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TALK

物語りを生きる民話と生命誌

小野和子みやぎ民話の会顧問
中村桂子JT生命誌研究館館長

 

1.民話は時間をかけてかたちをなす

中村

東北の方々にとって東日本大震災は終わってはいませんね。これは終わるものではなく、これからを考える原点になるものだろうと思っています。

小野

私どもは、宮城県を中心に山の村や海辺の町を訪ね歩いてたくさんの方々に民話を聞かせて頂く採訪という活動を続けておりますが、この頃は、自分も民話を語りたいという新しく語り手になることを目指す方が増えています。そういう方に、長い時間をかけて伝承された古老の語りを直接聞いて頂きたいと思って「みやぎ民話の学校」という数年に一度三日間の集いの場を開いています。2011年は8月にも開校を予定しておりましたところ、3月に震災が起きました。その年は、偶然ですが沿岸部にお住まいの伝承の語り手の方々に来て頂くようお願いしておりましたの。

中村

最も、被害を受けた所ですね。

小野

みなさん、家を流されたり、ご家族を亡くされたりしておられましたので、その直後に民話の学校へ来て頂くには躊躇いがありましたが、逆に語り手のみなさんから、こういう言葉を頂きました。「形ある物はみんな流されたけど、気がついたら胸に民話があった。これを命綱にしてこれからを生きていきたい」という言葉です。たいへん心揺さぶられました。それは、形のないもの、胸に溜めていた言葉の生命力を表している気がしたものですから、その方々にお越し願って、被災の中心地だった南三陸町で奇跡的に残ったホテルをお借りして、「あの日」を語って頂くべく学校を開きました。来てくださった6人の語り手の方それぞれが過酷なあの日を語られたのですが、それがまるで民話のような色彩を帯びていたことに驚きました。(註1)

中村

民話はその時々の生活を語ったものなのではないでしょうか。

小野

はい。生活から生まれた生命力を持っているんですね。

中村

小野さんが集められた、地域のお年寄りが語る物語を読ませて頂くと、民話をできあがったものとして受け止めてしまいますが、民話が生まれてくる時を考えなければいけないわけですね。それは生活の中での体験や思いとして語られ、それが物語として受け継がれて来たわけですね。

小野

そうだと思います。

中村

すると、あの震災を体験した今は、まさに民話が生まれる時ですね。

小野

今は民話の芽のような時期と感じます。それをどのように育て、語り継ぐべき言葉にしていくか、大きな課題です。

中村

情報化社会の現代では、テレビやインターネットなどを通じて、どこにいても知ることができると思いがちです。でも、その場にいた方の言葉での語りが残らないと一番大切なことが伝わりませんね。

小野

私もそう思います。

中村

今、ここに生まれてくる民話を語り継いで、百年も二百年も先の未来につないでいくことが、本当の生きていく知恵になるのではないでしょうか。

小野

きっと、一つひとつの民話に生まれた時があり、長い歳月をかけて少しずつかたちが決まって、皆さんに受け止められる普遍的な物語になるまでに多くの時間を費したように、震災から生まれた民話がかたちをなすにも時間が必要です。その時間を民話に寄り添って見守る人間がいないと、伝えたい本質が散らばってしまうのではないかと思います。時間が必要ということで言えば、私は民話を聞きに行った時、必ず戦争の話も聞くようにしてまいりました。

中村

戦争体験も今の日本で伝えるべき大切なことですね。

小野

どなたも、はじめは口が重くて途切れ途切れに言葉を漏らされていました。過酷な体験を、生のかたちで出す他ありません。けれども時間が経ち、最近はなんだか物語の色彩を帯びて語られてくるという局面に出会うんですの。やっぱり戦後70年経つ時間の中で、あの体験が一つの物語に結実していくんだなあと思いましてね。震災の経験も、こんなに怖いことがあったという事実を並べただけでは、次の世代にうまく伝わっていかないだろうと思います。

中村

時間をかけて物語になることに意味があるのですね。

小野

ええ。その意味で民話は絵空事ではありません。事実に根を置きながら、人の胸に届くべき物語を象っていく。それには時間と、それを見守る人間の存在が不可欠だと思います。

中村

そこが大事です。これまでは、村や町の暮らしの中に人々が集う場があり、いろいろ語り合えたのでそれが子孫に伝わりました。今は、例えば、電車に乗り合わせた人を見ても、それぞれが携帯端末で遠くとつながっています。情報社会というけれどすぐ側にいる人とのつながりは希薄になっています。そういう中で、これまでの民話や戦争の体験と同じように震災を伝えられるのか。

小野

どんなふうに伝え得るか非常に難しい問題です。急がなくては何かを残せないという追い立てられる気持ちと、急いではならないという気持ち、いつも両方にゆらいでいますね。

中村

よくわかります。急いでは本質が外れますし、急がなくては残せない。

 

(註1) 第七回みやぎ民話の学校

2011年8月21日、22日に南三陸町で開催された。第七回みやぎ民話の学校の記録は、みやぎ民話の会叢書第十三集『2011.3.11 大地震 大津波を語り継ぐために ―声なきものの声を聴き 形なきものの形を刻む―』(2012)として発刊された。



2.民話は生活そのもの

中村

震災を語る言葉をまとめるお仕事は、今、小野さんたちがなさらなければ残らないかもしれないので、民話の採訪と同じように取り組んでおられる意味はよくわかりました。

小野

実は宮城県のあちこちに、福島県の双葉町から避難してこられた方たちがおられて、その集まりがあります。中に私ども「みやぎ民話の会」を頼ってこられた方、目黒とみ子さんという方がおられまして、そのご縁で聞き書きをさせて頂いて、避難の体験をまとめました。昨日刷り上がったばかりです。現時点で記録できることがあれば一つでも書き留めておきたいという気持ちで、語り手お一人お一人の言葉を一字一句、文字に置き換えていったものなのです。

中村

震災に遭われた皆さんが、残したいと思われる体験が、語りの基本なのではないでしょうか。ご自分の体験や、その時に思ったこと、そして、失ったものを語られる。そのお話を、東北で民話を集めてこられた小野さんに伝えたい気持ちよくわかります。

小野

これは、目黒とみ子さんという方に出会わなければ、かたちに残せませんでした。双葉町に住んでおられた目黒さんは、3月12日の原子力発電所の事故直後に、川俣小学校という所へ皆で避難されたそうです。そこは事故現場から3キロ地点でしたので、すぐに「10キロ離れなさい」と、10キロ行ったら今度は「30キロ離れなさい」と言われ、とうとう県外まで行かれて、福井県の永平寺に2週間ほど身を寄せておられたそうです。そこで永平寺の方にとてもよくして頂いたので、お別れの時、彼女は「小太郎狐」と「嫁と姑」という民話を語ってお礼に代えたそうです。民話が持っているそれとない力を深いところでご存知だったのですね。そうしてあちこち8回の転居をし、今は、宮城県の仙台から少し離れた大河原という所に住んで、双葉町の皆さんで集まりを作られました。双葉町の「双」の字と宮城県の花「萩」の字を取って「双萩会」といいます。月に一度集まって、困っていることや故郷を偲ぶ気持ちを皆で話すそうです。その目黒さんが、「宮城に落ち着いたらみやぎ民話の会へ入ろうと思っていた」と、私どもを訪ねてくださったのです。まず彼女のお話を聞かせて頂き、そして目黒さんに、双萩会の集まりで皆さんが話されることを聞いてくださいとお願いしました。それから1年ほど経って、31人分の聞き書きを私の所に送ってくださいましたの。仲間の前にテープレコーダーなんか出すと皆が怖じ気づくと思って、ただ顔を見ながら、肩に手を置きながら聞いて、一生懸命覚えてメモして、それから家へ帰って書いたものだと後で聞きました。

中村

素晴らしい。見事ですね。

小野

偉いでしょう。

中村

私たちはそれができないから、今もここに機械を置いてある(笑)。申し訳ありません。

小野

いえ、私もそうですよ(笑)。ですから、目黒さんにそう言われた時、これは疎かにできないと思いました。書き留めたものはメモに近いかたちでしたので、改めてもう少し語った人の人格を言葉に映し出せるようにと、何度も書き直しをされました。ある程度かたちができたところで、語ってくださった方たちに読んでもらって、これを残してもよいかを確認させてもらいました。中には身籠っていた子を止む無く葬らなくてはならなかったというような事情を背負った方もあるわけです。それらをも含めて了解を得て、残したものがこの本です。(註2)

中村

とても貴重な記録ですね。

小野

これはエッセンスです。けれども今聞いておかないと残りませんから。

中村

東北で起きた震災は、とくに原発の事故がありましたから本当に不幸なことです。私は、同じ科学の中にいる人間として、あの出来事には立ち直れない程の衝撃を受けました。私は東京にいましたのでメディアを介した情報しか届きません。テレビに政治家、科学者、経営者、評論家などが登場して口にする言葉に納得できるものは一つもなく、ますます落ち込みました。その中で、現地の漁民や農民の語る言葉が伝えられます。例えば、海辺にいらした漁師の方は、津波で家も船も流されてしまったけれど、海を憎まず、むしろまた海へ漁に出たいと仰る。農家の方が語った今も忘れられない言葉があります。原発事故は、3月に起きたので、福島では放射能が落ちた田んぼでは、もうその年のお米を作れないことはご存知なのに、やっぱり田んぼに水を張ったと。今年もツバメが来るだろう、巣作りの土が要るだろうと仰ったのです。ご自分が大変厳しい状況にある時にツバメのことを思う。あの時、東北の自然の中で暮らす方々の言葉を聞けなかったら、私は、あのまま人間不信に陥っていただろうと思います。

小野

ああ、そうでしたか。

中村

私も人間を信じて、生きものを信じて、もう一回、生命誌という仕事をしていいんだと思わせてくれたのは、そういう方々の言葉でした。東北という土地には、小野さんが集めていらした民話が今も生きてある。民話があるとは、その土地に根づいた生活があるということですね。

小野

民話は、生活そのものといってもよいと思います。

中村

自分の体の中から出てきた物語ですね。そういう場所に暮らす人こそが本当に「生きている」のだとつくづく教えられました。

(註2) 『双葉町を襲った 放射能からのがれて』

双萩会の方々が語った体験は、『わたしたちの証言集 双葉町を襲った 放射能からのがれて』(2016)として発刊された。



3.科学は日常生活が苦手

中村

私は、東北の方の言葉に励まされた後、宮沢賢治が読みたくなり全集を読み直しました。賢治の作品は、民話の世界とは少し違いますが、東北の自然の中での暮らしに原点があるという点では同じですね。

小野

宮沢賢治の作品については、東北だからこそ生まれたんだと思うことがありますね。私も、震災の後に、『グスコーブドリの伝記』を読みなおしました。

中村

まさに今が書かれているようですものね。

小野

ブドリとネリは飢饉の年に両親に置き去りにされました。私どもが民話を訪ねる東北の村々でも、やはり食べるものがなくて困ったとか、身売りされたなどという背景で聞かせて頂くこともあります。あの物語の中でブドリは、人工の雨を降らせ、化学肥料を撒いて痩せた土地を肥やし、ぬかるむ田を改良しますが、今では、そのほとんどが科学の力で、ある程度実現されました。けれども、火山活動のコントロールは人知を超えるものとしてとらえています。それは今もできませんね。賢治はどこまで見通していたのでしょうか。

中村

当時は、これから伸びようとする科学を取り入れた時代で、賢治は科学が大好きでした。子どもの頃から石を拾ってはその組成や成り立ちを一生懸命調べるなど、科学の眼で自然を見ることを楽しんでいました。彼の作品から伺えます。でも彼は、科学で何でもできるわけではないことも知っていた。

今の科学は、他を見ず、科学にできる所だけをどんどん進めますでしょ。そこに大きな問題があります。科学は、素粒子やDNAなどの小さな世界を扱うことは得意だし、アインシュタインの式で語れる宇宙のような大きな世界も得意です。けれども、その真ん中にある人間の大きさの出来事、私たちにとって一番大切な日常生活を扱うことが最も苦手なのです。地震や津波も含めて私たちの日常で起こる現象について科学が弱いことは、賢治も言っていますし、それは今も同じです。民話や神話は、わからないところも含めて全体を見渡すことが得意ですね。

小野

なるほどそうかもしれない。でも賢治は死の前年昭和7年に、この作品の中で科学的な農作業の方法などを夢物語のように展開して見せてくれました。それは東北の貧しい暮らしの中で必要とされた夢だったと思います。その夢をかたちにする時、彼が科学と結びつけて考えていったことは大事ですね。

中村

仰る通りです。そのうえで、今や日常に結びつけた知を創らなければなりません。生命誌はそれを求めているのですが、なかなかよい答えが見つからず考えています。

小野

私たちの生活から離れた所で、細やかに、そして大きく展開する科学の世界というものがあるというお話を伺って、やはり賢治の作品を思い返すに、ブドリは最後に自分の命を捧げますね。どんなに科学が発展しても、そこには身を挺する「人間」の存在が必要だということを象徴的に描いていますね。

中村

そうですね。東日本大震災を予言していたかのような物語ですね。私たちは今、日常と科学がいびつな関係にあるという事実をとことん思い知らされました。あの時、皆そこに気づいたはずなのに、社会は変わっていません。

小野

科学者の方が、中村先生のような目線で生活を見てくだされば、民話が、それを語る土着の者たちの暮らしという、一見、科学とはとても距離があるように思えていたことが、まったく違う光り方を見せてくれるかも知れませんね。

中村

一方、科学者は、小野さんが拾い上げてくださった民話に込められたものを学び、そこから全体を考え直さなければなりません。小野さんたちは、その基盤作りをしてくださっているのだと思っています。

小野

そのように考えて頂いて、ありがとうございます。

中村

ただ私は、科学の中ではむしろ変わり者で、すべての科学者がそう思っているわけではありません。ですから生命誌研究館で、日常と科学が重なる知恵を考え、一般の方々に、そして科学の中にいる人達に向けて発信を続けています。とは言え小さな力ですからなかなか…。

小野

すごいですね。一番基本といいますか、出発点。

中村

時々、どうして皆こんな当たり前のことがわからないんだろうって腹が立つこともあります。でも、言い続けるほかありません。科学と日常のつながりを感じ、考えて頂くには、やはり「語ること」が大事で、民話に学びたいと思うのです。

小野

ふつう民話というものは、科学とは縁遠いものとして扱われますし、実際、科学とは相容れない側面も持っています。

中村

もちろん科学と民話は違うものです。しかし、科学も民話も、私たちの生活という共通基盤の上に立っているのだと考えることは大事でしょう。

小野

それは素晴らしい言葉だと思います。今、初めてお聞きして、なるほどそうかと納得します。確かに、科学と民話は同じ基盤に立っていますね。

中村

人間が懸命に生きようとするという思いから生まれているところは共通でしょ。その意味ではあらゆる文化がこの共通基盤に立っていて、外側から見ると科学と民話はその中で一番離れたところにあるのかもしれません。でも民話も科学も、登場するのは、自然や、生きものや、人間と共通するわけです。ですからお互いその基盤を大事にしていけば大きな世界を持てますね。私は小野さんのお仕事を共通の基盤で見ています。

小野

いや、吃驚するようなお言葉を頂きました。

4.原っぱも、木の洞も、鬼もない

中村

私は東京生まれですが、子どもの頃、原っぱでよく遊びました。東京にもそういう場所がたくさんありましたから。でも今は、子どもが遊ぶと言えばゲームをすることだったりしますね。子どもたちの生活から自然や生きものとの関わりが消えていることがとても気になります。民話はそこをつないでいくことができますね。

小野

ええ。小さな力ですけれども、最近はそこに気づく人たちもあり、自分は民話を聞いて育ったわけではないけれど、今、目の前にある民話を覚えて、自分なりに語りだせるかたちにして子どもたちの前に置きたいと願う、そういう小さな活動は日本中に生まれておりますの。

中村

素敵なことですね。

小野

ただ例外なく、どんなふうに語ったらよいかというところで問題にぶつかります。勢い技巧的になり、物語が持っていた大事な命が吹き飛んでしまうこともあります。

中村

ノウハウに寄りかかると本質は伝わりませんね。

小野

民話というとイメージが先行して、農村風な衣装を着たり、年寄りの調子を出そうとしたり…。

中村

なんだか目に見えるよう。

小野

でも私たちが聞く、語り手のおばあさん方は「むがす むがすなあ」なんて、むしろ訥々と語られるんです。妙に芝居がかってしまうと、まったく別ものになってしまいます。そこを少しでも、皆さんに知っていただきたいと思って、私たちは民話の学校というささやかな場を開いて、民話を語ってくださるおじいさんやおばあさんは、こんなに淡々と、心にしみるように語るんですと伝えたいわけです。

中村

お地蔵さんや狐や狸など民話の中に登場するいろいろな事柄が身の周りから消えてしまいましたから、小さなお子さんに語り聞かせる時、苦労なさいませんか。

研究館のある大阪の高槻には西国街道の町並みが残され、駅前にお地蔵さんがあり、朝、手を合わせたりお供えなさっている姿が見られます。一方、東京の自宅近くでは、生活の中にお地蔵さんがある風景は見られません。その中で物語が実感として伝わるのかしらと心配になるのですが。

小野

子どもたちを聞き手に、見たことも聞いたこともないものをぶつけていって、どこまでわかるのだろうという気持ちを抱くこともありますが、人間としての聞き手と語り手の間には、目には見えないけれども、やはり通じるものがあるはずという希望を持つわけですね。お地蔵さんも見たことがない子どもには、お地蔵さんってこういうものだよと言葉で伝えられるはずで。そこに希望を置かないと、民話を語り伝えることの意味が痩せてしまいますね。原っぱもない、木の洞もない、鬼もいない、でもやっぱりそれがあるということを言葉で伝えて、心で信じていってもらう世界ですから。

先程、今年は収穫できない田んぼでもツバメが来るために水を引いたというお話がありましたね。民話には,幸せをもたらすツバメの話があります。田に水を張ってツバメを待つその方は、きっと心の中に、いま目に見えている田んぼの他に、ご自分のツバメの物語を持っていらっしゃるんだと思うのです。ですから、ツバメの営みに思いを馳せる想像力をお持ちなのだと思います。そういうふうに心を養っていくということは、やっぱり大人の責任として私たちは果てしなく続けていかなくてはならないんだと思います。

中村

仰る通りです。言葉の力を強く信じていらっしゃいますね。

小野

そうですね、信じたい。そしてその言葉で形成される物語世界に励まされて生きてきた人たちの物語が、民話なのです。何にもない。投げて遊ぶ土塊もないような貧しさの中で、物語だけが生きていたという実感を語って頂いたりすると、そういうふうに思ってしまうんですよ。それをこそ今、自然やたくさんのものを失ってしまった都会の子どもたちの心に贈ることができないかしらと、儚くも願っています。

中村

儚くという気持ちよくわかりますが、強く信じてやって頂きたいです。人間にとって言葉はとても大事なもの、他の生きものと私たちの違いは言葉ですから。

小野

そうだと思いますね。人間はこれを命綱にしないことには。

中村

言葉は大事ですし、その力を信じたいのですけれど、本当に言葉だけで大丈夫だろうかという気持ちも、どこか心の奥底にはあるのですよ。

小野

私自身も言葉を本当に信じて生きてきたかと言えば、そんなことはなくて、懐疑的だったこともあるし、言葉に裏切られることだってあったわけです。けれども、その言葉が展開してくれた物語世界を自分のものにすることによって元気に生きてこられた語り手の方に、本当にたくさんお目にかかっています。大抵は、名もなく田を耕し、山で木を伐り、魚を捕って暮らしてきた方々ですよね。余分なことは何もご存知ないけれども、持っておられる言葉世界の豊かさに圧倒されるんですね。そうすると、もしそれをこれから生きていく未来の子どもたちに何かの種として置いていけなかったとしたら、それは私たちの怠慢かもしれないなんて、ふっと思うんですけれどもね。

私自身もそんな民話的な環境で育ったわけじゃないですから、民話を聞いて歩きながら、山奥とか、海辺とか、いろいろ歩きながら語ってくださる方から教えられたことなんです。

5.細々と積み上げて生きていく

小野

大学の民俗学などの分野では、口承文芸としての民話について調査したり分析したりする研究もおこなわれています。ですが、学問として分析された民話研究などに触れますと、上層文化との繋がりを反映するような目線での物言いが多いような気がします。先祖の時代から、生活の基盤を成す欠くべからざる土台文化だという捉えようはほとんど見られないとさえ、私は思うんですね。

話は少し飛びますが、各県が文化財を保護する活動の一つとして、県内に民話を語る人が何人くらいあって、どんな話が残っているかを調べるという調査が日本中で流行ったことがありました。私たちは1985年から三ヵ年携わりましたが、「県の調査です」と言って手形を出すと、今まで絶対出てこなかった一家の主が出てきてくださるんですよ。その前は、何のお墨付きもなしにただ聞いて歩いていたわけです。「民話を聞かせて下さい」って訪ねると、なんかわからんやつが来た、物売りかもしれないぞって相手にされないことは珍しくありません。受け入れて頂いても、「そういうのは、ばあちゃんに任せた」ってご主人はどこかへ行ってしまう。いまでも、民話なんて女子どもの寝物語さという意識が一般的にはあると思います。

中村

実感のこもったお話。民話は広く受け入れられているような気がしていましたけれど、その本質が伝わるところはまだこれからなのですね。

小野

例えば、明治43年に柳田国男(註3)は『遠野物語』を出しますが、その序文に、山姥だの河童だの訳のわからない話を大の大人が本に書いて出したら、人々は笑うだろうという意味のことを、やや自嘲気味に書いている一節があります。しかし、「斯かる話を聞き、斯かる処を見て来て後、これを人に語りたがらざる者果たしてありや。」と、強い語気で続けています。明治政府による近代化がヨーロッパ文明を手本にして日本を大きく変えた時代に、柳田国男は、『遠野物語』一冊を日本人の精神の根本に置くものとして提示したのではないかと思います。

もう一つ、昭和20年の敗戦を境に日本という国の拠り所が大きく揺らいで、アメリカ文化一色に塗られていた時、『民話』(未来社)という薄っぺらな雑誌が出ます。昭和33年のことです。創刊号では木下順二(註4)、加藤周一(註5)、石母田正(註6)といった人たちの巻頭座談会が組まれ、18号には岡本太郎(註7)の顔も見えます。自分たちの精神の根を探すよすがに民話を据えようとした。これは二年ほどで廃刊になり、参加した文化人たちはそれぞれの仕事に散っていきました。ただ、私は思うんです。明治という時代、敗戦に向き合った昭和20年から30年という時代、こうした大きな時代の変わり目に、民話に目を向けて、そこから日本文化を考え直そうとする動きがあったということ、そこに民話があったということ、それを心に留めておきたいのです。

中村

大きく時代が変わろうという明治の頃に柳田国男さん、そして敗戦後は木下順二さん等が気づかれた。東日本大震災は同じくらい大きな出来事ですね。今度は小野和子さんがなさったということ。

小野

私は微々たることしかできませんが。ただ、そのような目で震災を見ようとする方々が若い人にもたくさん生まれてきています。だから私は、子どもたちに民話を語ろうという活動をなさっているグループに呼ばれた折に、いつもそこのところを皆さんに話してくるんです。

中村

今私たちは明治の時代を歴史として見ています。敗戦も70年経ち歴史になりました。東日本大震災は今はまだ現実ですが、時間が経ち歴史として振り返る時、小野さんの民話の活動は、明治、敗戦と並ぶ位置に来るんじゃないでしょうか。

小野

そうでありたいと切望しますけれど。

中村

それには、木下順二さん、加藤周一さん、石母田正さん、岡本太郎さんのように、根っこに民話を意識しながらそれぞれ個性的なお仕事をなさるというような広がりが生まれることも大事ですね。

小野

民話世界の影響もあって、木下順二さんは『夕鶴』を書き、岡本太郎さんは、独自の芸術論に基づいた作品を生みだされたことはよく知られていますね。今も、きっと若い人たちがいろんなかたちでそれをなさっていると思います。

中村

今はマスコミの時代ですから、一つ一つの動きがなかなか見えてこないのかもしれません。70年ぐらい経って振り返った時に掘り起こされるのかもしれませんね。

小野

福島県出身の山口弥一郎さん(註8)は民俗学を柳田国男に学んだという方ですが2000年に死去されました。それまでの半世紀にわたって南三陸海岸の津波の体験を聞き書きし、調査をされた方です。この方に『津浪と村』という著書があります。明治29年の津波、そして昭和8年の津波のその後を辿って海岸の村々をあちこち歩かれて、津波を受けた村がどうなっていったかを、その村の日常の暮らしとともに記録なさった。その本が出版されたのは昭和18年、あの戦争の最中によくそんな本が出たと思います。その序文に、「手放さずに仕事を続ける」そのことにのみ希望があると記されていました。次の津波で被害が大きく出ないようにというお気持ちで仕事を貫かれた方です。

中村

明治のことが昭和になって掘り起こされたわけですね。

小野

それを読んだ時にも思いましたが、やはりこれほどのことが起こって、そのことが真っ当に伝えられていくために必要な時間というものがあるのかもしれない。だから心は焦るし、そんなに長く生きていられないかとも思いながら、それでもできることを細々と積み上げていくわけですね。

中村

一人でできることって細々と積み上げることですよね。私もそうです。本当に大事だと思うことを一つ一つ積み上げていくしかない、そう思いますね。

小野

無力感に襲われることのほうが多いですけれども、それでもやっぱり積んでいくよりしょうがないというね。

中村

それが生きているということなんだと思いますし。

 

(註3) 柳田国男【やなぎだ・くにお】[ 1875—1962 ]

兵庫県生まれ。民俗学者、官僚。国内を旅して民俗、伝承を調査し、日本の民俗学の確立に尽力した。文化勲章授章。著書に『遠野物語』『蝸牛考』『木綿以前の事』など多数。

(註4) 木下順二【きのした・じゅんじ】[ 1914—2006 ]

東京生まれ。劇作家。第二次大戦後の日本演劇を代表する作家の一人。『彦市ばなし』などの民話劇や、戯曲に『夕鶴』『子午線の祀り』などがある。


(註5) 加藤周一【かとう・しゅういち】[ 1919—2008 ]

東京生まれ。評論家、医師。文学・美術・政治など幅広い分野で評論を行う。主著に『日本文学史序説』『雑種文化』『日本文化における時間と空間』など多数。

(註6) 石母田正【いしもだ・しょう】[ 1912—1986 ]

北海道生まれ。歴史学者。唯物史観の立場から日本古代・中世史の研究を行う。主著に『中世的世界の形成』など。
 

(註7) 岡本太郎【おかもと・たろう】[ 1911—1996 ]

洋画家。前衛芸術を推進し、1970年の大阪万博で「太陽の塔」を制作。独特の芸術論でも知られる。

(註8) 山口弥一郎【やまぐち・やいちろう】[ 1902—2000 ]

福島県生まれ。地理学者、民俗学者。地理学を田中館秀三に、民俗学を柳田国男に師事し、東北地方の文化と自然、社会と環境、土地と生活を考察する研究に従事。1953年に東北地方農村生活研究所創設。主著に『津波と村』『民俗学の話—柳田民俗学をつぐもの』『日本の地誌』ほか。



6.聞くということの意味を思う

中村

小野さんのお仕事では、「聞く」ことがとても大事ですね。でも今、それが苦手な方が増えていませんか。皆が忙しく、急いでいる。若い方たちにお話をしていると、すぐに答えは何ですかと結論を求める。どうも過程を楽しむという意識が希薄になっているような気がします。

小野

学校教育などでも、積極的に発言する生徒が良しとされ、黙っているとそれだけでバッテンをもらうような評価には疑問がありますね。

中村

お話を聞きながら一人一人がじっくり考えるという場が今どんどん消えているように思います。そこにも小野さんが民話を聞く場を作っていらっしゃることの意味の一つがありますね。

小野

私どもが民話を聞きに行った時も、例えばおばあさんは、こんな話は誰も相手にしてくれなかったのに「よくぞ聞いてくれた」といって、一つ話してもらう。すると次に行った時、あの後また思い出したといって、十ぐらい話してくださる。そのように聞かれることで出てくるものがあるということは感ずるのです。子どもたちに対しても、私たちがよい聞き手であって、その子どもが胸に持っている何かを聞くことができたならば、その子の成長をよいかたちで助けることになると思います。でも、それには今の学校教育が持っている体質を変えなくてはならないと思いますね。宮城教育大学で学長をなさっておられた林竹二先生(註9)が仰っていたことですが、本来、子どもという存在は、誰かの助けなしには生きていけない、まことに頼りない存在なのだ、つまりhelplessな存在なのだということです。聞くという行為は、なにも年寄りや民話の語り手に対してだけでなくても、潜在的に何かを持っていながら言葉に出せない存在たちに近づく、手を伸ばして触ってみる、その心の音に耳を寄せてみる、それがとくに震災の後は必要だと思いますね。

中村

聞く人がいることで、何か新しいものを引き出せるのは確かですね。

小野

そうですね。長いこと聞いていながら、聞くということの意味を私もほとんど考えないで来ていましたのね。民話の際には聞くということがものすごく大事だということを、実は、二人の若い映画監督さんに教えていただきました。濱口竜介さんと酒井耕さんというお二人です。

中村

「うたうひと」(註10)という映画を拝見しました。

小野

そうですか。先程お話しした、南三陸町で開いた民話の学校の様子を映像で記録するということを、せんだいメディアテークがお二人にお願いをして、その撮影に来て下さったのです。元々お二人は民話に興味があったわけではなく、震災を、被災した方々の言葉で綴る映画を2本お作りになった。その過程で、私たちが語り手と交渉する様子を見ていて、民話というものはちょっと面白いぞとお思いになったのかもしれない。そして3本目に民話の映画を作ってくださった。その時に「自分たちはカメラを回しながら、聞くという行為によって、物語が立ち上がってくる瞬間に何度も出会った」といわれるの。ところが聞いている自分のほうは、そんなこと何にも思ってないわけですね。自分はなるべく喋らないように、なるべく相手にたくさん語って頂こうということばかり思っていましたが、その様子を客観的に見ていた監督たちは、「聞く」ということの意味を考え、追及してくださったわけです。

中村

今日のようにお話しする対話も、二人で作り上げていくものですが、民話も聞き手と語り手の相互関係でできあがってくるのですね。すると、聞き手によって物語が変わることもあるのでしょうか。そうすると、今聞く物語が、昔あった最初の物語と同じとは限らないということですね。

小野

今、仰られて、ハッとしましたが、民話は必ず聞き手に相槌を求めます。相槌として一定の言葉が用意されていて、「むかしむかしね」と語り出したら、古い相槌では「あとー、あとー」とか、「おっとー、おっとー」、それから「はーどー、はーどー」なんていうのもあって、聞き手との掛け合いが無ければ成り立たないものなんです。今は一人が大勢に向かって語るので、相槌しなくなってますが、かつては必ず相槌していた。

中村

なるほど。相槌することで一つの場ができていたわけですね。

小野

民話の世界は相槌しなければ先へ進めない。相槌を用意していたという先人の知恵は素晴らしいと思う。で、私が聞いた一番面白い相槌はね、「ああ、面白くてやめられね」っていうもので、「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがいてね」といったら、「ああ、面白くてやめられね」って返す。すると次を語るというふうにね。

中村

面白いですね。語り手と聞き手が関わり合う場があり、そこから民話がいろんな姿で現れてくるのですね。

小野

相手を悲しませたくないという配慮で言葉を少し変えたり、例えば、山姥に追いかけられてきた小僧さんを押し入れの中に隠したというような話を、子どもは山姥が追いかけてくるというととても怖がるから、押し入れを長持にして、そこへ閉じ込めてしまうことで安心感を与えて話を進めたなんておっしゃる語り手もいますから、聞き手によって話が少し変わってくるということは常にあったと思います。

中村

なるほど面白いですね。人間がそこにいなくては成り立たないということですね。

(註11) 林竹二【はやし・たけじ】[ 1906—1985 ]

栃木県生まれ。教育哲学者。東北大学教育学部教授、同学部長を歴任。1969年より6年間、宮城教育大学学長を務める。主著に『授業・人間について』『教育の再生を求めて』ほか。

(註12) 「うたうひと」

東北記録映画三部作の第三部(2013年)。酒井耕・濱口竜介監督作品。第一部「なみのおと」、第二部「なみのこえ」は、被災の体験を語る人物にカメラを向けて震災を伝承する記録映画。両監督は、三部作に通底する映画の「聞く」「語る」姿勢は「みやぎ民話の会」小野和子の民話採訪活動に大きな示唆を得たと語る。第三部「うたうひと」では、その「みやぎ民話の会」にカメラを向けた。



7.生きものの数だけ38億年の物語がある

中村

生命誌には、歴史物語という意味を込めています。生命誌の語り手は小さな生きものたちです。生きものは細胞の中にそれぞれの歴史物語を記したDNA、つまりゲノムを持っています。DNAに基づいて生きるチョウやクモなど、それぞれの語る物語を私たちは聞かせて頂くわけです。例えばアゲハチョウならミカンの葉に、モンシロチョウならキャベツに、お母さんが間違いなく卵を産まないと子どもは育ちません。チョウの幼虫は食べる植物の種類が決まっていて、それ以外は食べないからです。お母さんは産卵する葉っぱをどうやって見分けているんだろうという疑問を抱き、調べると、私たちが舌で味を感じる時に働く味蕾と同じ味覚細胞をチョウのお母さんは前脚に持っていて、そこで葉っぱを味見しているとわかりました。そこで働く遺伝子の変化からチョウの進化の歴史が見えてきます。

小野

はああ。誌っていうのは、物語という意味なのですか。

中村

そうです。チョウも、クモも、カエルも、イチジクも、それぞれが歴史物語を語り聞かせてくれるので、その物語を全部集めると、地球に生きものが誕生してから38億年の物語になるわけです。そこに、植物も、きのこも、バクテリアもいますし、さらに絶滅してしまった生きものたちも含まれます。実に壮大な物語集です。小野さんに対抗するわけではありませんが、これを読み解くことは、民話と同じに面白いですよ。

小野

へええ。38億年っていう歳月はすごいですね。

中村

生命誌の仕事ができあがったら、素敵な物語集になるはずです。毎日コツコツ積み上げていくことを楽しんでいます。

小野

しかし、チョウチョだって、例えば、その脚の先で味を感ずるようなしくみができあがるには、ずいぶん時間が掛かったでしょうね。

中村

ええ。進化は時間そのものですから。生きものを見渡すとそれぞれ実に多様な姿をしていますが、同じしくみを色々な所に持っていたり、あるいは同じものをまったく別のかたちで使い回していたりといろいろな工夫が見られます。自然界は同じと違うの組み合わせでできていて、人間の物語もその中にあるわけです。

私は「地球に優しく」という言葉は上から目線で嫌いです。今の社会は、人間だけ偉そうに別の所にいると勘違いしていますがそれは間違いです。私たち人間は自然の一部ですからね。私の夢は、すべての生きものが語る38億年の生命誌の物語集を作ることなんです。

小野

是非読みたいですね。それは、皆が読みたいと思います。

中村

お読みになりたいでしょう。私も読みたいのです。これは完成したら『源氏物語』より面白い物語になるよって私は自慢しているんです。でもこれは、コツコツ、1ページずつしか書けないんですよ、一つ調べるのも大変なんですもの。

小野

そうでしょうねえ。たくさんの種類の生きものたちがいるから、それだけ物語があるわけですね。そして、その物語の一つとして、人間も自然の中に置いて捉えていくということですね。

中村

民話集めと同じです。

小野

民話も、ムカデやら、ノミやら、シラミやら、よくもこんなものまでと思うくらい、いろいろな生きものたちを物語の中に登場させていますね。

中村

民話の中で、生命誌が一つできあがっていますね。民話は人間だけが特別だという世界ではありませんから、そこに登場するものたちはいつも仲間だよという感じがしますね。

小野

そうですね。

中村

そういう生き方のほうが楽しいと思うんです。人間だけ偉そうにするんじゃなくて。

小野

楽しいほうがいいと思います。地球に優しくという言葉が気になるという話をお聞きして思うことは、「被災地に希望を与えたい」とか、「被災地を元気づけたい」という言葉を耳にするといつも俯いてしまいます。どうやったら、そんなふうに「与えたい」だの「元気づけたい」だのと考えられるのかしらと思ってね。

中村

そう。自分もその中にいるはずなのにね。

小野

そのようにいう方は意識がこの中にない。

中村

外側から見ているので、平気で上から目線でものが言えるのですが、それは間違いです。科学が、人間も自然の一部であるという事実を示していますから。

小野

証明されている。そこが科学のすごいところですね。民話だと、これは嘘かもしれないけどねっていうような所がどうしてもありますけどね(笑)。

今日の中村先生のお話は、目から鱗といいますか、こんなふうに物語として生命という世界を捉えて見渡して、その中での人間というものを追求しておられる生命誌というお仕事を、私は、今日、初めて知りました。

中村

私も、小野さんのお仕事を直接お聞きしたのは、初めてなので、お互い様ですね。知らないことはいっぱいありますね。

小野

でも非常に独特なお仕事ですね、当たり前のことなのに、独特のことですごいなと思う。

中村

一番当たり前のことなんです。ただ科学を基本に置いているものですから難しそうと思われて損をしています。子どもが考えたってそうでしょみたいな。私、難しいことが苦手なので。

対談の後、「みやぎ民話の会」の皆さんと、取材にご協力頂いた、せんだいメディアテークの皆さんと記念撮影(せんだいメディアテーク・プロジェクトルームにて、2016年5月23日)。

写真:大西成明

 

対談を終えて

中村桂子

通常、科学と民話は最も遠いところにあるとされます。確かに河童や山姥は科学では語れません。しかし、人間が自然の一部としてさまざまな生きものや自然現象と関わりながら暮らすと考えるところで生命誌と民話が重なり、共通の世界観を感じます。聞き手によって話が深まるところ、時間をかけて変化する過程なども同じです。生命誌を初めて知った小野さんが、「あたりまえなのに独特」と言って下さったのは共通点あってのことでしょう。これを二十一世紀の基本にしましょう。

小野和子

宮城県を中心に東北の民話を訪ね歩いて四十五年になります。いつも感じてきたのは、古老が語られる民話がその地の「風」と「水」に象徴される風土を背負って、その生命を燃やしつづけてきたのだということでした。この事実は意外に伝え難く試行錯誤してきたのでしたが、分野のまったく異なる中村桂子先生の「生命」への探求の姿から大きな示唆をいただきました。すべては生きて、自然の一部として存在するのだというその思想に繋がるとき、新しく見えてくるものがあることに気づきます。「物語」もまた、太古からの受け継ぐべき生命の足跡なのです。

小野和子(おの かずこ)

1934年岐阜県生まれ。1958年より宮城県仙台市在住。東京女子大学日本文学科卒業。1970年から東北地方の民話採訪活動、民話集の編集、編纂に従事。1975年に「みやぎ民話の会」を設立し、現在は同会顧問。編著書に『長者原老媼夜話』『みちのく民話まんだら —民話のなかの女たち』ほか。1993年宮城県児童文化おてんとさん賞受賞。2004年地方教育行政功労者文部科学大臣表彰。2013年宮城県芸術選奨受賞。


 

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