どんな子供だったか

決して優秀でも目立つ子供でもありませんでしたね。むしろ新しい環境に入るのに臆病で、小学校に入学した時も、最初の日は泣き出したい気持ちでした。そんな時、先生が黒板に「ミミズが3匹はってきて、あられが3つ降って来て…くるっと回って蛸入道」と書いてくれた。それでみんな大笑い。これで、学校に行くのが楽しみになりました。

今から考えると、生物学の道に進むことになったのは、いろいろな趣味をもっていた兄の影響ですね。北海道の冬は長い。待ち焦がれた春が来て、兄と彼の友だちに連れられて山にカエルの卵を採りに行ったのは、小学校3年の時でした。盆栽用の白い水盤に卵を入れて見ていると、オタマジャクシになっていく。山に戻ってオタマジャクシが何を食べているかを観察したところ藻のようなものをだったのでホウレンソウを煮て与えました。カエルになったんですが、ある時全部いなくなったんですよ。部屋を掃除していた母が、あちこちにカエルの死骸を見つけて悲鳴をあげたと後で聞きましたが、私があんまり一生懸命だったので、やめろとは言えなかったそうです。夏には昆虫採集。小学校の間は毎年そんなことをしてました。

中学1年の時に第二次世界大戦が始まり、優秀な子は陸軍士官学校や海軍兵学校を目指して勉強していましたが、私は、小遣いでフラスコを買ってきて、硝酸銀を作って電気メッキをしたり、鏡や望遠鏡を作ったり、そんなことに熱中していました。それでもいずれ日本国のために死ぬと考えていましたから、終戦になった時は、どうしていいかわからなかった。親戚はほとんど商人という中で、唯一理工系だった叔父に勧められて、北海道大学付属土木専門学校(室蘭工業大学土木学科の前身)に入学しました。土木工学は、本来civil engineering(公共工学)といわれる学問ですが、屈強の男たちを監督するような当時のイメージが自分と合わず、勤まりそうにないと思えてきました。そんな中で、物理実験が始まり、計画をたて、実験経過を観察し、考察するという過程を学んだ時に、初めて面白いと思ったのです。先生に、お前の考察はなかなかよいと褒められ、研究が向いているのかなあと勝手に思うようになりました。

ある日、測量の実習で山の中の池のほとりに棒を持って立っていたら、夕焼けがきれいで。その時に子供の頃を思い出したんですよ。カエルや昆虫を採ったことなどをね。人生一度きりなんだから、好きなことをやりたい。それで漠然とですが、生物学の研究者になろうと思ったのです。

ところが、それまで学校では生物学をまともに勉強していなかったので、どうしていいのかわからない。兄に北大の理学部動物学科の大学院にいる友人の山田真弓さん(後に理学部教授)を紹介してもらい、相談に行きました。生物学の研究者になりたいというと、本当にその気持ちがあるなら自分で勉強して受験するようにと、本を貸してくれましてね。橋の設計をしながら5~6回くり返し読みました。生物の体が細胞からできているのを初めて知ったのはこの時です。動物の発生のところは、何しろカエルの卵やオタマジャクシと一緒に生活していたわけですから、理解は簡単でした。1年後に北海道大学の理学部を受けて合格しましたが、変な履歴をもった男をよく受け入れてくれたものだと、今でも感謝しています。

理学部の学生として本格的な講義を受けられるようになった時は、幸せでしたね。臨海実習でウニの受精と発生を観察した時の印象は強烈でした。卵子と精子が合体し、分裂してウニになっていく。徹夜で顕微鏡を覗くのですが、生命の誕生はなんとダイナミックなんだと感動し、こんな研究をしたいと思いました。

卒論ではニシンの受精というテーマをもらい、その後、理学博士の学位に向けて、寄生性甲殻類の生活史などの研究をしました。当時は公募という制度がなく、大学の数も少ない時代でしたから、自分で就職先を見つけることは難しかったのです。私が教授の推薦で得た職は、高等学校の生物の教員でしたが、研究をあきらめ切れず、授業が終わってから大学の研究室に通いました。高校の教師は大切な仕事とは分かっていましたから、なるのなら金八先生にならなければならない。中途半端では生徒にも自分にも悪いと考え、1年でやめました。

大学や水産試験場で、魚や甲殻類などの養殖に関する研究をしたいと思っていたのですが、職場を自分で探せる状況ではないので、あきらめるより他ありません。漠然とですが、皆と違うことをやろうと考えていましたね。

北海道大学時代。(後列左端)

生殖生物学を志す

私の研究の軸になったのは、大学の時に読んだE.B.Willsonの“The Cell in Development and Heredity(発生と遺伝における細胞)”の序文の一節です。「子供はその形質を親の体からでなく、生殖細胞を通して受け継ぐ。遺伝に関する限り体は生殖細胞のための運搬屋に過ぎない」。この概念は、体細胞クローンが作れるようになった現在、少し修正しなければなりませんが、自然の状態では、あくまでゆるぎない事実です。読んだ時には、私にとっては、コペルニクスの地動説にも匹敵するものに思えました。

もし生物が一代しかないものなら、実につまらない、儚いものでしょう。連綿と続くことにこそ生物や生命の意義があります。それを司っているのが生殖細胞で、私には、それが生物の多くの細胞の中で一番大切に思われてきました。

魚や甲殻類の養殖に関する研究はあきらめなければならなくなったので、哺乳動物の受精や発生、生殖の研究はどうかと考えました。そこで、見渡してみたところ、そういう研究をしている人は世界でもパラパラとしかいない。今、あまり注目されていないけれど、受精は世代と世代を繋ぐ大切なポイントですから、いずれヒトを含めた哺乳類でのこの分野の研究が大事になる時代が来るはずだと思いました。文献を徹底的に調べ、活発に研究しているアメリカのM.C.チャン博士(ウースター実験生物学研究所シニアサイエンティスト、ボストン大学教授)に、実はあまり期待しないまま、ポスドクとして採用してくれないかと、魚と甲殻類についての論文とともに手紙を送ったところ、来てもよいという返事をくれたのです。ずっと後に、哺乳類を扱ったことのない私をなぜ採用したのかと聞いたところ、「魚でいい仕事をしていたから」という答。チャン博士のその判断がなかったら、私の人生はどうなっていたかわかりません。

ウースター実験研究所で

1960年、旅費だけのフルブライト奨学金をもらって渡米しました。ウースター実験生物研究所は、マサチューセッツ州のほぼ中央にあるウースター市の郊外の小さな町にありました。チャン博士は、すでにウサギを材料に初の体外受精に成功しており、数々の賞を受賞していました。当時すでに52歳でしたが、ほとんど全部自分の手で実験していました。

哺乳動物の精子は、魚や他の脊椎動物の精子と違って、オスの体から出た段階では受精能力がまったくありません。メスの生殖器(子宮や輸卵管)を上昇している間に、その能力を獲得します。これを精子のキャパシテーションといい、52年にチャン博士とイギリスのオースティン博士が独立に発見していました。キャパシテーションが精子の原形質膜の分子の変化によるということは、ずっとあとになって分かったことで、当時は、その実態がわかっておらず、体内だけで可能で、体外では起こらないと考えられていました。

私はハムスターを使って、この現象が培養液の条件さえよければ体外でも起こせることを示し、63年、チャン博士と共同で『Nature』に発表しました。これは、その後のヒトも含めたいろいろな動物の体外受精の基礎研究や応用研究を勇気づけるものになりました。

ウースター研究所に4年間滞在し、キャパシテーションの仕事の他、メスの体内での精子の行動を研究し、顕微鏡下で哺乳類の精子が卵子に侵入する全過程を世界で初めて観察する幸運にも恵まれました。

4年間、チャン博士が、私に直接ああしろこうしろと言ったことは一度もありません。彼の話や研究の姿勢を見ていて、単純で大きな質問をもつこと、事の本質は何かを見極めること、実験は単刀直入をモットーにすることなど、多くを学び、簡単ではないけれど、そのように努力したいと思ってきました。彼は、日中戦争で、家族が日本軍にひどい目にあったということでしたが、日本人である私やその後彼のもとに留学した日本人を分け隔てなく親切に扱い、「悪いのは戦争であって、日本人ではない」と言ってくれました。

4年間のビザの期限がきて、日本に帰ることになりました。ウースター研究所での私は、今から考えると、あまり生産的だったとは言えませんが、その後の私の研究のランチング・パッド(発射台)になったことは確かです。

60年、アメリカに旅立つ前。母親と

ウースター実験生物研究所時代。夫人と。

帰国そして、長いハワイでの生活

帰国後しばらくして、アメリカ滞在中に知りあったバンドビル大学のR.ノイス博士から手紙がきました。ハワイ大学に新設される医学部の副学部長として赴任するので、参加しないかという内容でした。当時私は、北大に戻って、再び研究生となり、教養部の医学進学過程の臨時講師をしながら、アメリカの財団から研究費をもらって研究を続けていました。そのままいても将来どうなるかわからなかったので、ノイス博士の誘いを喜んで受けました。

66年、ホノルル到着。初めは市内の病院の一部を研究室に使い、2年後に大学のキャンパスに移動しました。とにかく、38歳で初めて定職につき、遅れを取り戻すべく夢中で研究をしているうちに、あっという間に年月が過ぎてしまいました。つまらないことをしていると2~3時間で疲れますが、好きなことをしていると、たとえ2~3時間しか眠らなくても疲れないものだと実感しましたね。

ハワイ大学は、特に私のために何もしてくれませんでしたが、研究の邪魔になることは一切しませんでした。研究面でゼロから始めたわけですが、ゼロに到達するのに大きなエネルギーを使わなくて済んだのは何よりのことでした。ゼロ以上のところでどれだけになるかは一切、本人の責任ですから。

ウースター研究所で始めた動物の体外受精とそれを使っての受精機構の分析をハワイ大学でも続けました。体外受精に精力をかけたのは、受精過程の分析にどうしても必要だったからです。70年初期には、ヒトの体外受精も研究テーマにしましたが、私自身は、基礎に専念した方が、世に貢献できると考え、臨床は何人かのポスドクに任せました。私は主に、生理学的方法と電子顕微鏡とを使って、精子と卵子の成熟、精子の雌性生殖器官での行動、精子と卵子の相互の関係など、ハムスター、モルモットなどを主な材料として研究しました。

論議をかもした仕事といえば、75年、卵膜をとったハムスターの卵子にヒトの精子が入ることを報告したことでしょうか。ハムスターの卵子の原形質膜はどういうわけか、精子が生体反応を起こしていさえすれば、異種の精子でも受け入れます。精子と卵子の原形質膜の種特異性を調べる実験でわかったことです。この方法を使ってヒトの精子の染色体を調べられることも、78年、『Nature』に発表しました。

精子を直接に卵子に注入した実験は、キャパシテーションの前の精子の核が、胚の発生のための準備を完了しているのか、いないのかを知りたかったからです。この素朴な実験は20年後、ヒトの男性不妊症の治療のさきがけになりました。

94年から普通のプロセスでは受精できない不妊精子、未熟精子、または精子になる前の細胞を使っての顕微受精の研究を始めました。これはあくまでも雄性配偶子になる細胞および完成配偶子である精子の核そのものがどんな状況にあるのかを知りたくて行った実験です。利用はあとでついて回ります。

アメリカから帰国してまもなく。家族と。

ハワイ大学で。

恩師のチャン博士(中央)と。

96年、国際生物学賞受賞式。

受賞式後の歓談。

ハワイの州政府も国際生物学賞受賞を祝ってくれた。

還暦の御祝いに集まった弟子たち。

クローンマウスの誕生とクローンの将来

97年の初めに哺乳類の最初の体細胞クローン、羊のドリーのニュースが入ってきました。その直後、『Science』は、次にクローンに成功するのは誰かと10グループ程リストに上げました。我々のグループは、胚や成体の体細胞を扱ったことはないので、もちろんそのリストには入っていませんでした。ドリーを成功させた当のロスリン研究所でさえ、追試できないので、本当に体細胞によるクローンなのか、多くの科学者が疑い始めていました。

97年の夏のある日、不妊精子の顕微受精の研究をしていた若山照彦君(現理化学研究所、発生・再生科学総合研究センター)が私の部屋に駆け込んできて、卵丘細胞でクローンができたと言いました。彼の実験室で実体顕微鏡を覗くと、心臓が動いている若い胎児が1匹見えたのです。

我々は、顕微受精のために、毎日卵子と精子を採集していますが、1個の卵子の周りに、5~6千個の卵丘細胞がついています。これは成長する卵子に栄養を与える体細胞です。若山君は、ドリーの論文を読んで、乳腺細胞の代わりに、毎日とれている卵丘細胞の核を未受精卵に入れてみたのです。おそらく初めはなにも起こらなかったのでしょう。

実は私は、若山君が暇を見つけてクローンの試みをしているのを知りませんでした。これは私がチャン博士の研究指導方針を受け継いでいるためです。博士は「1週間のうち3日は私の与えたテーマの研究をする。これはお前のBread&Butter(研究費に対する見返りとして結果報告の義務あり)。あとの2日はお前の好きなことをしてよい」と言っていました。ハムスターの体外受精の仕事は、この2日を使っての実験でした。もちろん3日と2日をきっちり分けた訳ではありませんが、大切なのは指導者が自由を与えること。その自由から独創性が生まれる。皆が同じことをするなら研究なんていらないですよね。違うから価値がある。私は、若い研究者に、独創的でなければ意味がないと言っています。“Don’t be afraid of asking creative questions”とね。変わった質問、とんでもない夢、魔法みたいなこと、そこから新しい発見が生まれる。例えば、100年前には、地球の反対側の人と話せるなんて、誰一人考えもしなかったわけでしょう。

指導者は自由を与え、研究者は重要な結果が出たら報告することです。これが自由を与えてくれた指導者に対する義務と礼儀です。今後、バイオテクノロジーや特許に関する研究が増えると思いますが、その場合のこのような関係は指導者と研究者両方の常識と良心にまかせるしかありません。若山君はその点ちゃんとやってくれました。マウスのクローンの論文は、掲載されるのに時間がかかり、『Nature』誌上に発表されたのは、98年7月でした。

クローンは、はなはだ能率の悪い生殖ですので、数回実験しただけではネガティブな結果しか得られません。よほど気長にしなければなりません。ロスリン研究所グループも、根気よくやった若山君もともに褒められるべきです。その後、ウシ、ヤギ、ブタ、ウサギ、ネコなどの体細胞クローンが続きましたが、体細胞クローンの成功でわかったことは、これまで不可逆的に分化したと思われてきた成体の細胞の核が卵子の細胞質中で「若返る」ということです。まだこの「若返り」とは何を意味するかわかりません。大抵のクローンは生まれる前に死んでしまいますから。これは「ジェネティック(遺伝的)エラー」でなく、「エピジェネティックエラー」のためです。遺伝子そのものより、遺伝子の発現機構の欠陥です。大抵のクローン胚では、遺伝子の発現が目茶苦茶になっているのです。生まれてきたクローンはむしろ例外というわけです。一見正常に見えるクローン動物でも、かなりの遺伝子発現のエラーが隠れている可能性が高いのです。少なくとも、クローン動物は、その親より健康ということはないと思います。最近ヒトのクローンに成功したとか、するとか。ヒトの親は誰も、自分の子供が自分より健康で、より幸せであることを望みます。クローンは決して優れた生殖方法ではありません。

ただし、クローンの技術や原理は、細胞や組織の再生に利用できる可能性があります。卵子または胚を使った治療クローンは、どうしても倫理的議論の対象になるので、クローンの動物実験でわかった原理を利用して、卵子や胚を使わない新しい方法の開発が望まれます。エピジェネティックエラーのあるクローンのオスとメスを普通に交配させて子供をつくると、その子供や孫は、全部正常です。遺伝子が卵子や精子を通るとエピジェネティックエラーがまったく直されてしまうのです。畜産では、望む形質の動物(例えば、ウシやブタ)がクローンで出来たら、それを早く交配して子孫を作るのがよいと思います。

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顕微受精

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卵子とその周りに大量に付着している卵丘細胞

クローンマウス第1号。1才の誕生日を祝って。

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体細胞クローンマウスを誕生させる方法を説明するのに博士が使っている図。

生殖研究のこれから

未来の予測と言っても予測できるものは大抵たいしたことではありません。本当に大きいのは、予測できないのが通常です。私の小さな夢のひとつに精子の凍結乾燥保存があります。私の研究室で、ある程度成功しています。卵子や精子を体外で増殖させる方法ができれば、多くの実験動物を殺さなくても研究ができるようになるでしょう。クローンの原理を使って、既存の細胞から卵子や精子をつくることができれば、新しい不妊治療の可能性も開けてくるのではないか。細胞や組織の若返りもある程度できるようになるはず。がん細胞も、もともとは他の細胞のように、受精卵からできたものですから、生殖生物学的見地から見直せば、がんの予防や治療の新しい方法が見つかるかもしれない。不妊や避妊の問題もまだまだこれからです。

自然は、有性生殖をヒトを含めた動物の生殖様式として採用してきました。自然がクローンにたよらなかった理由があるはずです。クローンの利用も大切ですが、自然の仕組みをさらによく研究することで、自然の中に潜んでいる偉大な力を引き出し、それを活用させてもらえるはずです。我々の生命や人生が出産の時に始まったと考えるのは誤りで、精子と卵子の合体した1個の受精卵から始まります。そこには、計り知れない力と可能性が潜められているのです。(文責:高木章子)

研究室のメンバーと。