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年間特集「人間ってなに?」
精神医学から人間を探る
分類学の父リンネが精神医学につながると言われてキョトン。神の領域に置かれていた狂気が自然としての科学の対象になるには、狂気が分類可能とされることが必要だったのだ。
精神医学の誕生だ。一方、神から与えられたものとされていた言葉も失語症に関わる脳の領域が見つかり、自然現象として研究対象になる。
生物学も脳研究で精神と言葉に切り込んでいるのだから、これを自然と見ていることになるのだが…。難しいところへ入りこんじゃったかな。
1. 精神も自然史の中で捉える
中村
現代生物学では、共通性と多様性を同時にみることのできるゲノムという、これまで手にしたことのない切り口が出てきましたので、生命科学を踏まえながら、科学では捉えきれない、生きものの歴史物語に注目して、生命誌(バイオヒストリー)という新しい知を立ち上げました。
そこで今年度は、生きものの一つとしてのヒト、人間について考えてみようと決め、情報科学、脳科学、心理学などの中で、生命誌の視点から見て興味深い研究をしていらっしゃる方とお話してきました。“言語”“クオリア”“アフォーダンス”など、心について考える時に、とても有効に違いない概念をめぐって考えてきたのですが、これらに目配りしながら、心そのものに向き合っていらっしゃる新宮さんにお話を伺いたくなりました。
新宮
精神医学という分野は、病理的な現象から心を考えていきます。例えば幻覚という現象は、見えないものが見える。この現象ではどこかで何かが生み出されるわけですけれど、それは患者さんにとってしか存在しないものです。このようなものが生み出されるプロセスには、言葉が大きく関わっています。
精神医学はたいへん新しい領域でして、1800年代の初めに生まれました。医学という長い歴史をもつ分野の中で概念化が遅れた理由は、次のようなことです。狂気を病気として捉えるという認識は古い時代からあったと思うのです。昔の人は、ただ狂気をおまじないのレベルに落としていたわけではなく、扱い方がわからなかったので、超自然的な領域に説明を求めていたのです。神様の支配する領域に狂気を置き、自分たちの理解が及ばないものとしていたのです。そこに、リンネがモデルになって、狂気も自然の一部であるという、自然史の概念と不可分な考え方が出てきたのです。
中村
リンネ(関連記事:「物語化する人類-現代人よ、ホメロスになろう:吉田政幸」)は多様な生物界を体系的に分類した人として知られていますが、それがなぜ狂気と…。
新宮
1年年間フランスにいて、フランス人の学問的伝統の中では自然を歴史の中で見ているらしいということに気づいたのです。それを知った上で精神医学の本をいろいろ読んでいたら、18世紀に狂気を自然として見るという転換があったことがわかってきました。学問の伝統として自然史的なものが常に背景にあったので、リンネの概念体系を精神医学に持ち込むことができたのだろうと思うのです。
中村
初めて伺ってびっくりです。その2つがつながるなんて、日本人の学問観では…。フランスではそれこそ自然にそういうことが行われたのですね。
新宮
そうです。今までは神の領分にあった狂気を人間が扱うに当たってモデルになったのです。リンネのような体系がある以上は、狂気を自然の一部と考えれば、学問として扱えるはずだと考えられたのです。その時期に精神医学が生まれたことが、これで説明がつきます。分類の作業は自然の理屈に従っているのだから、狂気も分類さえできれば扱えるという自信がその時代の人々に芽生えたのだと思いますね。
中村
そこで病気の分類が大事になるわけですね。日本で勉強してきた精神科医としてそれに気づいた時、考えさせられることがたくさんあったのではないかと想像するのですが。
新宮
学問の歴史を感じ、新しい見方が生まれる面白さにも惹かれました。リンネをモデルにして病気を種という生物の単位になぞらえて、単位として切り出そうとしたわけです。これは体の医学では既になされてきたことでした。
中村
体の場合は体の部位や症状で物理的に分類できますが、精神の場合は見えないものを分類しようというわけでかなり大胆な挑戦ですね。しかもキリスト教社会では、精神は神様の世界のものとしてきたわけですから。
新宮
それだけチャレンジとしての価値は高かったでしょうね。1800年代の精神科医は、狂気は病気であり、精神病と言われているものは脳の病であるということを繰り返し、声高に言わなくてはいけなかったのです。
その考え方でがんばった時代が、100年以上続く中で、生物学が分類を越えて、普遍性を追及するものになっていき、シーンがガラッと変わってしまうことになるのですが、今でも自然史的分類は、我々が現実に狂気というものに対応しようとして考える道具の一つですね。今新しい生物学と対応してこれをどう見直すか議論しているところです。
中村
具体的にはどんなことが議論されているのですか。
新宮
まずこれまでの統括として、リンネをモデルにしてきたことで何を得たのかということです。例えば、躁鬱病と統合失調症(従来精神分裂病と呼ばれてきたもの)。これらはそれぞれ疾患単位として存在していますが、両方とも興奮した時はドーパミン活性を抑制する薬を使います。違う病気に同じ薬を使っている。これは単にテクニックが未発達だということなのか、それとも疾患単位が自然に対応していないのか。そこで自然史の考え方でリンネをモデルにしてやってきた分類作業が、本当に自然に対応しているのかという問いが出るわけですね。
中村
具体的には人間の体およびその変化に対応しているのかという問いですか。
新宮
そういうことです。関係性まで入れた作用も含めてですね。
2. 自然観察の試み
新宮
次に「経過」の問題が出てきます。疾病単位は独立性を持って時間の中で変化しますが、それを「経過」といいます。経過を見ていくためにはどうしたらいいか。社会の中にいると、あまりにも多くの因子の影響を受けて、自然経過を見られないので隔離しましょう(註1)というので、病院ができました。昔の精神病院は巨大な施設で、人が何千人もいて、生産施設まであったのです。その中で自然経過を見ようとした。それが結局精神病になった人を閉じこめることになったわけで、人間として痛みを感じますね。
中村
社会の方が対処困難だから隔離したのかと思っていましたが、そうではないのですね。
新宮
幸か不幸か、社会の利害と学問の利害が一致したのです。ところが、たくさんの患者さんを入れましたから、その中で社会作用が起こるのです。独特の相互作用が起こって、精神病院特有のカルチャーができてしまう。そのカルチャーが個々の患者さんに影響を与えますから、そこで見えてくるものは実は自然経過ではなくなります。精神病院は、少し前からあったユートピア思想と組み合わさって、ある意味でのユートピアとして捉えられたのです。「満たされないあこがれが人を狂気にする」とヴィトゲンシュタインが言いましたが、あこがれが実現した世界ですね。
中村
より自然でない状態という言い方もできますね。
新宮
まさに仙人的な世界ですね。一般社会が精神病院にそのような幻を見てしまい、恐らくその圧力は患者さんに反映しただろうと思います。最初にリンネの発想でいこうと思った時には精神科医はそんなことは、まったく考えなかったはずです。パリの植物園や動物園では、日本の植物園、動物園と違うものを肌で感じました。自然を見たいと思って、動物たちを隔離しているのですよ(註1)。精神病院もこれと同じ発想だったのです。
中村
なるほど、それが動植物を隔離することによって、独特の環境をつくるところが考え方として同じ。
新宮
ええ。まさに同じやり方で扱おうとしたのです。植物も動物も、人工の空間に移したのでは、自然を観察することにならないという反省になってくるのですが、人間に対してもそれが出てきます。開放医療の動きです。時間がかなりかかりますけれど。ヨーロッパでこのようなことが起きていた時に、日本はどうなっていたか。夏目漱石の『草枕』で描かれているテーマは、人間がこの世を超越したらどうなるかという問題意識です。狂気のイメージが変化する歴史的過程が日本にも同時代的にあったことは確かですが形が少し違っていました。
(註1)自然を見たいと思って隔離するとは・・・?
当時興隆を極め精神医学をも成立させた自然科学的発想のなかで、人間理性は観察し、自然は観察されるものとして位置づけられた。むろん観察される自然に尊厳が無いわけではなく、人間の影響から離れて自律的な法則で自立しているものが自然であった。そして人間の観察はそれを曇りなく映し出す鏡であるべきだった。そこで、動植物を知るのにも、それらを人為から離してその自律性を保たせて観察することが求められた。むろん冷静な学者たちは、動物も植物もその土壌から離せばその質を変えることを良く見抜いていた。しかし時代の空気はそうした洞察を越えて、自立した自然を、万人が接近可能な状態に置いて観察することを理想として求めたのである。そうした情熱が巨大な動物園や植物園を出現させた。同様の発想が、精神病患者にも適用された。精神病を分類・分析するには、人為が加わっていない自然の状態を観察する必要がある。精神病という自然が自立した存在として自然経過を辿るはずの場所が用意された。患者が社会から離れて生活する巨大な精神病院は、「自然な」状態で患者が観察される場所となった。現代の目から見ると、人間である精神病患者が人間から隔離されている状態が自然であるという考え方は非常に奇妙に思える。西欧の自然観の歴史的変遷の中においてこそ、こうした巨大な精神病院の出現の意味を理解することができる(発言者の了承を得て編集部で作成)。
3. 新しい認識方法としての歴史と物語
新宮
自然はすべて言葉で照らし出して2つに分けられるという論理で考えれば恐いものはない。これがリンネですね。動植物でそれができたから、次は人間だというのが、1800年代の認識であり、狂気を分類していくわけですが、現実にまず扱うことができたのは、自然の原因で起こってくる精神異常でした。例えば、その頃精神病のモデルにされたのは、進行麻痺という、梅毒の進んだ状態です。神経系を侵し、最後は痴呆になるのですが、進んでいく過程で、躁鬱病的な状態や統合失調症的な状態など、症状がさまざまに出てくるのです。これがモデルになっている。もう一つインパクトの大きかったものが、人間の精神活動の基本、つまり言語です。それまでは、西欧の人にとって、言語は神様から与えられたものであり、話をしている時は神様が後ろについているという発想だったのです。ところが失語症の発見で、言語が脳に結びついているということになった。ブローカが脳の言語中枢を発見するわけですね。言語の異常まで自然によって説明できるのだから、当然すべての精神的な異常は説明できるはずだという希望が行き渡ったのです。ちなみにブローカは人類学会をつくりました。同一人物が言語中枢を発見し、人類学を始めたということは偶然ではありません。人間が人間を見ようとした時に言語が見え、狂気が見えた。
ところで、人類学は、最初、ヨーロッパ人以外の人々を対象にしました。これは大きな意味のあることです。人間が人間を観察し、研究するということになると、当然、そこに自己言及的な構図ができてしまい、事が面倒になりますから、本能的にそれを避けようとしたのです。そうならない対象を選んで、アジア人は劣っているというような人類学がつくられました。当然それに対する反省が生まれ、そこから出てきたのが精神が精神自身を研究するということもありうるという考え方です。そこにあらわれたのがフロイト。「精神も精神的でないものと同じように科学の対象になるべきだ」「精神を特別なものとして見るな」とフロイトは言ったのです。科学としてはとても積極的に見えますが、フロイトは消極的な意味だと言っています。なぜなら、精神が物になってしまったら人間としては何も言えないわけですから。人間として自分がいるということをあきらめて、科学の実験台になるしかないわけです(笑)。私で人体実験をしてくださいという態度しかとれない。じゃあ、誰が実験するのかというと、誰もいないわけです、本来はね。だから科学はつぶれる。消極的というか否定的というか。フロイトは自己言及的な構造に対して意識的だったと思うのです。精神が精神を調べて、人種によるヒエラルキーを考えたりするようなことはもうここで終わりにしようと言うと同時に、これで科学も終わりになってしまうかもしれないという認識の仕方を始めたのだと意識していたのです。「世界観は精神を語れない。それなのに語ったふりをする。よって世界観は科学的世界観も含めて排除すべきである」ともフロイトは言った。30年代ですので、ちょうど大不況と重なり、歴史の分かれ目がやってくるわけです。この頃から、先ほど話した大収容主義の精神病院はいけない、社会で人々と一緒に暮らしながらの治療を考えるべきだという動きが出てきました。
中村
生命も、精神と同じに、具体的な存在ではなく、概念ですね。DNA研究を基本にした科学はあらゆる生物に普遍な生命現象を調べるという意味で、生命科学と名付けていますが、フロイトの言を借りるなら科学的世界観は生命も語れないと言ってもよいと思うのです。生命誌に移ったのはそれもあって。
新宮
それは秘密じゃないですか、もしかして。
中村
フロイトがそう言っていると伺って、ドキッとしました。生命科学として行われている研究は面白いですし、成果は十分生かしますが…。
新宮
そういうふうに我々の思考が進むのは、誠実に科学すること、それから論理的に考えることをしていった場合に必然的な成り行きだと思うのです。フロイトがまさに自分の頭の中でも精神医学の歴史の中でもそういうところにぶつかって、それで新しい認識方法を考えなくてはいけないと思ったのです。
中村
それは全体として捉えて行こうとすることですね。
新宮
そうなってきますね。全体の捉え方として彼が考えたのが歴史でした。フロイトは我々が自分のことを認識しようとすると論理的に認識できなくなるという構造を重んじた。生命もそう、意識もそう。精神もそうであると。そうすると、患者さんが具体的な場面で自分の生命について(ライフですから、生活も含まれますが)語った場合、あるいは自分の精神について語った場合、危うさというか、ぐらつきというか、ぶれというか、そういうものが感知されるはずです。それを聞く方も共有するということなのです。
治療目的で、患者さんの病気を生活と絡めて理解するために話を聞いていますと、その振れやぶれが非常に大きく鋭くなる時が来ます。それはしばしば患者さんが事実なのか空想でつくり上げたことなのかを誰にも決められないようなことをしゃべっている時なのです。それはひょっとしたら幻覚とも、妄想ともいえるかもしれない。
中村
でもそれは精神の活動ではあるわけでしょう?
新宮
そうです。それをどう考えるかという時に、フロイトは歴史に頼るのです。この例は、一般聴衆向けの話で、彼が持ち出したものですから、余りにも単純化しているように見えるかもしれませんが、アレキサンダー大王の実在を誰も疑わないではないかということです。日本人としてはそれは西洋人がつくり上げた妄想だと言いたくなるところもありますけどね。そういう歴史認識に我々がなぜ現実感をもてるのかということをフロイトは引き合いに出し、語り継がれてきたものは現実の質を得るということを表に出そうとしたのです。
今、医学や社会史でナラティブ(語り)という言葉が使われますが、出発点はフロイトなのです。西欧でナラティブという言葉を使う人はフロイトを意識しています。ナラティブというのはフロイトの考えから来ているというのが常識なのです。
日本では70年代以降初めて論理で記述する普遍的な科学観に対してナラティブという考え方が出てきたのだとされていますが、本当は1800年代まで戻れるのです。まず、人間が人間を認識しようとした100年間があり、その限界点まで来た時にフロイトが出てきた。彼は、歴史的認識をしなければにっちもさっちも行かない部分が人間にはあるのだということを、精神分析という形で明確にしたのです。そこが「ナラティブ」の出発点だと思います。
中村
半世紀DNAを基本に進んできた生命科学は、今、フロイトが出てきた時と同じ場面にいるのかもしれないという気がしてきました。フロイトと同じようにきちんと考えなければいけないし、そうすれば新しい展開ができるのではないかと思っていますけれど。生命誌の「誌」は歴史物語という気持ちですから、ナラティブなのです。
新宮
そのとおりですね。凝縮された形で、フラクタル状に歴史は並行している。
中村
私が生命について考えていることとあまりにも似ているので、びっくりしています。フロイトをきちんと勉強したこともないし、精神医学において、自然がそんな大きな意味を持っていたとは全く知らなかった。リンネの役割など想像もつかなかったことです。
新宮
日本でも精神医学史学会という小さい学会がつい最近できました。それまで精神医学の歴史的な意味を考える場がなかったのです。ですから外に向かってちゃんと話してこなかった精神医学の怠慢もあると思います。
4. 歴史的存在として認識する
新宮
具体的な面に言及させていただきますと、フロイトが歴史ということを言った時に、アレキサンダーという言葉で何を聴衆に納得させたかったかというと、子供時代に起こったことの現実性です。人間が自分を歴史的存在として認識すると、子供の時の私と今の私の連続性が歴史だということになりますね。それと一般の歴史を現実認識することには、並行関係がある。彼はこの2つを重ね合わせていいのではないかと提案しているわけです。
中村
生物でも、一つ一つの生きものの発生は、進化と重ね合わせられます。
新宮
系統発生と個体発生の問題は、精神分析や精神医学の認識論で大きい問題なのです。人格の連続性とは何かということになると、ロックの記憶概念、つまり記憶が人格であるという見方で大体は納得していると思うのですが、幼児期健忘については、あまりみな深刻に考えなかった。幼児期のことは忘れていますね。これは一体何だろうということで、1900年頃に熱心に研究された時期があります。フロイトもこれにとても興味をもち、悩んでいたのですね。自分の経験も出して、いろいろな理論を立てています。それまでは、そんなにみな深刻に考えていなかったと思うのです。自分についてある時期以降のことしか覚えていない。つまり、自分の起源を覚えていないのだから、自分の歴史認識が完全に崩れている。いい加減なものでしかないのではないかという疑いですね。これが深刻になってきたのがちょうどフロイトが精神分析をつくった頃と同時期なのです。この不安によって人は病気になると。この不安に対応するものとして精神分析がつくり出されたのです。
確かに非常に小さい時期、5、6歳ぐらいまでは生まれた時のことを覚えているという場合がありますよね。どこまで正しいかわかりませんけれどね。たとえそれが事実だとしても、その時期を越えて大人になればすっかり忘れてしまう。
中村
三島由紀夫は産湯を覚えていると言いましたが。
新宮
そうですね。文学者に取り上げられていますね。一番深刻なのは芥川だったと思うのです。『河童』という小説。自分が自分の責任で生まれたのであれば、歴史は全部主体化されることになる(笑)。そうはいかないので、患者さんは分析を受けることで、歴史を主体化していくわけです。フロイトは、患者さんの症状を見ていて、人生が変わっていく節目と、自分の起源について語って歴史を主体化したり、し損ねたりすることとが深い関係があることに気がついたのです。
中村
自分は自分の責任で生まれるわけにはいかないことも、幼児期健忘も誰にもあることですね。答はどうしても得られないわけですから、そういうことをまじめに捉えれば、むしろ狂気になるほうが普通かもしれない。
新宮
そうですね。我々にも精神病の患者さんにも共通の地盤としてそれがあると思うのです。
中村
のほほんとして生きているのは、きちんと物を考えていないからであって、真剣に考えたら狂気になる本質を人間は持っているということなのでしょうか。
新宮
多分、とことん考えられないようにスイッチが入っているのだと思いますね。
中村
どこかで思考停止する仕組みですね。そのスイッチが外れると、とことん考えてしまう。
新宮
考えて、自分の新しい理論をつくってしまう患者さんがいる。非常にわかりやすいのは血統妄想です。自分で生まれをつくってしまう患者さんもいます。高貴な生まれとか、マッカーサーに言われて自分だけが日本の統治ができるはずだとか。
中村
よくそういう話を聞きますが、意味が初めてわかりました。先生方はその話を聞いて意味を考えるわけですね。
5. 幻覚と知覚
新宮
幻覚は、患者さんが言ってくれない限り、全然わかりませんから。
中村
言葉での表現を聞いて、それを思い浮かべる。
新宮
そうなのです。自分はどういう形で幻覚を経験するかを患者さんが、詳しく語ってくださることが、幻覚認識の前提になります。我々のコンセンサスになっているのは、患者さんにとっては幻覚は知覚と同じものだということです。脳のメカニズムが同じという意味ではなくて、患者さんの体験として最終的な経路、アウトプットとして知覚と同じレベルにある。だから、幻聴を実際に言葉が耳に入ってきたと感じることもできるわけです。
例をあげますと、ある患者さんが、大体よくなって、また会社に勤めたのですけれども、新しく勤めた会社では自分の机の上にどうもマイクがあるらしいと。上司が仕事の内容をいつもそれで言ってくるから、自分はそれに応えながら作業をしていた。双方向的なマイクだと思っていたら、横にいる後輩が「先輩のひとり言はおもしろいですね」と言ったんだそうです。それで、あっと気がついて、また幻聴を聞いていたんだと思ったのですね。後輩には聞こえていないと。患者さんは、自分に対する上司の指示だと思って真剣にそれを聞いていたわけです。 そして、もしあれが幻聴だったら、こうして今しゃべっているのも幻聴ですねと言うのです。聞いたのは現実です、2+2=4というのと同じ現実ですと。
幻覚を2つに分けようとしている人もいます。頭の中で思うものが何か本当にあるような気がしてくる状態というのはありますよね。そう思えば思えるというか。ただその場合は、話を聞けば大体わかります。それは偽幻覚で、表象から来ているわけで、知覚から出てきた真性幻覚を分けることを提案する人もある。ヤスパースの流れです。ヤスパースの言う真性幻覚が知覚と同じだとすると、真性幻覚こそ病的な脳から出てくる幻覚のはずですから、これを病気の指標にしようと考えるわけです。偽幻覚のほうは病気ではないとして区別する。しかし、これも怪しくて、統合失調症の患者さんの経験を聞きますと、幻覚だと自覚しているに違いないという面があるのです。それでも患者さんにとって幻覚の現実性は減らないのです。そうなると真性幻覚と偽幻覚とを区別して、それを病気とそうでないものに対応させることは、本来難しいのではないかと感じられます。統合失調症ではなく、脳に病気があって幻覚が見える例はもちろんあります。それがはっきりわかるのは薬を使った時ですね。
中村
幻覚剤ですか。飲んだことがないので(笑)。
新宮
残念なことに、私が精神科医になった頃にちょうど自由に使えなくなって。私より前の世代の精神科医は実験といって体験していたこともあるようなのですけれど。
後頭葉の視覚野に動静脈奇形ができ、その部分を手術で摘出した方があります。当然視野が狭くなるのですが、脳の視覚野の変化ですから、自分の視野が狭くなったという自覚は難しいのです。当然ですよね。網膜や角膜に変化があればわかりますが情報を処理しているところ自体が損害を被るのですから。何か見えていない感じを患者さんは感じるのですね。その感じの代わりにというと変ですけれども、もともと見えているはずのところと客観的には思われる場所から「松の木が生えている、いつも松の木が邪魔でしようがない」などとおっしゃるのです。
統合失調症の患者さんですと、そういう場合、誰かが自分の脳の中に松の木を入れたんだとおっしゃるのですが、その方は頭を手術したために脳に異常が起きたので、何とかしてほしいとおっしゃった。全く違うのです。この場合の松の木は真性幻覚です。
中村
そのような、幻覚も言葉で表現されるのですか。
新宮
「言葉にあらわせないけれども、何か聞こえます」とか「何か見えています」というのは表現できていると考えたほうがよいのではないでしょうか。「言葉にあらわせない何か」「言いにくい」「何か言っている」そういう言い方をされる方もあります。患者さんの体験として、聞こえているのはどうも言葉らしいと思っているのか、単に音が聞こえていると思っているのか。それらはかなり明確に語ってくれるのが普通ですね。
中村
言葉であることは確かだけれども、意味はわからない。
新宮
そういうことはありますね。
中村
自分の見たものは言葉では表現できないと言って、それ以上語らないことはないのですか。
新宮
表現しようという意志がない方という意味でしたら、それはあると思います。幻聴を聞いていても、私は幻聴を聞いていると報告されない方はあるでしょうから。患者さんがひとりでニヤニヤしながら、ひとり言を言っておられるということがあります。そんな時は幻聴を聞いているのではないかと考えたりもします。その時に、幻聴が聞こえているのですかと聞いたら、何か答はあると思いますけども。
中村
新宮さんが「本気で自分を表現しようとしたら言葉は借りるしかない。言葉はそのような役割をしている」と書いてらして、「借りる」という切り口に驚いたのですが。
新宮
そうですね。精神分析をしていますと本当にそう思います。日常的にも意識的になれば、かなり経験できますよ。自分の感情を込めて物を言いたいとか、時には思わず言ってしまったとかね。心の中に思うのでもよいのです。そういう場合、あっ、おやじの言葉や口癖になっているとか思うことがありますでしょ。誰にもありますよね。懸命に自分を表現しようとする場合、「他者から借りたもの」だという言葉の本質が出やすいわけです。
6. 幻覚と言葉
中村
借りることが言葉の始まりということですね。幻聴でわけのわからない音が聞こえている状況は、まだ言葉を持たない赤ちゃんの状況なのでしょうか。
新宮
それに非常に近いと僕は思っているのです。人間の頭脳の録音能力というものを想定すると、勝手にテープレコーダーのスイッチが入ってしまうような状態が考えられます。だから子供の時に入ってきて意味は別に理解されないで登録されていることがあってもいい。勝手にスイッチが入ると脳の中で鳴り出すわけです。これは音楽では、日常的に経験されることでしょう。
中村
頭の中で音が鳴るということってありますね。
新宮
音楽ってそういうものですね、本質的に。ですから、それとのアナロジーで、言葉にもそういうことがあり得ると考えているのです。
音楽と幻聴の大きな差異はそこです。言葉によって幼少期の頭の中に溝がいっぱい彫られているとします。昔のLPレコードみたいにね。そのLPレコードの溝を再生した時、言葉も一緒に再生されるとしたら幻聴になるけれども、一般には、それを再生すると、リズムと音の高低だけ出てくる。そういうLPを考えてみたらどうかと思うのです。リズムと高低だけあればあとは音色を考えたり自分の好きなものをつくれますよね。
中村
それが音楽。
新宮
ええ。ところが同じLPで、そこから意味だけ取るようなプロセスがあるのではないかと思うのです。
中村
音の録音という意味では同じLPの中に入っているのだけれど、音の高低だけを引っ張り出すと音楽になり、意味を引っ張り出すと言葉になる。音楽と言葉というのはそういう関係だと考えればいいということですね。なるほど。脳の問題を取り上げた時、新潟大学の中田力さんが言葉と音楽の類似性を脳のはたらきから説明して下さったのを思い出します。一方、音楽とただの雑音とは違うわけですね?
新宮
違います。
中村
音楽には、確かに言葉的な意味はないけれど、全体としては意味を感じているわけですよね。例えば、これを聞くと悲しいとか、元気が出るとか。つまり、単なる雑音と違って、全体としてはある意味をもっている。
新宮
もとはやはり声ですね。現実的な言葉にはなっていませんけれども、声のラインだけは頭の中に彫り込むということができます。子供はまだ言葉を理解しませんから、意味がわからないままに、声のラインだけをLPのように頭に彫り込んでいると考えたらどうかと思っているのです。
中村
それをやっているうちに、そこから自然に意味が出てくる。子供が言葉を覚える時にはそれをやっているのでしょうか。榊原陽さんという方が赤ちゃんは誰でも言葉を覚えられるのだから、大人も赤ちゃんと同じようにすれば外国語をそれほど苦労せずに身につけられるはずだとおっしゃるのです。その場合、言葉を大きな波として捉えるとおっしゃるのですが、それを思い出しました。子供にも正しい声のところだけを引っ張り出すという能力はあり、その後で意味のほうをとれるようになってくるということですね。
新宮
いつかそれができてくると思うのですよ。
中村
その中から言葉が生まれてくる…。
新宮
ええ。声というのは、意味と音のレベルとが分離していませんよね。多分、それを分離する能力が、人間にはいつかできるのではないかと想像しているのです。何も実証的な裏づけはありません。しかし、そう考えれば、音楽が非常に幻聴に近いのにそれを聞いても健康なままでいられることが説明できます。患者さんの幻聴は意味がついていて、それを聞くことで、だんだん病気の中に深入りしていって、生理的な機能が変わってくる。
中村
音楽の一つ一つの音に、もし言葉のような意味があったら大変なことになるわけですね。
新宮
そう思うのです。患者さんの場合は分離しないまま登録されていて、分離する機構が働かない。
中村
LPの例に戻れば、音と意味の溝が共通なわけですね。子供は最初は2つが共通だけれど、それがだんだん分かれていく。
新宮
そう考えているのですが、実証研究はありません。その2つが分かれ、登録されて、幼児期健忘で無意識になる。
中村
言葉のトラックと、音楽のトラックとが分かれて、普通の人は忘れてしまう。それが引っ張り出されると幻聴になる。納得させられますね。そうするとそういう方は音楽を聞いても、意味のあるものに聞こえたりするのですか。
新宮
音楽については実験はないのですが、音について言葉が聞こえてくる人はたくさんいます。機能性幻覚というのですが、要素的な音の関数として言葉が出てしまうのです。患者さんがよくおっしゃるのは 、台所の食器を洗ったり料理をしたりしていると、言葉が聞こえたりする。
中村
そういうところから、言葉の始まりや言葉って何だろうという問いに答が出てくると思われますか?
新宮
今、申し上げた説明の仕方は、非常に受け身的です。人間を機械のように見ているわけです。外からの観察ですね。でも、どこかの時点で言葉を発しているのは自分だという意識ができます。この意識がどうやってできるかということは大きい問題と同時に、言葉を使うとは何かという問題ですね。つまり、ここで自己言及の問題が出てくるのです(註2)。
中村
人間のことを考えると、必ず自己言及にいってしまいますね。
新宮
能動的に自分は言葉を発しているのだということにした場合、その発した言葉が自分のことであるということになったら、一体誰がその真理性を保証するのかということが出てきますでしょう? ここで初めてさっき言ったような、歴史的起源がつくられたものか、支えられたものかという重大な問題が発生しますね。それ以前は、その問題は出ないので、病理的に問題にはならないのですが、病気として重大になってくる理由は、そこの部分に何があるかということで生活史が変わるからです。
(註2)自己言及の問題が出てくるとは・・・?
人間を機械のように見る外からの観察においては、人間が発した言葉の真偽を問うても自己言及の問題は発生しない。しかし、自分が(能動的に)言葉を発しているとき、「自分が自分について発している言葉は真か?」と問うと自己言及の問題が発生する。この問い自体が自分の発した言葉であるため、その問いを発している自分自身の意図がそこに入り込む。そうすると、その意図によって真偽の判断は曇らされることになる。したがって、自分は自分自身の発した言葉が真か偽かを決定する正統性を主張できなくなる。これが自己言及の問題で、問い自体が無力になり、人間の内面の真理性は、自分にも、そして他人にも保証できなくなる。特に、「私とは何者か?コレコレシカジカという歴史をもつ者なのか?」と私が私に問うとき、この疑問に対しては、内面的に確実な答はない。というのは、生まれたときの記憶はもはや無くなっているからである。ここに自己言及の無力さは、生理的な健忘に裏書きされて決定的になる。人は自らの歴史的起源については真理性を保証されていない。それゆえ、そこの部分で幻想や妄想を持ちやすくなる。こうした構造をフロイトは重要視した。つまり、自分では自分の歴史的起源の現実性を得ることができないということが、さまざまな精神疾患の基盤になると考え、精神分析を考えついたのである。そして、患者が精神分析の中で語りながら、起源の無力さを主体化していけば、治療につながるとしたのである(発言者の了承を得て編集部で作成)。
7. 人間にしかないもの
新宮
今、お話ししたプロセスとは別に、幻覚は非常に積極的な現象だということをお話ししましょう。
脳内には言葉が登録されているけれども、意味としてはつかみきれないものがあり、それが圧力として作用するようになる局面が、人間の発達や社会生活の中でいろいろある。そういう時に、人間は、その圧力に対して、その言葉に対応するものをつくり出すことがあるらしい。それが幻覚だろうと思うのです。
中村
幻覚の後ろにも、意識されていないけれども言葉というものがある。
新宮
はい。まさにそう考えています。そこでつくり出される一番大きいものは、自分という概念ですね。自分をつくり出すわけです。
中村
自分というのは、言葉により自分でつくり出すものだということ。言葉はコミュニケーションの道具と捉えられ、国際人にするために幼児期から英語を教えるなどと言いますね。コミュニケーションだったら、身体語もあるし、他の生きもの達も持っているし、もしかしたら、コミュニケーションの道具としては言葉が一番できそこないかもしれない。誤解を一番招きやすいものかもしれないとさえ思うのです。そう思うと、そんな不完全なものでありながら存在する言葉の本来の意味は、ないものをつくり出す役目だと思うのです。自分なんてどこにもないけれど、それをつくり出すとか。それは言葉でなければおそらくできないでしょう。だから、人間にしかないものは何かというと、言葉というか言葉がつくり出すものではないかと思うのです。
新宮
ええ。ラカンの鏡像段階(註3)という有名な説がありますけれども、鏡像段階の自己生成も一種の幻覚を含んでいると思います。じゃあ生まれつき目の見えない方の場合、私というのはないのではないかということがよく言われるのですが、言葉があれば、構造的に全く同じ関係が生じます。言葉の圧力がやはり鏡像段階をつくり出せるのだと思っています。
中村
言葉のつくるものこそ、人間特有のもの。
新宮
幻覚については、精神医学としては立場がたくさんありますけれども、なぜ言葉を研究しないといけないか。患者さんを病気にする要素として最も大事な幻聴がやはり言葉だからです。患者さんにとって自分というのは言葉によってつくり出されるしかないだろうと思うのです。それが私の基本的な立場なのです。
我々が忘れてしまった子供時代に、いろいろやったこと、もしかしたらさせてもらったと言ったほうがいいようなことがたくさんありますね。それはどれも言葉の関係であれやこれや試してきたことです。患者さんは、それを大人になってやろうとして、うまくいかない方達だろうと思うのです。大人になってからではうまくいかないことというのは生理的にもたくさんありますし、当然社会的にもありますね。言葉との関係の樹立もそうだと思うのです。大人がやろうとすると、幻覚になったり妄想になったりする。忘れられた子供の時代にやっていたのなら、幻覚とも妄想とも言われないわけです。そういう幸せな時代があって、その時に幻覚や妄想をたっぷり経験しておくんだと思うのです。その時には幻覚や妄想じゃなくて、それでいいんだという形でね。これが私だという形で、しっかり道標にした時代があったのだと思うのです。
中村
なるほどね。小さい子供はまだ言葉がきちっとできていないから幻覚や妄想にはならないけれど、言葉ができてしまうと、これは幻覚だとなってしまうというのは示唆的ですね。子供の頃に幻覚、妄想にあたる体験をたっぷりしておかなければいけないのでしょうね。
新宮
ええ。これらは言葉との関係で出来てきたものですけれどもね。
中村
今、幼児期に、既にでき上がった映像などが、どんどん与えられてしまっていますけれど、それは余りいいことではないのですね。
新宮
私はいいと思わないですね。与えられたものには、もう意味が入っていますからね。
中村
まだ言葉も持っていないうちに、意味のあるものをどんどん入れられても、本当は余り意味がなくて、むしろ自分の中でつくっているほうが後々のためにはいいわけですね。そうすると、ごっこ遊びなどには大きな意味があり、それをどんどんやるといいのでしょうか。
(註3)ラカンの鏡像段階とは?
鏡像段階論は、フランスの精神分析家であるジャック=マリー・ラカン(1901-1981)によって提唱された。ラカンは、フロイトの流れを汲み、彼の理論の実践に新生面を開いた人である。フロイトの言う自我理想の概念が教えるように、人間は誰しも己が満たすべき理想像を心に描いて生きている。この理想像に向かっているという感情が妨げられるとき、その妨害者と目された相手に対し強い攻撃性が向けられる。理想像との間のこのような危険な関係は、早期における言語との関係によって生まれると考えたラカンは、幼児の行動を観察し、そこから鏡像段階論の着想を得た。子供にとって鏡に映る自己像は、周りの大人、とくに一緒に鏡に映った大人たちによって強い承認を与えられる。鏡の世界での大人と自分との関係は、将来の自分が自分自身に対して取り結ぶ関係の原基となる。大人たちの言葉が、未熟でバラバラの動きをする身体を一挙にまとめ上げ、理想像を実現するのである。この像の上に、社会的な「私」という主語の地位が与えられる。周りの人間の言語活動のうちに現れる鏡像的な理想像への同一化、これによって人間は主体としての自己を見いだすのである。(発言者の了承を得て編集部で作成)
8. 神様と芸術
新宮
それもあると思いますね。ごっこ遊びは、芸術制作と関係があると思います。芸術制作は神様ごっこですよね。神様は、無から有をつくるわけですから。
中村
神様ごっこ。だから、何でもつくっていい。
新宮
何でもつくっていいのですが、神様だからあまり本当に存在したかのようにつくっちゃだめなんじゃないですか。例えば、彫刻は人間の形をしているけれども、本当は土くれだとか、絵は二次元のものだとか心の中で見る人は思うわけでしょう。それでもどうせ神様っていう、いない人がつくったものだから、そんなもんかと思って見てくれるので、それで芸術というのは救われるわけです。
中村
人間の体だけれど、タンパク質はなく、土でつくってある。だからこそ意味がある。
新宮
まさにそこに大事な問題があると思うのです。進化の中には、我々が知らないところで、いろいろに作用し合いながらつくっていく過程があり、人間の作業はそこに全く関係がないわけです。我々もつくられているのだし、何も考えないで、全部自然にお任せしたほうがいいということになってしまう。言葉がここに何かを持ち込むのですね。つまり、つくる人とつくられる人という根本的な2分割を持ち込むのだと思うのです。受動と能動と言ったらいいのかな。
例えばコップは入れるもので、入れられるものとして水がある。入れるものと入れられるものという一対の装置ですね。これはラカンの用語だとシニフィアンという言葉になりますけれども、基本的なところで、つくる、つくられるという発想を導入してしまうので、途端に僕らは苦しみ出すわけです。誰が世界をつくったのかということを問わざるを得なくなり、それがわからなかったら、もう自分は生きている価値がないと思ってしまったりするわけですね。わからなくても別にいいんだけど。わかってしまったら科学者になる人もいないわけですしね。でもそういうことを考え出すのが、言葉をしゃべり出すということの宿命で、言葉が最初に生みだすのは、自分がつくるということだと思うのです。それを言葉にすると全能ということになります。神様ごっこというのは、言葉ですべてがつくれるということを含んでいると思います。
じゃあ、神様として作品をつくっている自分は誰がつくったのかというと、それは神様がつくった。神様が自分をつくり、自分は神様と同じように、この芸術作品をつくっているという並行関係、これが大事だと思うのです。比例関係と言ったほうがいいのかな。6:4が3:2であるという比例関係ですね。これを神と自分の間と、自分と作品の間に置くわけです。こういうスタイルで進化が概念化できますね。最初に何かはありますけれど、すべてが途上なのです。比例関係が次に進展していく途上なのですね。分数の計算の過程で、比例関係を並べてみた時、初めも終わりもわかりませんけれども、そのプロセスだけはちゃんと進んでいる、論理的に進んでいるという状態が人間の中につくられる。
これが人間にとっての創造であって、初めとか終わりではないのです。現実の人間の創造は途中だけしかない。それを要素的に還元するなら、やはり非常にシンプルな比例式になるのではないかと。
中村
なるほど。でも、その式をつくる時にいつも神様がいないと…。
新宮
だめなのですよね。ただ神様というのは自分を含んだ、自分と対象を含んだものですから、改めて別にある必要もないのです。
中村
神様と私の関係は、私と対象の関係。
新宮
ええ。そういう神様であれば、別に自分と対象がいるだけで、比例式さえあればいいのです。『ラカンの精神分析』の中で書いてあることは、ある意味でそれだけだと言ってもいいぐらいなのです。自分が受け身になって神様につくられているけれど、そのもともとの神様は自分と、つくっている相手とを足したものです。全体が私をつくって、私が全体から私を引いたものをつくっているという関係ですね。こういう関係を頭で想定していれば、最初に何があったかは一応、どうでもよくなるのです。そのプロセスを進め続けることが芸術にはできます。材料さえ与えられればいいのです。この状態はある意味でちょっとシニカルな面も含みますけれど、人間同志の関係は全部割り切れるものではなくて、無理数を含んでいるという認識もつくってくれますから、とても大事な話じゃないかと思います。
9. 言葉がみつからない時におきた幻覚
新宮
私は、幻覚みたいなものを見たことがあって、その時これはこういうことかなとわかったのです。患者さんの幻覚の場合、要するに見えないものが見えますよね。それは無理数という対象だと考えたらいいと思うのです。割り切れない、だけど存在しているというもの。
なぜ、そんなことを見てしまうのかということがなんとなくわかった気がした体験はこうなんです。ある病院に勤めていた時のこと。病院というところはセキュリティが悪いのですが、医局にかばんを置いて診察に行っており、その途中でかばんが必要になって戻ってみたらなかったのです。一瞬何が起こったかわからない。言葉としては頭に浮かばないうちに、先に何かが起こったのです。かばんの形のようなもの、エネルギーが見えたのです。それはもちろん、自分が自分の世界の一部に、かばんの形の部分に当てはめたエネルギーに過ぎないということは当然です。でも、透明な、そこだけちょっと空気の密度が上がったようなものが見えたのです。その次に、あっ、これは盗られたかもしれないという言い方が浮かんだのですけれど、最初はわからないわけですよ。盗られたというのは、いつもはない事態ですから。そういう、あまりふだん経験しないようなことが起こった場合には、言葉で表現しようと思っても、言葉がみつからないわけです。うかつに盗られたという言葉が浮かんだら被害妄想かもしれませんよね。それがどういう形であらわれようかというところにすごい圧力があって、それが僕にエネルギー体みたいなものであらわれた。その後、強烈に疲れたのを覚えています。そういうものを見るにはやっぱりエネルギーが要るのですね。
患者さんが幻覚を見たり妄想を持ったりする状態は、一時的に悪くなる状態です。数カ月続いてまたおさまりますけどね。おさまった後はひどい疲れがあるのです。だから、その疲れている状態の時に励まして、早く社会復帰しなければいけないというようなことを言ってはいけないということを、その経験から体感しました。
10. 精神医学と生物学
中村
生物学ではいろいろなことを調べる時に、普通のものを見ていてもよくわからないので、常と違うもの、時にある機能が欠けているものをつくります。変異体です。例えば、花の色のでき方を知りたい時に、色のない花をつくるというようなことをします。生物学ではそれが実験の常套手段です。
狂気という状況を調べることが人間の本質を見ることになるという感覚は、精神医学にはありますか。
新宮
単純には言えないのです。病気を欠如体として見ていいのかどうかということが、我々の場合、わからないですから。
中村
欠如体と言ってはいけませんね。欠如ではなく何かが加味される場合もある。何かわからないけれども、野生と少し違うものを見るということなのですが。
新宮
もともとの野生の精神というものが何かがわからないのです。その本質が。今、一応精神医学でよく使われる仮説を、とりあえずたたき台として申し上げます。我々は、陰性症状と陽性症状という言い方をします。ネガティブとポジティブ。訳し方も問題があるかもしれませんが。
ネガティブというのは欠如体ですね。つまり、脳が何かの原因で侵されていることによって、普段できていることができなくなる。陽性症状は普段ないようなことが起きる。この2つに関係があるかどうかわかりませんが、それぞれそのような状態があると考えることはできます。しかも、陰性症状ではできなくなった部分を下位中枢が補う。十分なことができないので、不十分な仕方で似たようなものが補う機能があるわけです。そうするとこれが妄想となるので、ここで陽性症状となるのです。この区別は便利ですので、よく使われますが、どこまで妥当かということは非常に議論があります。大ざっぱにいえば、リンネをダーウィンで置きかえたか、リンネにダーウィンを足したような理論ですから。どの陰性症状がどの陽性症状で補われるのかという過程についての実証性のある研究は全くないと言っていいでしょう。特に陰性症状のほうが問題ですね。例えば患者さんが生態学的な社会機能を維持できなくなっていくという事実をどう捉えるかということですけれど。それが何で規定されているのかということをセントラルドグマに対応するような形で研究していいのかとなりますと、もう何も言えません。
中村
精神を対象とする難しさですね。
新宮
それでもそういう仮定で乱暴に研究を進めざるを得ないところがありますから、遺伝子のこの部分に変異がある人について、非常に高度になった画像技術で脳を調べてここが萎縮していることで社会機能が衰えてきたという個別例を示す研究はかなり出ているのです。しかしそれを、どこまで普遍化できるかとなると、まだ全くの霧の中ですね。方法論を待っている段階と考えた方がよいと思っています。
中村
今の学問には、方法論待ちがたくさんある。
新宮一成(しんぐう・かずしげ)
1950年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。精神医学専攻。フロイト、ラカンの理論に基づいて、妄想・幻覚の臨床や芸術作品における無意識世界を探っている。