科学者にきっとなろう

滋賀県の湖西にある饗庭村に生まれました。3歳の頃に母親を亡くし、実母の記憶はほとんどありません。母は結核を患っており、結核患者は厳格に隔離の必要があると当時は考えられていたため、生前から一緒に暮らすことができませんでした。また父は母のため、高額な結核の治療薬「ストレプトマイシン」の費用を捻出しようと、京都へ泊まり込みで働きに出ていました。そこで幼い私は、報恩寺という近くのお寺のお婆さんに預けられることになったのです。

父は月に1度か2度は村へ帰ってきましたが、再び仕事で京都へ戻るたび、私は見送りの駅で大泣きしたものです。そんな私の身を案じてか、お婆さんはいつも優しくしてくれました。夏の日に、お婆さんについて琵琶湖の湖岸の道を隣村まで歩いたことを覚えています。おかげで普段は両親と暮らせない寂しさを、それほど感じることなく育ちました。ただ、母に抱きしめてもらった思い出のないことが、成長した後に寂しく感じられることはありましたけれど。

父の再婚に伴い、京都に移りました。家にいるよりは外で遊ぶのが好きで、スポーツが得意でした。当時の京都は自然豊かで、今よりずっと水量の豊富な鴨川で泳いだり、上賀茂神社の裏山全体を使って、壮大な隠れんぼをしたりしたのがいい思い出です。私自身はすっかり忘れていましたが、小学校の文集には「湯川先生が大すきだ。科学者、科学者、ぼくはきっとなろう」と書いたのだそうです。敗戦で打ちひしがれていた日本にノーベル物理学賞をもたらした湯川秀樹先生に、誰もが憧れた時代です。

高校生になって通い始めた「北野塾」という塾で、物理学のおもしろさに目覚めました。お寺のお堂を借りて始められた新しい塾で、指導は非常に厳しいものでした。でも物理の梶川五良先生の授業が、教科書にない解法をみんなに考えさせる方針でおもしろかったのです。古典力学はF=maというシンプルな運動方程式から全ての公式を導くことができ、それであらゆる現象を説明しようとすることに畏敬の念を抱きましたし、さらに特殊相対性理論に出会い、時間が伸び縮みするという考え方に新鮮な驚きを覚えました。当時は夜中の12時まで塾に残り、先生を囲んで物理問題の解き方をあれこれ工夫したものです。どうしても物理をやりたい、それには湯川先生のおられる京都大学の物理しかない、と迷いなく進路を決めました。

クリックして拡大する

満一歳の頃、両親と叔父(右端)と。

クリックして拡大する

小学1年生の頃。外遊びやスポーツが好きで、学生時代に短歌に出会うまで、文学に興味をもったことはなかった。

クリックして拡大する

小学3年生の頃、父が連れて行ってくれた東京の国立科学博物館で。当時の東京行きは珍しく、クラスの羨望の的だったことを覚えている。

高校の頃に出会って大きな影響を受けた『数式を使わない物理学入門』(猪木正文著)。この本でアインシュタインの相対性理論に触れたことが、物理学を志した理由の一つだ。上の写真は私が読んだもの(カッパ・ブックスより刊行)。下の写真は2020年に角川ソフィア文庫より再販されたもので、光栄にもあとがきでこの本への想いを書かせていただいた。

青春の三重苦

大学では、憧れの湯川先生の最後の年の講義を受けることができ、さらに希望どおりに理論物理学の研究室に進むことができました。しかし3年生になって、見事に物理学から落ちこぼれてしまったのです。理由は3つあり、まず70年代学園闘争。次に短歌と出会って、そのおもしろさの虜になったこと。そして京大短歌会や同人誌活動を通じて、後に妻となる河野裕子に出会ったことです。

私が3年生だった1968年は、安全保障条約の延長に伴う政治への不信に始まり、ベトナム戦争反対、競争社会への不満などが、若者の間で一気に爆発した時期です。学生によるデモや集会が行われ、大学も一年間ロックアウト。考え方の違いから学生同士の争いにも発展していきました。私自身はどの派閥にも属さないノンポリでしたが、運悪く、京大の学生運動史上最大の闘争の場に居合わせてしまったことは忘れがたい思い出です。全共闘と民青という、学生運動の二大派閥が衝突したのです。暗闇の中、次々と飛んでくる石や火炎瓶の下を走り抜けた時は死を覚悟しましたね。

学生運動の喧騒の中、私はますます短歌へ傾倒しました。短歌は高校の頃に少しだけ詠んでみたことがあり、その際いきなり京都新聞への入選も果たしたのですが、若気の至りもあって「なんだこんなものか」と却ってつまらなくなり、やめてしまいました。しかし大学で新しい学生短歌会の立ち上げに加わって前衛短歌を知り、同世代で歌を詠み合ううち、自分を表現する短歌に夢中になったのです。歌の師である高安国世先生の「『塔』にお入りなさい」というアドバイスに従って、社会人の短歌結社「塔」に入り、同人誌を立ち上げたりもしましたし、そのなかで生涯の伴侶、河野裕子という存在を得ました。このあたりの青春の蹉跌は、拙著『あの胸が岬のように遠かった』(新潮社)に詳しく書いていますし、ドラマ化もされました。

学生運動に翻弄され、恋人とともに歌の世界へのめり込んでいった大学時代でした。歌のほうでは、学生時代から全国的に名が知られるようになり、おもしろくてやめられませんでした。そして気がつけば、私はあれほど好きだった物理学に全くついていけなくなり、学問への希望を失っていったのです。

クリックして拡大する

大学時代のゼミ風景。古典力学から量子力学の世界に足を踏み入れたが、複素積分などの数学的記述に苦戦した。

クリックして拡大する

理学部の物理学科の友人たちと、八ヶ岳連峰にて。学業と創作の合間に登山も始めた。この時は吹雪で二日間ビバークしたり、ザイルで繋がった仲間が滑落しかけたりと、命がけの経験をした(本人:左端)。

理論物理から実験生物の道へ

大学院への進学を諦め、研究室の先生の紹介で森永乳業に就職しました。学生時代は関心をもつことのなかった生物学に、ここで出会うことになります。当時の多くの企業がそうであったように、森永乳業はそれまでの乳製品の製造から、バイオ・医療分野に事業を拡大しようとしており、ちょうど入社してすぐに、バイオ部門が新設されました。そこになぜか、理論物理出身の私が配属されることになったのです。もちろん生物系の実験手法は全く知りませんでしたし、指導できる人も社内にいませんでした。そこで東京大学の吉倉廣先生のもとに培養細胞のシャーレを持って行き、「細胞が増えないようなのですが」と相談したところ、「顕微鏡の焦点が合っていないだけだよ。そんなことも知らないの」と呆れられる有様でしたね。シャーレの底を見ていたのです。それでも、自治医科大学の高久史磨先生や三浦恭定先生など、協力してくれる人を見つけ、助言をもらいながら、がんの化学療法の副作用を抑える成分を探す研究を始めました。

この時、研究のおもしろさを生まれて初めて知りました。自分で実験をデザインして仮説を検証し、次のステップに進む。それまでやってきた理論物理は座学が主でしたから、実験とはこんなに楽しいのかと目が覚める思いでしたね。毎日、深夜1時にタクシーで会社から帰る生活が全く苦にならないほど。労働組合からはいつも文句を言われていました。世界でまだ誰も知らないことを明らかにしようとしているのだという昂揚感もあったのでしょう。

研究は楽しかったのですが、企業では仕事が軌道に乗ると、製品開発に重点がかかるものです。研究の成果をいくつかの論文として発表したところで、私に部下がつくことになりました。そんななかで、だいぶ迷いはしましたが、会社を辞める決心をしたのです。人を指導して製品開発をするより、自分で力いっぱい基礎研究がしたい。その一心で、京大の結核胸部疾患研究所の市川康夫教授の元へ、無給の研究生として飛び込みました。29歳の秋のことでした。

クリックして拡大する

森永乳業の中央研究所の窓から。就職して5年は研究に明け暮れる生活だった。

クリックして拡大する

新婚時代に鎌倉で。歌人として家族として、喧嘩を含めて私たちほどよく話した夫婦はいないだろう。

迷ったらおもしろい道へ

1歳と3歳の子を抱えたまま無給の身になるなんて、無責任だと言われても仕方がありませんね。ある研究所から給料を得ながら研究ができるオファーもいただいたのですが、当時は市川先生のもとで研究がしたいという理想がありました。先生とは会社員の頃から実験の相談に乗ってもらっていた仲で、先生の研究はもちろんのこと、名誉や権力に囚われることなく、純粋に科学に打ち込める人柄に惚れ込んだのです。いくつか選択肢がある時は、自分が最もおもしろいと思う道を正直に選ぶことです。この選択が、私の人生を大きく変えたことは間違いありません。

市川先生は病理学者で、白血病を専門としていました。白血病は、血球細胞ががん化した病態ですが、先生は、骨髄性白血病細胞を正常な細胞に分化させられるということを、実験で初めて明らかにし、それを治療につなげる「分化誘導療法」を研究していました。

先生が私に示した研究テーマは、治療にも創薬にも直接関係のない意外なものでした。市川先生の樹立した骨髄性白血病細胞(M1細胞)を正常細胞に分化させると、マクロファージか好中球好中球免疫細胞の一種で、マクロファージと同じく体内に侵入した異物を捉える役割をもつ。細菌や真菌の感染防御に中心的な役割を果たす。になります。マクロファージは、体の中を動き回って異物を捉える役割(貪食能)をもつ細胞です。白血病細胞は動かないのですが、これをマクロファージに分化させると、細胞が動き出すことに先生は興味をもっていました。そこで、細胞がどうやって運動能や貪食能を得るのかを解明してくれと言われたのです。「ただし私は生化学も細胞生物学の知識もないから、自分でうまくやってくれ」とも。

細胞の運動に必要なのは、アクチンという繊維状のタンパク質です。アクチンは骨格として細胞を支えており、アクチンとそのパートナータンパク質のミオシンが相互作用することで細胞が動くことは知られていましたから、文献を調べ、四苦八苦しながら白血病細胞からアクチンを精製しました。しかし細胞が動き始める前と後で、アクチンの総量には違いがみられないのです。アクチンは単量体が重合して細長い繊維状の形になります。実は、細胞が分化する前は、細胞内にばらばらの単量体として多く存在していたアクチンが、分化後は重合して繊維状になったものが多くなることで、細胞が運動能力を獲得するのだとわかりました。タンパク質という小さな分子が、細胞の性質を決定づけるということを初めて実感しましたね。ちなみに、筋肉以外の細胞からアクチンを精製した例は、私の研究が日本で最初なのですよ。全く知識のないところから始めた苦労はありましたが、誰もが手探りだった分子生物学の初期に研究を始められたことは、本当に幸運だったと思います。

学位論文の主査にあたってくれたのは、京大理学部の岡田節人先生でした。学位の審査会では、生化学などの知識を問う口頭試問があったのですが、全く生化学など勉強していませんから、もうボロボロでした。そこで岡田先生が助け舟を出してくれたことを覚えています。おかげで無事に学位を取得できましたから、今、岡田節人先生が初代館長を務められたJT生命誌研究館の3代目の館長を務めていることに不思議な縁を感じます。

クリックして拡大する

市川康夫教授。科学だけでなく、文学や映画にも詳しく、指導教員である以上に、何でも話せる友のような関係でもあった。先生と話すのが楽しく、よく夜遅くまで話し込んだのは貴重な思い出だ。

Hsp47の発見

学位を取ってすぐ、アメリカの国立衛生研究所のKenneth Yamada(ケネス・ヤマダ)から留学の誘いを受けました。Kenとは面識がなく、私の研究を知って興味をもってくれたようです。実はアメリカに渡った時、彼の発見した「フィブロネクチン」が何かも知らない状態でした。フィブロネクチンは細胞と細胞の間を埋めるタンパク質の一つですが、細胞に作用して外の情報を伝える機能をもっていると考えられていました。その時、Kenのラボでは全員で、細胞側の受け手となる受容体タンパク質を突き止めようとしていました。これは後に「インテグリン」というタンパク質として発見されるのですが、私は人と同じことをやって競争になるのは避けたかったので、文献を一週間読み漁り、フィブロネクチンと同じく細胞の間隙を埋めるタンパク質である、「コラーゲン」の受容体を探すとKenに宣言し、Kenのオーケーをもらいました。

コラーゲンに結合する性質をもった、分子量47KDaのタンパク質を無事に発見。細胞の表面にないため、残念ながら受容体ではなかったのですが、がんの抑制に関わるタンパク質かもしれないとわかって色めき立ちました。ウイルス感染によって細胞をがん化させてみると、このタンパク質の生産量が下がるのです。次に、対照(コントロール)実験として、温度感受性変異株温度感受性変異株特定の温度条件下でのみ表現型が現れ、他の温度条件下では野生株と同じ表現型を示す突然変異株。致死的な突然変異を解析するのによく用いられる。のウイルスを使ってがん化させてみます。これは温度を高くするとがん化能を失う変異株ですが、ウイルスをかけて温度を高くしてみると、このタンパク質の生産量は上がるという結果を得ました。しめしめというところだったのですが、もう一つのコントロール実験のつもりで、ウイルスを感染させずに正常細胞の温度だけを上げてみると、同じタンパク質が大量につくられてしまったのです。仮説が完全に破綻です。今なら何ということもないのですが、当時は、何が起こっているのかわからず、4ヶ月ほど頭を抱えました。

結局、そのころ発見され始めていた「熱ショックタンパク質(HSP)」だとわかり、Hsp47と名づけました。細胞を高温にすると大量につくられるタンパク質です。ちょうど新しいHSP が次々に見つかるという世界的なブームが始まり、Kenにはもう一年いて研究しないかと誘われ、私もそうしたいと思って市川先生に手紙を書きました。ところがやってきた返事には「ブルータス、お前もか」とだけ。もしアメリカに居続けるならば、もう京都に帰ってこられると思うなよ、という意味だったでしょうか。仕方なく日本に戻り、運良く市川先生の後任の教授になることができました。

クリックして拡大する

Kenneth Yamada夫妻(中央)と。彼のラボで発見したHsp47 が研究の転機となった(本人:左端)。

クリックして拡大する

家族でグランドキャニオンにて。

クリックして拡大する

市川先生と、熱ショックタンパク質研究の先駆者である矢原一郎さん(右端)と。留学前から矢原先生と親交があったことで、Hsp47が熱ショックタンパク質である可能性に気づくことができた。

熱ショックタンパク質からシャペロンへ

熱ショックタンパク質はその由来からも、細胞を熱から守る役割をもつのだろうと考えられましたが、この時は具体的なメカニズムがわかりませんでした。しかし当時、科研費のがん特別研究の代表をしておられたがん研究所の菅野晴夫先生が興味を持ってくださり、がんの温熱療法という分野で一つの研究班を立ち上げ、その代表になれということになりました。40歳になったばかりでしたが、「がん特」の研究班の代表になったのはいい経験でした。がん細胞に熱ショックタンパク質をつくらせないようにすることで、がんの温熱療法の効果を高めようという研究班でしたが、このなかでケルセチンなどの低分子化合物が、熱ショックタンパク質合成を抑える発見などもしました。

世界中で研究が進むにつれ、熱ショックタンパク質は高温だけではなく、化学物質や虚血虚血血液が組織に行き渡らず細胞が酸素不足に陥ることなど、さまざまなストレスに対してつくられることがわかってきました。私の研究室でも、医学部と理学部の両方から大学院生が来ていたことで、臨床現場で出てくる問題のいくつかにHSPが関わっていることがわかりました。脳の虚血に反応して、HSPがつくられることを発見したのも彼らのおかげです。ストレスを受けた際に細胞で共通して起こるのは、タンパク質の変性です。熱ショックタンパク質は、平時からタンパク質の変性を防ぐ役割があることがわかってきました。

遺伝子から翻訳されたアミノ酸の連なり(ポリペプチド)は、正しい構造を持ったタンパク質になって初めて、細胞の内外で機能を発揮します。かつては、ポリペプチドは化学的にもっとも安定な立体構造を自然にとるものと考えられてきました。しかしタンパク質の種類はヒトだけでも数万種。さまざまな形があり、細胞内で他の分子が密集しているような状態では、単独で正しい順で折りたたみをするのは至難の技であることがわかってきました。

熱ショックタンパク質は、平時から細胞に一定量存在しており、この複雑なタンパク質の折りたたみを助ける分子だったのです。翻訳されたばかりのポリペプチドに結合して折りたたみを促進するHsp40とHsp70などが代表です。今では熱ショックタンパク質は、介添役という意味の「分子シャペロン」とも呼ばれ、さまざまのタンパク質の折り畳みを助けています。ストレスを受けて合成量が増えるのは、変性したタンパク質の補修にたくさん必要とされるためだったのです。

実は、私が見つけたHsp47は少し特殊なシャペロンで、各種のコラーゲンに特化した分子シャペロンであることがわかりました。多くのシャペロンが無差別にタンパク質の折りたたみを介添えする中で、Hsp47はコラーゲンに特異性を持っていることから、世界的にはなかなか分子シャペロンとして認めてもらえなかったのですが、ノックアウト実験などから、私たちは世界で初めて「基質特異的分子シャペロン」という概念を提出することになりました。コラーゲンは人体で最も多量に存在するタンパク質です。Hsp47の研究から、コラーゲンの形成不全が肺線維症や肝硬変などの各種線維化疾患に関わることがわかり、治療に応用できる知見が出てきています。

Hsp47は自身のライフワークとしてこれからも研究を続けるつもりですが、一方で、Hsp47の機能を追うだけでは長く研究を続けることは出来なかったでしょう。熱ショックタンパク質が分子シャペロンという概念をもたらし、タンパク質合成の場で何が起こっているのかに興味が広がっていきました。世界的にも分子シャペロンの研究が大きく発展する、そのさなかに研究を続けられたのは幸運なことであり、その中でいくつかの研究グループや領域の創設に関わることができました。

クリックして拡大する

帰国して京大の教授になったころ。まだ大きかった当時のピペットを片手に生化学実験。

Hsp47 の分子模型。70歳の誕生日のお祝いに、研究室のメンバーがつくってくれた。

クリックして拡大する

詩人の谷川俊太郎氏(中央)と歌人の岡井隆氏(右)とのシンポジウム。500人ほどが集まる中、詩と短歌について語り合った。

合成から分解までの「タンパク質の一生」

小胞体は細胞の中で最もメジャーなタンパク質製造工場で、全タンパク質の3割がつくられます。小胞体ではタンパク質の折りたたみが行われるのですが、中にはうまく折りたたみができていないタンパク質があり、それらは小胞体の外には出てこないで分解されてしまうということが発表されました。小胞体の中は、さまざまな折りたたみの段階にあるタンパク質が押し合いへし合いしているのです。その中でどうやって正しい折りたたみを行い、そうでないものを分解するのか。つまり小胞体の中では、何らかの形で「不良品」のタンパク質を選別するしくみ「品質管理」が行われているというのです。私たちは、「不良品」となるタンパク質の行方に注目しました。

ある新しいタンパク質の発見が、研究を大きく前進させました。小胞体の中で、折りたたみに失敗したタンパク質だけに結合するタンパク質を見つけたのです。EDEMと名付けられたそのタンパク質は、折りたたみができなかったポリペプチド上の糖鎖を認識することで、分解すべきタンパクを分解経路へ回します。

小胞体のタンパク質は、ジスルフィド結合(SS結合)を作るとともに、糖鎖が付加され、糖鎖を認識するカルネキシンというシャペロンによって折り畳みが進行します。折りたたみが終わったタンパク質は小胞体からゴルジへ運ばれ、細胞の外に分泌されたり、膜タンパク質として機能したりします。

一方で、うまく折りたたみができなかったタンパク質を分解経路へ回す経路を、ERAD(ER-associated degradation:小胞体関連分解)と呼びます。EDEMはこれに関わるタンパク質であり、EDEM1、2、3という3種類が存在します。EDEMは糖鎖の最後についているグルコースが削られた状態や、マンノースが一つ削られた状態を認識して、きちんと構造をつくってないものを分解経路へ回していくのです(図)。

助手の細川暢子さんが第一報を報告したあと、修士1年生の小田裕香子さんがこの研究を『Science』に発表しました。修士1年生の研究がいきなり『Science』に載るなんて、ラボにとっては大事件ですよ。これが他のメンバーにとてもいい影響を与えました。修士1年生の研究がそのレベルならば、自分の仕事も世界に通用するはずだという意識が共有され、ラボ全体のレベルが上がったのです。小胞体の中で行われている品質管理というしくみの一連の流れが浮かび上がってきました。

次の大きなブレークスルーは、EDEMに結合するタンパク質として、ERdj5というこれまた新しいタンパク質を発見したことです。これも修士の院生の潮田亮君が見つけたものですが、ERdj5は小胞体のなかで初めて見つかった還元酵素になります。EDEMから折りたたみに失敗したタンパク質を受け取り、ジスルフィド結合を還元して、一本のポリペプチドに戻し、別のシャペロンBiPと協働しながら、分解すべきタンパク質を小胞体の出口であるディスロコンというチャネルまで運びます。こうして小胞体の外へ運び出された分解基質は、ユビキチン・プロテアソームから成る分解系によって分解されるというわけです。この仕事も『Science』に載りました。私たちの研究室では、ERADに関わる必須の因子を2つ見つけたことになり、この分解系の理解にそれなりに大きな貢献をしたと思っています。

タンパク質をどう正しく作るかには多くの人が注目するでしょうが、私たちは分解される「不良品」のほうに目をつけたことが、ユニークな研究につながりました。分解という分野では、オートファジーを見つけた大隅良典さんや、プロテアソームを発見した田中啓二さんなど日本の研究者が多く活躍しています。実際に、タンパク質の分解は細胞にとって極めて重要なのです。活発な細胞では、1秒の間に数万個のタンパク質がつくられますが、それらの中で平均して3割は正しい構造をもたない不良品のタンパク質です。これらのタンパク質を分解せず放っておくと、凝集体となって細胞を傷害し、細胞は死に至ります。つまり細胞は常に、タンパク質の合成と分解のバランスを取り続けなくてはならない。私たちは「タンパク質の恒常性」を意味する「プロテオスタシス」という言葉でこの状態を理解しようとしています。近年、恒常性の破れが、アルツハイマーなどさまざまな疾患の原因であることも見えてきました。

クリックして拡大する

ポルトガルのトマールで、ウルリッヒ・ハートル(左から2番目)とリック・モリモト(右端)と。最も古い海外の友人で、40年来の付き合いになる(本人:右から2番目)。

恒常性という生命の謎

2010年に京都大学の定年の直前に、京都産業大学に学部長として招かれ、数年後に設立された「タンパク質動態研究所」の初代所長として研究を続けました。コラーゲンの折りたたみに必要なHsp47から始まった研究は、小胞体で作られるタンパク質の品質管理機構という、より普遍的な問題の解明に進み、京産大に移ってからは、さらに大きな観点から、小胞体における恒常性の維持という視点で研究を進めてきました。

小胞体では、合成・分解から成るタンパク質の恒常性、酸化・還元から成るレドックスの恒常性、そしてカルシウムイオンの組み入れと排出から成るカルシウム恒常性、この3つの恒常性が大事だと考えています。この3つの恒常性の制御に、私たちの見つけたERdj5がキープレーヤーとしてはたらいていることがわかってきました。

ERdj5がタンパク質の品質管理を介して、タンパク質恒常性に関与していることは先に述べましたが、ERdj5はまた、細胞内のカルシウムイオンを調整する役割ももっており、カルシウムを小胞体の外に出すチャネルと、カルシウムを小胞体の中に取り込むポンプの2つの分子を、酸化-還元反応によって制御していることを明らかにしました。カルシウムチャネルとカルシウムポンプがERdj5によって還元されることにより、カルシウムイオンが小胞体に取り込まれ、逆にERdj5が働かないとカルシウムイオンが放出される、それによってカルシウムの恒常性が維持されます。そのバランスは、個体の寿命にまで関わっていることも明らかになりました。

3つの恒常性のうち、いちばんむずかしいのがレドックスの恒常性でしょう。小胞体は、細胞のなかでもっとも酸化的なオルガネラ(細胞小器官)です。このなかでERdj5のような還元酵素が働くためには、還元のための電子が必要ですが、この電子がどのようにして小胞体の外から運ばれるのかは細胞生物学の大きな謎の一つで、誰もが知りたいと思っていました。私たちは、ERdj5に電子を供給するメカニズムを探る過程で、より一般的に小胞体へ電子を供給する機構の一つを明らかにすることができました。

タンパク質が折りたたまれて構造を作る時、ジスルフィド結合を形成して構造を安定化しますが、これは酸化反応であり、電子が放出されます。この電子は酸素と結びついて毒性の高い過酸化酸素を作ることが知られていました。ERdj5はこの時の電子を横から奪って、自身の還元反応に利用していることがわかりました。これは同時に、小胞体のなかで毒性のある過酸化水素を減らすことにもなり、細胞にとってはいいことです。新生ポリペプチド自身が電子を放出し、それが小胞体内の還元反応に利用されている、すなわち小胞体の還元力は新生ポリペプチドが供給していたという発見は、私たち自身にとっても大きな驚きでした。

タンパク質の合成が毎秒、物凄い速さで進む中、これらのさまざまな反応が均衡を保てないと、細胞の一つさえ存在することができません。恒常性の維持は細胞生物学に残された未解決問題であり、タンパク質研究からそこに切り込んでいきたいと考えています。

クリックして拡大する

タンパク質動態研究所の所長時代、夏に京都の延暦寺会館で行った国際会議。タンパク質の翻訳から分解までの過程に携わる、世界中の研究者が集まった。

アメリカのタンパク質協会が主宰する「ハンス・ノイラート賞」の表彰楯。タンパク質研究で優れた業績を挙げた研究者に贈られる賞で、日本人としては初めての受賞者となった。

科学のおもしろさに触れて

タンパク質という分子が、私たち人間が工場で行うような「品質管理」のしくみを支えています。細胞一つでどうやってこれほどのものをつくりあげたのか、人間の知恵を凌ぐかと思われる巧妙さをこのしくみは備えています。一方で、一定の「不良品」タンパク質を生み出し続ける点は、進化の中で変わることはなかったようです。驚くほど洗練されている一方で、不完全で非効率な一面をもちあわせた、細胞というシステム全体にどんな意味があるのか、もしくは意味さえない、ただの成り行きなのかはわかりません。タンパク質研究の、興味の尽きないところでもあります。

2020年にJT生命誌研究館の館長に就任しました。同時期より、AMED(日本医療研究開発機構)の「プロテオスタシス」領域の研究統括を務めています。若い研究者と話す機会を得られるのは嬉しい限りです。私自身、科学と文学の両方の世界を経験し、いまも二刀流を続けていますが、片方の世界だけでは出会うことのなかった友人が沢山できたことが、一番の幸せですね。科学は一つ何かがわかると、もっと沢山のわからないことが湧き上がってくる世界です。この果てしなさが人を惹きつけるのであり、私が研究から決して離れることができない理由かもしれません。科学に関心のない人にこそ、そのおもしろさに触れてほしいですね。そして、科学のコンサートホールであるこの館を、多くの人に知ってもらいたいと思いますし、できればここで、自分なりの問いを発掘して帰っていただきたいですね。

クリックして拡大する
クリックして拡大する

「七人の侍」と呼ばれる研究者仲間との集合写真と寄せ書き。オートファジーの大隈良典さんや、プロテアソームの田中啓二さん、吉田賢右さんなど、「タンパク質の一生」に関連した研究を続ける仲間だ。大人になってから、どんなことでも話せる友人を得られたことは本当に嬉しい。前列左より藤木幸夫さん、吉田賢右さん、三原勝義さん、後列左より、伊藤維昭さん、大隅良典さん、田中啓二さん、そして本人。

クリックして拡大する

JT生命誌研究館で行ったシンポジウムの風景。山中伸弥さんや山極壽一さん、写真家の今森光彦さんや小説家の小川洋子さんなど、さまざまな分野の方との語り合いを続けている。

クリックして拡大する

研究者と歌人、どちらの分野でも手を抜かずに仕事をしてきた。その人生を見ていてくれたのが妻・河野裕子であり、彼女に出会ったことが私の人生の全てだったのかもしれない。