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年間テーマ「愛づる」
生命-多様化するという普遍性
学問への姿勢に共感できる人の存在は、考えを進めるうえでの大きな力になる。その一人が金子さん。物理学の規範の中で、本質を捉えるために必要な柔軟性を持ち、「生命とは何か」に真正面から切りこんでいく。わかるとは何か。細かな方へと追うのでなく全体をつかむ方法が物理学にあったように生物学にもあるのでは…。(中村桂子)。
1. 生命とはなにか
中村
今年度は「愛づる」をテーマに、美学・哲学、細胞生物学、日本絵画史の先生方とお話してきました。生きものをよく見つめて深く考えるということに注目し、DNAやタンパク質という細かいことではなく、生命そのものを見つめよう。では、一体生命って何だろうという、それを最後に金子さんとお話したいと思います。
実は私、金子さんのエッセイ『カオスの紡ぐ夢の中で』(小学館文庫)の愛読者です。複雑系の研究は物語を語ることになるのかもしれないということで、文学としての科学、科学としての文学という視点を出していらっしゃるのが、生命誌研究館の考え方と重なると思っています。今回著された『生命とは何か』(註1)、こちらは本格的で愛読となるかどうか(笑)。でも、今私が関心を持っている大事なことをおっしゃっているので、是非お話を伺いたいのです。
この本の少し前に茂木健一郎さん(註2)が『意識とは何か』(註3)をお出しになり、個々の神経細胞の話ではなく、科学を踏まえた上で「意識とは何か」という問いに真っ向から取り組み、新しい方法論を探さねばならないと言ってらっしゃる。それで私は、書評に「生命とは何か」についても同じことを考える時だと書きましたら、金子さんの『生命とは何か』が出て、まさに同じ認識だなと思いました。まず、今「生命とは何か」を問う意味から。
金子
「意識とは何か」も大事だけれど、僕の中では、今実験科学としてやるにはまだ難しいという気がしますね。仮説を立てた時に答を得る実験がやれるかどうかという問題です。一方、「生命」は確実にそれができる。生物学は今、ゲノムプロジェクトを経て、遺伝子をはじめとした要素の性質もわかってきて、かつ定量的な実験を行えるようになった。考えた理論を実験し検証できる段階になってきているというのが1つの理由です。しかも、今までの生物の実験は一番よくできたデータだけを取り上げてきたところがありますが、生命の一般的な性質を探そうとすると、うまくいく時だけでなく、適当にやっても成り立つとか、どのくらいが範囲内だとか、そういうことがわからないといけないのですが、その点でも、例えば今は細胞内のタンパク質量のゆらぎというものまで含めて測れる時代になってきたので、様々な実験が可能になってきた。これは大きいと思います。
2つ目はアプローチの問題です。物理学の一つの方向は、素粒子へ向かい、そこからすべてを理解するというものでした。一方、統計力学や熱力学のように、全体を見てそこにある普遍性、細かいことによらずに成り立つ普遍的な性質を捉えようという方向があります。ここから更にミクロとマクロの循環を捉える複雑系という方向へ進んでいる。物理学もミクロへ向かう方が主流でしたが、今は、マクロな視点へ振れているのです。
生物学でも分子を全部見るというやり方が、あるところへ行き着いたために、逆に戻ってくる視点が必要な時期でしょう。そういう意味で「生命とは何か」を考える割といい時期になってきた。
中村
そうですね。私がDNAを基礎に考えることからは離れずに、全体を見る方向へ動けると思ったのは、「ゲノム」という認識を持った時。ここから、ミクロとマクロを対立させずに新しいアプローチができるだろうと思いました。それから、コンピュータの登場も一つ具体性を持たせましたね。もっとも、コンピュータシミュレーションだけで生命がわかるとは思いませんが。
金子
考える時の手段にはなりますね。ただ、シミュレーションの場合は初期条件を決めればその世界で完全に記述できるとするので、それ以外は関与しません。物理では、何か条件をつけて、ある現象を切り離して考えることができるのでこれで問題ないのですが、生物の場合は切り離せないわけですよね。実際の生物はいろいろなものに依存していますから、そこに微妙な違いがある。
中村
物理はモデルの学問、摩擦をゼロにして答を出せますね。でも生物は実体がある。おそらく学問が、実体、つまり「自然」そのものを見るところへ来たんだと思います。その時、大量のデータを扱うコンピュータの役割は大事。
金子
そうですね。僕は、思考実験をする際に頭だけではちょっと足りないために、もうちょっと増やして思考実験をやるのにコンピュータを使います。一番理想的なのは、シミュレーションの結果が、モデルによらない広い範囲で成り立つんだという場合です。そこを考えるための手段としてのシミュレーションであって、それができたらコンピュータは必要ないということはあります。モデルはそこに到達するためのはしごで、上に昇ったらはしごはもういらない。
(註1)『生命とは何か─複雑系生命論序説』
金子邦彦著。東京大学出版会
(註2)茂木健一郎
「人間の脳って特別?:茂木健一郎×中村桂子」 「クオリア-現実と仮想の出会い:茂木健一郎」
(註3)『意識とはなにか―「私」を生成する脳』
茂木健一郎著。ちくま新書
2. 生命の普遍性と物理学
中村
物理学は、現在のDNAを中心にした生物学のきっかけを作ってくれました。ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガー、彼等の学問の動きから、molecular biology(分子生物学)ができた。分子生物学の中心の役割をしてきた、二重らせんの発見者ワトソンが設立したコールド・スプリング・ハーバー研究所(註4)が、新しい生物学のシンポジウムをやり、多くの人が考えをまとめていったのですが、その時の最初の名前はquantum biology (量子生物学)なんです。物理学としては、量子レベルで基本的な生命現象を探れるのではないか、普遍的生物学が生れるんじゃないかと考えるところから始まったんでしょうね。でも、DNAの二重らせん構造の発見から、分子(molecule)を基本にして考えればよいことがわかり、既存の物理学の範囲におさまった。20世紀後半は分子生物学の大成功。そして、ゲノム(genome)という概念と実体に到達し、これをどう扱うかというところに来ています。ただ、学問の流れは、ゲノムが分析できたので細胞の中にある他の分子も全て解析しようと、今度はプロテオーム(proteome)、フィジオローム(physiolome)と、みんなで枚挙に走り始めた。オーム主義については後ほどお話するとして、ここはやはり金子さんのように新しい方向を考えなければいけない。でも、科学の歴史の中で、物理学者は一度普遍性ということを考え、量子で攻めてみたけれど、生物は結局つかまらなかったわけです。ですから、量子生物学とは違う、全体を捉える側の物理学で、生命の普遍性を探そうというのは大変よくわかるのです。ある意味、当然の成り行きである。しかし…。
金子
また外れるかもしれない(笑)。
中村
生物を普遍性でどこまで語れるかというのが、ちょっとした疑問としてありますね。もちろん普遍性を探すことは大事ですが、金子さんの考え方では、宇宙のどこかに生物が他にもいるとしたら、全員共通なわけですよね。
金子
ええ。全く同じ性質を持っているということじゃないけれど、システムの持つ性質としての共通点がある。
中村
対象をどこに置くかという物理学者と生物学者のちょっとした違いですね。生物学者は38億年前に生まれたという地球上の生きものを見るので、その中での普遍性や多様性は大きなテーマですが、私も地球上の生物しか考えない。普遍的じゃないかもしれないけれど。
金子
地球上で十分ではあると思うんですけれどもね(笑)。
中村
もっと普遍的なことを考えてらっしゃるんだなと思って。もちろん地球上だけを対象にしても、DNAを見つけることによって分子生物学が成功したように、次に金子さんのようなアプローチが必要なことは確かで、私も今考えてはいるのですが。
金子
生物の一番の普遍性ということを結果として言っているのはダーウィンで、進化とは増えていくシステムが必然的に担っちゃう宿命みたいなことを言っているわけですね。生物というのは増えちゃう。そこに普遍的性質があるんじゃないかと。 その意味では、僕の考え方もダーウィンの方向なわけですが、そこをもう少し中にいろいろな状態を持ちながら増えていくとどうなるかとか、その時に生物の持つ柔らかさ、変化しやすさということを語っていくとか。よく生物は多様だといいますが、逆に、多様になってしまうというのがまた普遍的な性質なわけで。そうすると、そっちの方がどうしてかとか。
中村
生きものを考える基本…。おそらく自然は全てそうだと思うのですが、普遍と多様ですね。
金子
ええ。多様になるといっても、連続的にベターッといろいろな性質が分布するわけじゃない。種にせよ、細胞の種類にせよ、いくつかのグループに分かれる。量子性に注目した人も、そういうことが何か量子力学の持っている離散性と関連するのではないかと思ったのでしょう。その離散的に分かれる仕掛けが、力学系の理論や形やゆらぎの性質を調べる研究から、徐々に見えてきています。多様化する性質を、今理論側から追うことができる。
中村
多様になるという普遍性を明らかにしたい。
金子
そうです。ボーアの時代に、量子力学によって生物を理解しようとしたのは、1つは量子力学の離散性とそれのもたらす安定性、それから量子力学が持つ波と量子の相互性、つまり部分と全体の相互性、それらが生物のもっている性質と共通して見えたということがあったと思います。例えば細胞1個取り出しても全体の組織を知っているかのような振る舞いをする、そういうイメージ。
中村
ハイゼンベルグの有名な『部分と全体』(註5)にはその気持ちが出ていますね。
金子
しかし、生命は量子力学とは関係なかった。生きもののミクロの方に行けばそれが出てくると思った発想は結局外れで、デルブリュック(註6)がDNAの二重らせんが見つかった時にがっかりしたという話がありますね。その意味でボーアの思想はあっていたけれども、その答を量子力学に求めるのは間違いだった。
中村
物理学としてはむしろマクロの方へ行くべきだったというのが、金子さんの考え方ですね。
金子
はい。部分と全体の関係というのは、複雑系が最も強く言ってきたことです。熱力学は、部分を忘れて全体だけ見ればよいというすごい体系です。その後、統計力学が出て、ミクロからマクロが導けたと言われますが、それは誤解で、実はちゃんとは出せてないんです。複雑系では、マクロとミクロの性質が循環してしまいます。熱力学のように平衡系に閉じればマクロだけ切り離して見られますが、そうじゃない変化まで含めようとすると、マクロの性質はミクロに行ってまたマクロに戻ってくる。そしてそれがちょうどいいバランスのところに落ち着いていくけれど、そこで終わりではなく、その落ち着いたところからまた壊れるかもしれないという考え方。熱力学のようなきれいな体系はまだこれからですが、そういう方向が見えてきました。
(註4)コールド・スプリング・ハーバー研究所
Cold Spring Harbor Laboratory (CSHL)
1890年設立。現在も所長を務めるワトソンJames D. Watsonの他、7名のノーベル賞学者を輩出した歴史ある私立の非営利研究・教育施設。http://www.cshl.org/
(註5)『部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話』
W.K.ハイゼンベルク著。
(註6)デルブリュック
(1906~81)
ドイツのちにアメリカ。物理学、分子生物学者。1969年ノーベル生理医学賞受賞。ファージの遺伝的組換えを発見するなど、ウィルス遺伝学の基礎を築いた。
3. 複雑系の切り口「よどみ」
中村
熱力学が平衡系に限ることによって見事な成果を上げたのと同様に、複雑系がこれから成果を生むためには、ある条件をつけなければいけないわけですか。
金子
複雑系でも結局何かは限らないといけません。生物を問題にする場合ですと、例えば「増え続ける」ということに着目し、そこに限れば、増えるということを支える普遍性が出せるのではないかと、今考えています。増えていく場合、ダーウィンの考えを狭くとると、増えるスピードなどを問題にし、変化することが変化したものを産むというという当然の考え方をするわけですが、むしろ増えていく時に変化してもほぼ同じ状態になり続けちゃうこともある。ほぼ同じところによどんでしまう。そのよどみ方が、もう1つ基本にあるんじゃないか。部分と全体の関係がバラバラになっていると、よどめなくてどんどん変化しちゃうわけですが、それがちょうどうまく回るところにくると、よどんで変化しなくなる、あるいはしばらくは変化せずにいられる状態ができる。
中村
なるほど。今生きものとして存在しているということは、ある安定性を持っているわけですが、それは常に変化し得る安定性。それがよどみですね。
金子
ええ。しかもそのよどみは、どこでもできるわけではなくて、離散的ないくつかの状態のタイプに分かれちゃう。
中村
多様でかつ離散的であることを説明できるということですね。今、生物の定義はないのです。物理学なら最初に定義が書いてあってすっきりしていますが、生物学は教科書に、この学問の対象はこういうものですと定義して始めてはいない。生命とは何かがわからなければ定義できない循環です。でも、生命のもつ性質の基本はこれだというものがつかまえられるとしたら、それは何だろうというわけですが、さっきから金子さんは「増える」とおっしゃっていますが。
金子
増えるというか、よどむというか…。増えるというのは、その次の始まり方の初期条件を与えるわけです。そうやって初期条件を順番に伝えていくということができてしまう。それはかなり物理とは違う。
中村
別の言い方をすれば、続いていくものと捉えてもよいですね。全く同じではなく、しかし本質は続く。
金子
それでいいと思います。続いていけちゃうというのはなかなか簡単なことじゃないわけですよね。
中村
そうです。それが生きものの研究の魅力。
金子
例えばいろいろな種類の成分を持った細胞があり、それを続かせようと思ったら、たくさんある成分が全部揃わなきゃいけないしすごく大変です。だから、続くためには少しよどんじゃうということが必要でしょ。
中村
よどんでいるということの内容を、もう少しわかりやすく説明してくださいませんか(笑)。なぜよどむと続くのか。
金子
物理側から見ると、細胞にはもうめちゃくちゃな数の化学成分があるのです。普通、物理学で何らかの状態を表すには、例えば3種類のものがあれば、それぞれの量によって状態を3次元空間の1点で表わせる。ところが細胞の中に例えば10万種類の成分があれば、その状態は10万次元の中の1点であり、しかも厳密にそこというわけでもなくて、その辺りという曖昧なものです。それらがそれぞれに変化していきながら、同じところにちゃんと留まっているなんていうことは普通考えられない。どんどん変化していっちゃう。つまり、基本的にその問題が先にあるのではないかと思うのです。生物を機械だと思うと、「変化」は失敗した、ずれちゃったということになるので、突然変異ということになる。でも、もともとそうじゃなくて、変化しやすいものの方が自然なはずだ。そんな中で、ある状態に居続けられるというのはもう奇跡としか思えない。だから、むしろそういう変化しやすいものが、ちょうど何かのところにいるとしばらくよどむ。そのうちまた変化しちゃうかもしれない。そう考えると、変化しやすさ、ということが1つのポイントになって、だいぶものの見方が変わってくる。
中村
確かに。生物学の考え方で今まずいかなと思うのは、現存生物の中にDNAが現に存在していて、その複製の仕方も明確にわかっているし、あの二重らせん構造があまりにも見事なために、変異は間違いだと思ってしまう。そっくり同じものを作ることが生物として正しく、DNAも時々間違えるから進化が起こるとつい言ってしまう。けれども、生物のこのダイナミズムを考えれば、元来、変化する方が生物の本質で、あの不思議な分子はそれを何とか留める役割をしていると考えるのが自然ですね。DNAの見方が逆になってとても面白い。
4. よどませる分子
中村
「よどむ」とおっしゃるのは物理的な見方ですが、生物で考えると、やはりDNAという具体的なものに眼がいきます。どうしてあの分子が選ばれたのかということを金子さんも問うてらっしゃいますが、放っておけばどんどん変わっていくものを何とかよどんだ状態にするのに、DNAが大事な役割をしたと考えてよいですか。
金子
それはあると思います。しかし、DNA分子が非常に安定だとか、同じものを作りやすいという化学的性質もありますが、それよりはむしろ、あるシステムの中でお互いに関係し合っている成分の、少ししかない成分の方が固める側に回ってしまうということがあるのではないか、ということを議論しています。少ししかなくて、しかもそれが必要である状況、例えば合成を分子が互いに助けている関係が成り立っている場合、少数側はだんだんその全体の変化を固める側になっていく。あるいは支配しているかのように見える。たくさんある成分は、皆揃って変化すれば大きな影響をもちますが、普通揃っては変化しないので相対的にあまり大事じゃないように見える。そういう構造があって、少数成分はなくなると困るから、ますますちゃんと保存されるような機構が進化し、ますますそれに寄りかかる。そういうフィードバックが働いて、少数成分が全体をコントロールする構造が強まる。そういう形が見えてきた。もちろん、それに加えてそういうことをやれるための分子の化学的性質があったはずですが、化学的性質以外にも、変化するシステムとしてうまく続く条件として、少数対多数という構造があるということです。
中村
生命体が確立する前、混沌としてまだ安定していないような、だけど生きものになりそうな状況の中では、RNAやタンパク質が働いていたと考えやすいのですが、そういう世界と、今の少数派成分が支配的になる話とは重なりますか。
金子
タンパク質がどんどん変化して適当に増殖、合成し合っている状況があったとして、そこに何か少数の成分でそれと相互触媒するものが出てくると、だんだんそれらが全体をコントロールする側に変わっていく。そうなると続きやすくなるという構造ができる。きちんと続きやすいと同時に、まれな、しかし重要な変化もしやすくなる。
中村
なるほど。不変と変化は、表と裏の関係にある。それこそ生物のありようですね。不変と変化を同時に存在させるのは、DNAの登場。
金子
まあ、そうですね。だから、本当は何かDNAとは違うものを使って、そういう構造が実験的に作れたら一番面白い。これに関連して面白いのは、四方哲也(大阪大学工学部)さんのところの実験で、ある自己複製系を作った時、DNA1本で作った複製系と100 本で作った複製系を比べると、100 本で作った複製系の方はうまく続かない。100 本平均して駄目になる。1本でやると、当然それが悪い方に変化してしまうと全然駄目で、うまくいくやつがそう沢山あるわけじゃありませんが、うまく変化したやつはちゃんと残る。そういう進化性を持ったシステムはずっと続く。少数でコントロールする構造と続きやすさというのが関係していて、さっきの理論の直接的検証ではないですが、考え方として近い。
中村
確かに生きものっぽいですね。それはもしかしたら今の系の始まりだったかもしれない。
金子
本当にその理論を確実に言うためには、1本というのがDNAとは違う他の物質なら一番の確証になるわけですが、やはり化学的性質もかなり効いている部分があるので難しいところです。
中村
DNA分子は見れば見る程なかなかのものですから。続くということから考える時に、魅力的な性質を持っている。分子構造そのものの中に失敗する構造を持っているという微妙さが、分子のくせに生意気だといつも思うんですが。
金子
失敗する構造は、高分子になればたいがいのものが持ちますけどね。
中村
でも、同じものとして続くための構造が、同時に変化の構造にもなっている。そこがすごいと思うのです。だから、DNA以外の何かとおっしゃるけれど、とても難しいのではないかと思うのですけれど。
5. マクロとミクロの折り合い
中村
多様な生きものも、虫は脚が6本、哺乳動物は足が4つ、骨格はこんな形…(「生命誌」通巻27号 Special Story:骨と形-骨ってこんなに変わるもの?:註7)、とかなり共通項で整理できます。何でもありではないんですね。もともと変化できるにもかかわらず、どこかまとまりがあるというのは、ある制限が存在するんじゃないかと思うのですが。
金子
その時に2つ可能性があって、1つはその制約自身がもっとマクロな側から来ているという可能性。もう1つは、本当はもっといろいろなことがあり得てもいいのだが、たまたま進化を経てできた時にそういうものしか選ばれなかったという可能性。これはもう両者区別がないというか、なかなか判定しがたい。
中村
もう1つ、現代生物学に慣れた私たちは、生きものをゲノムから見る癖がついてしまっていますので、ゲノムの中にその制約があるという可能性を考えるのですが。
金子
例えば1次元に情報を並べているということで起り得ることに限りがある。その意味の制約はあると思います。しかし、マクロな側での制約とミクロな分子側から作る制約、それがうまく折り合ったところしか結局可能じゃないわけですから、マクロとミクロがうまく循環できるようなものしか選ばれてないという制約もあるでしょう。それはもうマクロ側かミクロ側かのどちらがというより、循環して選ばれた制約。その循環が可能なのはどこかというのが、生命が見えるところということになってきますね。
中村
生物の場合、折り合わない時は死んでしまう、という形でダメを出します。生命現象をマクロから見るべき時代が来ているのはよくわかりますし、物理の立場から、生物がどこをどう攻めたらいいかという示唆をくださることはとてもありがたいと思いながら、私の個人的な関心は、やはりミクロの持つ制約とマクロから来る制約とのやりとり、その関わりは何かということ、そしてゲノムの構造の中にそれがどう反映されているのだろうということ。そこへ、金子さんのお仕事がどう繋がってくるかというところに関心があります。
金子
ゲノム側から見ようとした場合、ミクロ側の制約だけを主に考えてしまい、それがマクロの方に行って、マクロからまた戻ってくるという部分があまり考えられていないケースが多いでしょう。ミクロの側が決まれば、それに従って許されるマクロの状態が何種類かありますというふうになりがちです。両方がうまく回れるところのみが選ばれるのだと、もっと強調しなきゃいけない。
中村
それはその通りですね。研究も、ゲノム側はゲノム側、マクロ側はマクロ側でやっている。どこかで一緒にしようでもいいかもしれないけど、もうどちら側もいろいろなことが言えるようになったわけだし、その循環を意識した研究を始める時だと思いますね。具体的にはどんな研究を…。
金子
遺伝情報をミクロとして、生物の外にあらわれる表現型をマクロとしましょう。ここで、表現型側のゆらぎの度合いに密接に関係する変化を見るために、例えばGFPを使ってタンパク質量のゆらぎを測ることがやれるようになってきた。そうすると、外から何か環境を変えて、そのゆらぎの度合いがどう変化するかということを見られるわけです。マクロな状況が変化しやすくなったとか、柔らかくなったとか、そういうことを見る。
それに対応して、遺伝子側がどう変化するかということを見れば、マクロとミクロの折り合いがどう変わるかというのが見えてくるはずですね。さっき言った進化の話で、表現型の方がまず変化し、いくつかのタイプに分かれて、その後遺伝子で固定されることが示せました。それは理論的な話ですが、それに対応するような実験を、実はこれも今、四方さんのところで始めています。例えばある条件下で大腸菌を密な状況にすると、いくつかの表現型が現われるようになったりする。長い間その状態にした時に、その変化が遺伝子側にどう固定されるかということを求める。あるいは、大腸菌と粘菌を共生させ、共生によって遺伝子側にどういう変化が固定されていくか。その時間経過を追って行く。そういうことをやれれば、マクロとミクロの折り合いがどうついていくか。あるいは途中で、どちらが先に外れるか、どちらに何が固定されるかということを時々刻々追っていける。それができればいいですし、発生に関しても、発生を操作して変化しやすい状態にできるわけですから、その時の変化しやすさと、例えば遺伝子の発現の仕方、そういうことを追っていけば、マクロとミクロの折り合いが見えてくるはずです。
しかし、そういう実験は今までのように平均量を測ればいいのではなくて、ゆらぎを見ないといけないので、難しいには難しい。実験が下手でゆらいでいるのでは駄目ですから実験のコントロールが大変ですが、それがやれる段階にだいぶなってきたんじゃないかと思います。10年近くいろいろ議論しながら実験を見てきた中で感じます。
(註7)「生命誌」通巻27号 Special Story
6. マクロから考える
金子
折り合いを見ようとする時、現代科学は主にミクロ側からマクロ側に向かうでしょう。しかし、よどむということを考えれば、もともと変化するものがよどむのだから、よどむといっても完全に同じになることは当然あり得ない。変化するというマクロな構造があって、そういう分子が選ばれたと考えることできるのではないか。
マクロな構造を一番壊さずに済むようなミクロがうまく選ばれるという構造は、例えば学問の発展にもあります。マクロな熱力学ができて、それに合わせるように量子力学や統計力学が作られてきました。 あるいは、表現型と遺伝子型の関係を議論する時に、遺伝子型が全てをコントロールし表現型はその結果だという見方がありますが、逆に、マクロ側に表現型が変化しやすい性質があって、それをミクロ側の例えば遺伝子が固めていくとも考えられる。そのこと自身は、別にセントラルドグマにも反しないし、ダーウィニズムにも反しない。
中村
ダーウィンの言う自然選択は、ある環境の中でその姿形でどういう働きをしていたら生きていける、という表現型を見ていたわけですから、現在の生物学で解くと、その背後には遺伝子型があり、実はその遺伝子型は中立に動いているのだけれども、私たちが実際に見ている生物の様相は表現型によるわけで、進化に関する学問の歴史も、熱力学から統計力学へと同じ流れがあると言えますね。
金子
表現型の方が外と接しているのですから、環境が変わったり、周りにいる生きものが変わったり、そういう影響を一番ダイレクトに受ける。だから表現型の方が変化しやすいシステムになっている。それを遺伝子側が一生懸命くっついて固定していく。だとすると、まず変わりやすさがどう変わりやすいのか、どっちの方向に行きやすいのかということをじっくり議論する。多分これは、ワディントン(註8)が言ったエピジェネティックな考え方や遺伝的同化(アシュミレーション)に近いのですが、それをもう少し現代的にやりたい。
中村
みんな何となくそういうことを考えてはいますね。それを明らかにするために、物理学の熱力学に相当するものを生物学の中で探す、探せる時に来ているのではないかという切り口ですね。
ただ、熱力学は、平衡系という制限をかけて成功しましたね。生物は平衡系に持っていったら生物でなくなるので、その辺をどう考えるのでしょう。
金子
平衡か非平衡かという切り出し方は、熱力学では成功した。だけど、生物の場合には、多分その切り出し方を変える。さっきの続いていけるとか、よどむとか、そういう切り口で制限をかけた時に何か出てくるような一般的な性質があるんじゃないか。
中村
なるほど。よどみという切り口から、熱力学に相当するものができてくる予感ありですか。
金子
それはあると思います。それともう1つ熱力学ですごいのは、不可逆な操作をするには、外に何か捨てなければいけない、それが言えたこと。できる操作とできない操作を制限できる。例えばエントロピーが増えるのを減らすためには、外にゴミを捨てる操作がいるということです。ある種、発生生物学が、今その段階に来ているんじゃないかと思います。
例えば、細胞は決定されてしまったら、もはや元には戻らないということでした。それに対してクローン実験で、ある操作で未分化の細胞に戻せるということがでててきたわけです。普通だったら不可逆だけど、変化しやすさを取り戻すことができる特別なやり方があるという意味で、まさに熱力学が辿ったのと同じことをやっている。
中村
なるほど。
金子
ES細胞が決定されていく時、その過程で減るなり増えるなりする量を示せると一番いいんですが、シミュレーションでその例は見えてきているけど、まだ一般にはわからない。でも、最初の変化しやすい細胞が、だんだん決定された細胞になっていくというのは、よどみでいえば、もっとよどんじゃって、だんだん動きがとれなくなっていくということです。ですから、閉じた条件で発生していくと、変わりやすかったものがだんだん変わりにくくなるという方向性がある。そこに、変わりやすさの法則みたいなことがあるんじゃないか。さらに、それを戻すためには、その中だけで閉じていたのでは駄目で、外からの操作を加えるなり、別の生きものとぶつかるなりしないといけない。四方さんのところで共生を作らせる実験があります。大腸菌と粘菌、それぞれよどんでいます。それを強引に共生させる状態にした。そうすると、共生に至るために、途中で1度変化しやすい状態になって、また戻った。
中村
放っておけばだんだん固まっていくものが、ある刺激で柔らかさを取り戻す。
金子
変化しやすさや可塑性というのは、よどみやすさの問題です。それを基本に据えて、よどみやすさの度合いや現象を見ることが、生物の中で熱力学に似た構造を探すということに関係してくるのではないかと思います。
(註8)ワディントン【Waddington C.H. 】
1905~75。インドに生まれ、地質学を学んでケンブリッジ大学卒業後、発生学に興味を移して研究。
季刊『生命誌』31号 岡田節人の歴史放談6 遺伝と発生をつないだ文化人 ─ C.H. ワディントン
季刊『生命誌』32号 岡田節人の歴史放談7 遺伝と発生と環境の関係を夢想する文化人 ─ C.H. ワディントン
7. 柔らかさを取り戻す
中村
遺伝子型と表現型の関係は、ある遺伝子があるタンパク質を作り、そのタンパク質がここでこう働いたからこういう姿形、表現型が出る、ということですが、そこで一番簡単なのは、遺伝子型と表現型の1対1対応。世間ではよく「○○の遺伝子」と言われますが、実際にはほとんどの表現型は1対1で簡単にいく話ではないということはわかっている。遺伝子型の変化と表現型のゆらぎの折り合いを、遺伝子型と表現型の関係とどう対応させていくかというところは…。
金子
その対応の場合、まず1つは遺伝子型から表現型に表れる段階で、かなりゆらいじゃうわけですね。同じ遺伝子を持つ大腸菌でも、あるタンパク質の量を測ると相当ゆらいでいる。このゆらぎが、遺伝子の進化と関係ないのかという問題が1つある。
その一方で、物理側の考え方で言えば、ゆらいでいるものの方が変化しやすい。外から何かを変化させようとした時に、外からの条件に対する応答の度合い、応答率はゆらぎが大きいほど大きくなるというのが、ある前提付きですけれども物理の法則としてある。そうすると、表現型がゆらいでいる方が進化しやすいという可能性がでてきます。それは遺伝子の話というよりも、むしろ表現型側の話であるわけです。
中村
表現型が、ゆらいでいるということは進化速度は。
金子
四方さんの大腸菌を進化させる実験で、進化速度が単に遺伝子の変異率だけではなく、変異率×表現型のゆらぎに比例しているということが見えてきています。だから表現型のゆらぎというのは、逆に遺伝子側の進化に対しても意味がある。遺伝子型と表現型が1対1でも多対多でも、遺伝子と表現型の関係は安定しているわけです。そうじゃなくて、同じ遺伝子で違う表現型が生まれるという、どちらかというと柔らかくて不安定なところに眼を向けているのです。
先ほども述べましたが、柔らかいところからだんだん固まるという傾向は常にあります。だから、最初すごく変化しやすい状況で、同じ遺伝子から違う表現型ができるという状況を作っておいても、それを閉じた中でずっと変化させていれば、だんだん固まるものが選ばれていく。
種分化のところで表現型が分かれて、その後遺伝子が固まる場合、最初は同じ遺伝子で2種類の表現型が生じます。だけど、その後だんだんそれに応じて遺伝子が変化すると、結局また1対1関係ができ上がるわけです。1対1に向かってゆらぎがなくなると、もうそれ以上進まない状況になります。そこで環境が変わるとか、何か違うものと出会うとか、急に密度が高くなるとか、そういう状況に置かれると、また柔らかさが回復する。またそれでずっと同じ状況が続いたら、また固まる。そういうことが何回も繰り返されてきたんでしょう。
中村
固まるのは閉じた中にいることが条件ですか。
金子
多分そうでしょう。ただ、熱力学の場合は閉じたというのは何かというのが定義できているわけですが、生物の場合には、まだそこがかなりいい加減で、こういうのが閉じているんじゃないかという、かなり直感的なところです。
中村
よどみというのは、放っておけば1対1の方へ行きやすい性質を持っているということを、例えば今の大腸菌の例で実験し、それが生命系の普遍性と考えてらっしゃると思うのですが、発生にあてはめても同じようなことが。
金子
言えますね。最初はES細胞のような、全能性を持つ変化しやすいものですが、発生が進むとだんだん固まるという基本的な方向がある。それから、原腸陥入(註9)。あれはある状況の中でそれぞれの細胞が固まってきます。ところが細胞がぐっと動き始めて、もともと遠くにあった細胞がぶつかり出す。そうなると、何かまた新たな分化が生じたりしますね。全く相互に関係なかったものがぶつかることで、柔らかさが回復し、また違うことが起こっていくという形が生じているんじゃないかと。
中村
なるほど。そういう見方が確かにできますね。
金子
柔らかさの失われ方や回復の仕方という見方で、発生もそうだ、進化もそうだ、というふうに見てとれるようになると、昔から、進化と発生は関係あるんじゃないかという気持ちを皆持っていたけど、表現でききれていなかった部分、そこが何かできてくるんじゃないかと。
中村
私たちも今、evo-devoといって、進化(evolution)も発生(development)もゲノムの側から見た時にはある種同じことをやっている面があることは、個別現象で感じている。クローンで戻るということは、柔らかくなる可能性を持ちながら固まっていくのが生きものの特徴なのかしら。
金子
固めようとしても固まりきれない部分があるんでしょう。ある意味、完璧に固まっちゃったらそれは死んでしまうということなのかもしれないです。柔らかさというのはあまりに漠然としていて、それだけでは定量的な生物学にならないのですが、それをゆらぎで測るとか、あるいは環境を変えた時の変化しやすさで測るとか、そういう測り方を決めていけば定量化できる。
中村
ゲノムの中で、具体的にメチル化が起ったりはずれたりするような反応も、固まったり柔らかくなったりということと繋がりますね。
金子
ええ。ただ、メチル化が原因というより、メチル化をさせる状況を作るのは、ゲノムというよりむしろ細胞全体の性質の方にあると考えたい。
(註9)原腸陥入
ショウジョウバエの形態形成 http://www.brh.co.jp/experience/exhibition/lab/5_oda.private/hp3/drmorpho_old.htm
8. 全体をわかるために
中村
細胞はとても沢山の成分からできていますから、基本を知るために、細胞が細胞であるための最低限必要なものは何かと探します。ゲノムも、どんどん削ぎ落としたらどこまで削げるか一番基本的な量を調べていく。でも、あまり簡単にはならない。細胞という生きている最小単位が、そもそもかなり複雑な系であるということは問題にならないですか。
金子
確かに難しい点だと思いますが、そのような条件の中で、生きものの基本的な性質を表すものを探すには、1個1個の成分がどうだということとは異なる軸で考えるしかない。1個1個の成分を見極め枚挙するというのは、熱力学で言えば、例えばこの部屋の気体の性質を知るのに、部屋のどの位置にどんな分子があるか、それを全部測らなかったら、わからないといっているようなものです。
熱力学の場合には、同じ分子が沢山あっただけですが、細胞には成分がすごく沢山ある。その意味ではかなり違います。それでも生物の際にも枚挙するのとは何か別な次元の捉え方があるのではないか。生きものの柔らかさとかということは、何かそういう形で見えてくるものではないか。
中村
多様なものが少しずつある系というのは、物理学は得意ではありませんよね。これまで生物以外でそのような系を扱った例はありますか。
金子
単に成分を増やしていくというのはありますが、それは1成分を10成分にしたとかいうくらいで、生物の場合は全然度合いが違う。やはり物理学が今まで扱ったのは、同じものが多数ある世界ですね。
中村
今までなかったということは、そういう新しい物理学を作らなければいけないということですね。
金子
そういうことを物理学としてもどんどん探っていけば、生物を捉えるいくつかのベースができてくるんじゃないかと思います。
中村
細胞は多様な成分からできており、その関係が生きるということを作っていく。しかもその中で少ししかないものが決定権を握っているらしい。その通りで、それをどう解くかというのは、現在の生物研究のテーマです。金子さんのアプローチはよくわかりましたが、生物学の主流は、成分がたくさんなるのだから、それを全部挙げていけば何かが見えてくるだろうという方向をとっています。プロテオーム、フィジオローム、システオーム…、オーム主義、すなわち枚挙で、この方向ではものは解決しないと思うのです。
金子
枚挙は、ある範囲内で限りがあるからできるものだと思いますが、フィジオロームとかシステオームとか、そもそも連続的に無限にあり得るようなものをオームと言って全部枚挙するって、不可能ですよね。一応そう言えば仕事があるからなんじゃないかと。
中村
ゲノムプロジェクトのマイナスの影響ですね。ゲノムは何十億の塩基からできていようと限りがあるものですから、オームであり、ゲノム解析プロジェクトが成功するのは当たり前でした。あれで大きなお金が動くという味をしめた人が、次にお金を動かすのもオームだと思ってしまった。
金子
ゲノムがわかったとすると、次やるべきことは、やはり難しいことをやるしかない。それは何かと考えなきゃいけないわけですよね。考えないでやろうとすると、何か別なオームを探すことになる。
中村
プロテオームで予算を取るのに成功しましたから、次のオームは何かと探してしまったんですね。オームの階層を並べて、これを全部解いたら生物がわかるだなんて違う。インチキ言っちゃいけないなと思うんです。
金子
わかるというのは何かということも、もう少し真剣に考えないといけない。それは物理学でも、素粒子が全部わかればそれがすべての理論ですということを言う人がいますが、それは全く間違っているわけです。そうではなくて、極端な話、熱力学の性質を理解しようとした時に、素粒子がどうであろうと関係ないわけです。逆に関係ないのに成り立つからすごいのです。関係ないのに成り立つ普遍的な性質というものの切り出し方を、必死に考えるしかない。
中村
そのとおりです。科学者が何で考えなくなったんだろうと、とても心配なことなんです。わかるということも、日常的にいえば、花の構造がどうで、花が咲く時にはこういう遺伝子が働いて、色はこういう分子が出しているんでなどということがわからなくたって、きれいだね、これは春になると咲いて、秋になると実がつくんだよという。それはもう立派なわかるですよね。そういうわかり方もある。そこに、葉っぱが花芽になるにはこういう遺伝子の働きがあるということがわかれば、それはまたちょっと面白いかなという、プラスしていく形で科学があると考えるわかり方があります。個々がわかるというわかり方、その攻め方だけが生物をわかることだというのが今の主流でしょう。
金子
そういう攻め方があってもいいとは思いますけどね。
中村
遺伝子を考える時に、10個の遺伝子より100 個の遺伝子で考えた方がいいですから、枚挙は大事です。だから、単なる枚挙なんだ、枚挙も役に立つという態度でやっているのなら、ちょっとお金がかかりすぎですけれど、まぁいいと思うんですが、それが生物をわかる王道なのかという問いを立てずにいるのはいけないと思います。
金子
コンピュータシミュレーション、理論の側でも、同じような問題があって、細胞の化学反応がいろいろわかったら、とにかく全部それを入れてモデルを作ればいいだろうというのが、はやりとしてあります。ある種の枚挙です。でも、それやってもやはり何もわかったことにはならない。せめて本当に正しい式が全部完璧に入れられるということなら、まだわからなくても役に立つことはあるのかもしれないですが、実際上それもほとんどゼロです。中途半端に入れたのでは役にも立たないし、わかりもしない。だったら、そんな完璧に合うことを目指すのではなく、薄目でそーっと見ても常にこの辺は成り立っているなという性質を切り出してくることの方が大事なんじゃないかと思います。
9. 今後の方向
中村
ゲノムプロジェクトはとても意味があったと思うし、プロジェクトとして成り立ち得るものを成り立ち得る形でやったと思います。それまで生物学でプロジェクトなんてやったことなかった。
アメリカはプロジェクトの好きな国ですから、月に行きましょうという明快なプロジェクトで大成功した後、1970年代にガンのプロジェクトを立てた。でも、ガンはプロジェクトには合わないのです。ガン遺伝子が初めて発見された時、これでガンはわかったと思って色めきたったけれど、ガンというのはそれこそ遺伝子だけで解決するものじゃなく、遺伝子の働き方、まさにゆらぎが山ほどあって。
金子
果たして遺伝子が変異したことそのものが原因なのか、それともそういうふうになりやすい状況ができちゃったのかということの方がわからないですしね。
中村
ガンは亡くなる方が多い病気だから、研究自身は大事ですし、遺伝子探しも必要ですが、プロジェクトに向くものではありませんでしょう。
金子
終わりのないものに無理やり攻勢かけて、研究の多様性も失われちゃうし。
中村
改めて生命とは何かと問うことですね。それなしでただ情報を並べていても何も解けない。プロテオームでプロテインを一生懸命解明する時も、それが生命とは何かという問いとどうつながるかということをそれぞれ考えなきゃいけないわけですが、考えてない。そういう中、真っ向からそれを問う本をお出しになってすごいなと思って…。
金子
やはり人それぞれで生命に対して、すごくうまくできているなーということに感動する人もいるし、そうじゃなくて、何か変化しながらそこそこみんなとうまくやっていけちゃう部分、何かどういう状況でもうまくやっていけちゃう部分に興味を持つ人もいて、僕はどっちかというと後者の方で。
中村
私も後者です。そんないい加減にやって何十億年も続いてるのはすごいことで、逆に言うと、いい加減さが続かせているのだと思いますね。きちっとしていたら、多分そこで壊れちゃったでしょう。
金子
固まっちゃったらもう終わりという状況ですよね。
中村
固まらないけれど、ある約束事を持ちながらやっているところが面白い。その約束事をDNAの方から考えてしまうのに私は慣れてしまっていますが、おっしゃったように、環境側からと突きあわせて。
金子
今までは、マクロ側からやるといっても、測りようが全然なくて研究のしようがなかったですからね。理論も、理論だけでやっていたのでは、「変化します」で終わりになりますから。でも、今はどういうゆらぎがどういう法則を持つかということを、実験してチェックできる。あるいは、ゆらぎと進化がどう関係するはずだとかということを理論で考えたら、それを実験できる。実験と理論を行ったり来たりできるのが、面白い段階です。一般には実験と理論の距離の置き方というのは難しいんです。生物学には、もともと理論というのが独立して存在したことが少ないですが、物理の場合は、一応独立したにもかかわらず、下手をすると片方が片方の奴隷になっちゃう。
中村
でも物理では、今までは理論が出てそれが証明されて、という形で来たわけでしょう。湯川先生の中間子のように。
金子
実験する際に理論がないと何も引き出せないというのはありますね。その意味で理論がある程度は必要です。でも、そうやった挙げ句、何かそれでは言えない部分が出てくるというところが、実験のまたすごいところで、そうするとまたその理論の根本的な枠組みを変更せざるを得なくなる。一番いいのはそれがうまく循環した場合です。
中村
生物学では、まだそういうふうにはなっていないですね。進化論という論はありましたけれど、そういう経験がまだないから、生物学の中では、理論と実験のサイクルはこれからですね。
金子
そうですね。理論と実験はそれぞれの問題を考えるんですが、実際はキャッチボールしながら進んでいく。最初に大雑把な理論的な考えがあって、その方向に実験をやってみると何かまた新しい視点が出てくる。それでまた理論に立ち返ってみるとこうなるはずだということで、行ったり来たり。今のところ、四方さんのグループとはそのキャッチボールがうまく行きつつあります。
生物の理論でよくあるのは、実験的に既にわかっていることを式で書いて、逆に実験にフィードバックがあまりないというか、せいぜい実験条件をちょっと狭めるとか、実験の補助線のちょっとした部分の一番小さいところを引くみたいな、そういう使われ方が多かった。それは理論として実験の奴隷なわけです。逆に、理論の式があって、実験がそれに合いましたというのも、また実験が理論の奴隷で、それもよくない。やはり理論というのは物事の見方とか考え方をかなり提示する。そこから何かそういう立場で実験をやってみて、またでもそこから違うことも出てくる。もう1回考え直す、という形が正しいんじゃないかと思います。物理でも実際そういうふうにうまく進んだケースは、しょっちゅうあるわけではないですが。
中村
私は生物と言っても分子生物学から入ったので、マクロな見方とか理論とかいうことを考える必要もなく、DNAを中心にした研究の展開を面白がっているだけですんだのが10年くらい前まででした。ところが、ゲノムの登場以来、何か別の方法がなければいけないと強く思うのですが、全く新しいことを考えるのですぐには答は出ない。生命誌は、コンセプトとして出して、狭い意味の科学を超えるということを考えましたし、そこは間違ってないと思うのですが、その中で改めて「生命とは何か」を考える必要があるわけで。金子さんのお仕事は前から勉強してきましたけれど、これからも面白くなりそうなのでいろいろお教えください。
金子邦彦(かねこ・くにひこ)
1956年神奈川県生まれ。東京大学大学院理学系研究科修了。ロスアラモス研究所研究員、東京大学教養学部物理学教室助手、基礎科学科助教授などを経て、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は、生命基礎論(複雑系)、カオス、非平衡現象論。