが日常の観察を通して得る経験から考えると、自然の力、環境の力を非科学的と拝するわけにはいかない。このため、26話の最後は、ゲーテとダーウィンをつなげるかもしれないと期待を込めて、一つだけ論文を紹介して終わる。

カナダ・キュリー研究所からの愉快な論文で、タイトルはDevelopmental plasticity and the origin of tetrapodsでNature 513, 54-58 (2014)に掲載されている。タイトルからわかるように、この論文も四肢の進化だ。ただ、ゲノムの進化ではなく、環境による形態進化、すなわち「自然の力」についての論文だ。使った魚はポリプテルスで(図2)、肺を持つおかげで、長期間陸上で暮らすことができる。

図2 ポリプテルス。アフリカの淡水魚で、肺を発達させたおかげで、長期間陸上で生活できる。ヒレの付け根には筋肉が発達し、ヒレを使った一種の歩行が可能。(Wikimedia Commonsより)

研究では、生まれたばかりのポリプテルスを、半分は陸上(3mmの高さまで水がはられた湿度100%の水槽、泳ぐことはできない)、半分は水上で8ヶ月間育て、その後運動能や骨格の違いを調べている。結論だけを述べると、すべての魚で、ヒレが結合している肩帯の構造が陸上歩行に対応して大きく変化し、新しい共通形態が形成されたという結果だ。驚くのは、新しく獲得された形態を化石に残る肩帯の形態と比べると、陸上で育てたポリプテルスに現れた肩帯の構造変化が、化石で見られるケイロレピスからユーステノプテロンを経て、アカントステガにいたる進化で(第24話図3参照)起こった、肩帯の形態変化とそっくりな点だ(図3)。

図3 上からケイロレピス、ユーステノプテロン、アカントステガの想像図。この研究ではヒレではなく、ヒレを支える肩帯の化石の構造を、陸上で生活させたポリプテルスの肩帯の構造と比べている。(Wikimedia Commonsより)

ダーウィン進化の結果も、個体に現れた自然の力による結果も、形態だけで比べると同じだとする結論だ。実際、もし生育環境から深い水たまりが消えた後もポリプテルスが何世代も生き残れるとすると、その集団の骨格は、遺伝子変化がなくともユーステノプテロンに近いはずだ。このことから、形態とゲノムの本当の関係を知ることがいかに難しいかがわかる。ただ今回は、形態だけで考えれば、ゲーテとダーウィンは別に相反しているわけでないと結論しておこう。

[ 西川 伸一 ]

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