1. トップ
  2. 季刊「生命誌」
  3. 季刊「生命誌」71号
  4. TALK 心ゆさぶる生き方を追い求めて

TALK

心ゆさぶる生き方を追い求めて

阿形清和京都大学大学院教授
中村桂子JT生命誌研究館館長

1. 遊びの大将

中村

研究館の活動をいつも応援して下さってありがとうございます。季刊生命誌をお送りしていますのでご存知と思いますが、今年のテーマは「遊ぶ」です。阿形さんは熱血漢で、プラナリアの再生研究のお仕事ぶりを見ていても思い込んだら一直線という感じ。でも、ふしぎなことにその中にどこか遊び感覚があるんです。きっと、子どもの頃から遊ぶのが上手だったに違いないと思ったのですけれど。

阿形

ご推察の通りで、遊びの名人でした。よく遊び、よく学びです。今もそれをやってます。子どもの頃に一番凝ったコマ回しは、今でもむちゃくちゃうまいですよ。僕らの子ども時代には、十人ぐらい集まると、木ゴマ、鉄ゴマなどを駆逐艦や戦艦に、皿コマや金ゴマを爆撃機に見立て、だいたい同じ戦力で二手に分かれて、「一斉の」で回し始める。チームのコマが全部とまると負け。掌に乗せて空爆して相手のコマを粉砕したり、ツッケンという技があって、回すときに自分のコマを相手のコマに体当たりさせて相手のコマを吹っ飛ばしたりしていました。ツッケンするときに自分のコマも止まってしまうと作戦失敗で、敵にコマを取られちゃう。だから必死で技を磨きました。手乗せは得意技で、手に乗せたときに摩擦で手に穴が空かないように神社の縁側を擦ってコマの心棒を常にツルツルに磨いてました。

中村

神主さんに怒られない?

阿形

もちろん怒られた(笑)。木ゴマの場合は、硬くするために買ってから一年は水の中に寝かせて、刀剣師のように心棒の鉄の部分を紙やすりでツルツルに磨いてました。

中村

真剣ですね。何年もかけて木を硬くするなんて未来まで考えて。

阿形

綱渡りなど体で覚えたコマの技は今でも自信あります。あの頃の遊びはコマに限らず水雷艦長など、ほとんどが戦争ものでした。

中村

戦後生まれで水雷艦長やったの?

阿形

昭和29年生まれなので戦後かなり経ってたけどまだ戦争遊びが残ってたんですね。

中村

私の知ってる水雷艦長は、艦長だけが帽子を前向きに被り、他は後向きに被って区別してた。

阿形

同じですね。相手の艦長を捕まえたら勝ちで、艦長は駆逐艦には強いけど、水雷に弱い。水雷は駆逐艦に弱いというルールだった。

中村

私は戦争中に男の子が水雷艦長で遊ぶのをよく見てた。戦後も残ってたのね。

阿形

僕らの遊び場だったのは文京区の小日向台町。缶蹴りもよくやりました。缶蹴りは鳩山邸内の坂道が、上から下からと攻撃に変化をつけられるのでおもしろくて、鳩山邸に行ってやってました。若手政治家の勉強会の最中にカランカランとやって「おまえらうるさい!」ってよく怒られました。

鳩山邸ではカナヘビもよく捕りました。また文京区にはお寺が多かったので、お寺の境内に行ってセミや玉虫捕りに燃えましたね。僕らの昆虫採集はコレクションでなくハンティングでした。だから捕虫網も四段式で、枝の隙間にうまく入るように、自分で白い補虫網は外して輪っかを小さく切ってから迷彩色の布で母親に縫ってもらった補虫網を使っていました。五感を駆使してセミを探し出し、瞬時にどの角度から網をかぶせるかを見極め何匹捕まえたかを競ってました。

中村

典型的男の子ですね。でもこうやって細かく聞くと、遊びだからこそ自分で考えたり、工夫したり、仲間との関係を作ったり。生きる基本がつまっているのがわかります。

2. 熱中できるもの

中村

今熱中してるサッカーも子どもの頃からですか。

阿形

いや、子どもの頃のスポーツと言えば野球でした。三番サード長嶋の巨人軍全盛時代で、自宅から後楽園のカクテル光線が見えたこともあり、野球がすべてで、サッカーなどというスポーツのことはほとんど知りませんでした。

中村

私は長嶋と同年ですから神宮で見てる。少し違うのね。

阿形

中学校(文京区立第五中学校)は校庭が全面コンクリートだったので、バスケットをやるとみんなひざが突き出て痛い目にあってた。だから高校に入って土のグラウンドを見たとき、サッカーをやりたいと思った。

中村

その頃の遊びの延長上で仕事への情熱も生まれてきたんじゃないかと思うのですが、具体的には。

阿形

それは神田の本屋街に通っていたことにルーツがあります。中学二年生のとき、神田の書泉ブックマートで三浦謹一郎氏が訳したワトソンの『遺伝子の分子生物学』第一版が山積みになっているのを見て、思わず買って読んだ。そして、生物学が新しい時代に突入していることを知ったわけです。

中村

中学生で『遺伝子の分子生物学』とはすごいですね。自分で見つけたの? 先生に教えられて? セミを捕るときと同じカンかしら。

阿形

暇なときは本屋街を回っていたので自分で見つけました。昔、僕が病気のときに、母親がノーベル賞物語のようなノンフィクションものの本を買ってくれたことがあって、それ以来、科学読みものには親しんで、ブルーバックスの科学シリーズも中学、高校で制覇してたんです。

高校のときは、物理化学の崇高さに比べて生物学は今一つ劣る科学だと思ってました。ところがその後、大塚の本屋で見つけた「自然」という雑誌で、寺本英先生(註1)の記事を読んだことが、僕の人生の転機になった。中村桂子さんならわかって下さると思って、今日、持ってきました。

中村

「自然」は戦後の日本の科学を支えた大事な雑誌ですね。編集長の岡部昭彦さん(註2)とはよく話し合いました。経済が盛んになったら潰れてしまったのですから、この頃の科学のありようには疑問をもちますね。

阿形

この文章を読んだとき、物理学から生物学の時代になるんだと思って体が震えました。京都大学に新しく生物物理学教室をつくった寺本先生の考えた学問の構想が語られていたのです。2階が細胞レベル、3階はバクテリオファージ、4階は分子、5階は理論となっていた。

これを読んだ高校生の僕は、自分の眼で生物物理の世界を確かめたくなり、今対談しているこの生物物理学教室まで東京から乗り込んで来たのです。そして無謀にも片っ端から部屋の扉をあけて。

中村

えっ、アポイントもなしに?

阿形

なし。すると授業している部屋があったので、すっと入って高校生とバレないようにコートの襟を立てて一番後ろの席に座った。ちょうど右前に岡田節人先生(註3)が座っていた。今から思えば岡田先生がホストの大学院生向け講義で、ゼノパスの発生学の山名清隆先生(九州大学)(註4)が初期発生でのリボソームRNAやトランスファーRNAの転写制御の話をしていた。そのとき岡田節人という人を初めて見て、その後すぐに『細胞の社会』(註5)という本に出会ったんです。

中村

遊び上手の男の子が急速に学問に近づいていきますね。

阿形

この本を読んでイモリの再生研究を目指すようになりました。高校生って、将来、自分が何になるのか、どうやって飯を食うかと一番悩むじゃないですか。当時、サッカーで飯を食うという発想は持てませんでしたから。

中村

阿形少年にとって、サッカーは遊びというよりは本命だったのね。世が世ならサッカー選手になっていた。

阿形

その道が選べないとわかったとき、岡田先生の本を読んで、それまで習った生物学とはぜんぜん違う、新しい世界が生物学にあることを知り心震えたのです。

中村

今、遊びという言葉で語っているけれど、阿形さんの中では、熱中できるものとして、コマとサッカーとイモリはつながっているのね。

阿形

だからイモリは自分の手で捕りたかった。東京中グルグル回っても見つからず、九州の宮崎で見つけました。京大で入学試験を受けたその足で、遠い親戚をたよってイモリ探しに行ったのです。ところが九州に入ると国鉄のストライキで電車が動かず、その先はヒッチハイク。泊めてもらった親戚の近所にイモリがいると聞き、網を持って田んぼへ走って行った。高台の坂を登ってハッと顔を上げた瞬間、運命に呼ばれたかのように黒いものが見えた。イモリに触れたとき、体が震えました。

中村

社会では仕事と遊びと分けるけれど、熱中するものという意味で「遊ぶ」が真ん中にあると、仕事も遊びも自ずと絡まってくる。仕事も遊びも一体化している阿形さんの生き方は理想的ですね。

阿形

今、自分が京大の教授になっているのなんて不思議です。もちろんそうなるまでは簡単ではありませんでしたけれど。

中村

それは情熱があってのことですよね。この前にお話を伺った永田和宏先生(註6)もそうでしたが、いい加減なことでは遊べませんね。

阿形

とことん貫くということは永田さんの短歌も同じだと思います。

中村

充実感があるのね。遊びから全体が見えてつながってくる。人間として、一本芯の通った生き方ができるのが幸せということだとお話を伺っていて思いました。

(註1) 寺本英【てらもと・えい】

(1925-1996) 生物物理学者。著書に『無限・カオス・ゆらぎ –物理と数学のはざまから』など。

(註2)岡部昭彦【おかべ・あきひこ】

1929年生まれ。科学ジャーナリスト。1952年中央公論社に入社。1967年~1983年まで科学雑誌「自然」の4代目編集長を務める。著書に『科学者点描』など。

(註3)岡田節人【おかだ・ときんど】

1927年生まれ。発生生物学者。生命誌研究館名誉顧問。2007年文化勲章受章。
関連記事:生命誌ジャーナル30号「ルイセンコの時代があった−生物学のイデオロギーの時代に」

(註4)山名清隆【やまな・きよたか】

1931年生まれ。発生生物学者。著書に『カエルの体づくり』など。

(註5) 『細胞の社会 –生命秩序の基本を探る』

岡田節人著。講談社ブルーバックス。

(註6)永田和宏【ながた・かずひろ】

細胞生物学者。歌人。
関連記事:生命誌ジャーナル70号「短歌と科学、定型の中に生まれる遊び」



3. 脳なしのはずが脳だらけ

中村

イモリから始まった再生研究の中で、どこかである種の余裕が出てきたように見えますけれど。時間を重ねるうちに自分の中で広がりや遊びが出てくると感じたときがありませんでしたか。

阿形

経験を積むことで物事にゆとりができて、遊べるようになったのは確かです。例えば、ピカソも基礎のデッサンの経験の上に遊び心を加えることで、彼独特のデフォルメした絵を描き上げた。若い頃はしっかりデッサンしていて、青の時代とも、キュビスムとも違う作品を描いていますね。

中村

ピカソは子ども時代に極めてしまって壊すしかなかったんですね。

阿形

一つの道を突き詰めるとだんだん成熟していって、一つのきっかけから殻を破って全体をひっくり返して変形してしまうところがおもしろい。

学生ともよく話しますが、今の若い連中もビートルズは聴いているようです。なぜビートルズの曲が世代を超えて人々に受け入れられるのか。そこには聴いた人の心に残る何かがあるわけです。

中村

彼らが出てきた時は、どんでもないものが出てきたとされましたが、一つの時代を作りましたね。出るべくして出てきた感じ。内から出てきた何かがあるんですね。

阿形

自分が心震えて感動したものでなければ面白いサイエンスにならないのは生物研究も同じ。

優等生の研究発表は感心するけど心に残らない。やはり自分が、その生物と「未知との遭遇」(註7)した瞬間の驚きを表現したいという気持が生まれたとき、そこに転換点があったと思いますね。

実験も、最初はがむしゃらですが、だんだん誰でもやるような実験では自分がおもしろくなくなって少しひねったアプローチがしたくなる。その余裕が出たところで仕事の質が変わってきたかな。

中村

自分でおもしろくなるようにと思えるには余裕が必要ですね。自分がおもしろくないのは嫌だと思ったから変わってきた。それは遊びの感覚ですね。どんなに研究の質が高くても自分がおもしろくないことはだめ。自分がおもしろいということが開始点だと気がついた。そこが大切ですね。

阿形

ピカソもビートルズも生物研究も皆わくわく感を求めているのは同じじゃないかな。

中村

ピカソも、表現の変化だけでなく<ゲルニカ>(註8)のように、内容としても重要な転換をしていますでしょ。内容と表現は別のものではありませんね。

阿形

成熟する過程のどこかに転換点があり、そこを経験できるかどうかが成長の大きな分かれ目だと思いますね。

中村

科学の場合、成果を伝えるということだけが重視されますけれど、その前に自分が何を感じるか、それをどう表現するかがなければいけませんよね。

阿形

自分が何に心を震わせるか。例えば、旅先で記憶に残ることといえば、思いがけない場所、予想しない出会い、さらには失敗やトラブルなどに出会ったことが残ります。できあいのツアー旅行に参加して絵葉書のような景色をいくら回っても心に残らない。生物研究も自分でやっていて心に残っているのは、失敗した上で意外な結果が出たときです。

中村

その話を是非。

阿形

研究者なんて失敗することのほうが多いのですが。一番心震えたのは、プラナリアでnou-darake遺伝子を見つけたときでしたね。プラナリア頭部の再生過程で特徴的な発現パターンを見せる遺伝子を調べていた中で、この遺伝子をノックアウトしてはらたかないようにしたら絶対に脳ができなくなるはずだと狙いを定めた。そこでノックアウトの方法を習いに、研究室の小林千余子さんをカーネギー研究所のアレサンドロ・サンチェス(A.Sánchez Alvarado)博士(註9)のところへ送り込み、彼女が戻ると早速、その遺伝子のノックアウト実験をして、わくわくしながら結果を待ったんです。

中村

脳がないプラナリアができるだろうと期待して。

阿形

ところが一週間して観察したら、頭も、眼もけろっと再生してしまった。この時は一気にどん底まで落ち込みましたよ。アメリカまで人を送り込んで習わせて何も起きなかったなんてもう呆然ですよ。

ところが落ち込んだ三日後ぐらいに小林さんが走ってきて、「大変です。目玉がいっぱいできてます」って。最初、一週間まではワンペアの眼だった。それが、八日、九日目には、眼がどんどん増えて四ペアですよ。これはおかしなことが起きているに違いないと、脳を染色してみたら、なんと体中が脳だらけだった。そこでこの遺伝子をnou-darakeと名づけました。

写真左:正常なプラナリア(染色により黒く見えるところが脳)。 
写真右:nou-darake遺伝子がはたらかない個体は全身に脳ができる。

中村

脳がなくなるようにと計画した実験で、脳だらけの個体が生まれた大逆転劇ですね。私たちもその話を聞いて何事だろうと思ったのを思い出しました。でも眼がいっぱいできるというのは現象としておもしろいですね。

阿形

自分の予測と全く違ったことが起きたので、その解釈には長い道のりがありましたが、あの感動は深く心に残っています。

中村

生物学に思いがけないことがなかったらおもしろくありません。今度の地震で想定外という言葉が流行りました。技術の世界はすべてを想定しているから自然にまでその言葉を使ってしまう。

自然界は思いがけないことがあるからこそおもしろい。今の社会は機械論に寄り過ぎていますよね。思いがけないことはあるものだと思っているのが自然に対する態度なのに、機械として考えるから、いざという時に想定外という言葉が出てしまう。

阿形

実験で予想通りの結果が出ることも大事ですがそれは心に残らない。心に残る感動は人間の考える範囲を超えたときにあるものですね。

(註7) 未知との遭遇

1978年に日本公開されたSF映画の題。原題は、"Close Encounters of the Third Kind"人類と地球外生命体との初めての出会いをテーマに、その構想から、音と光の表現を追求したスティーブン・スピルバーグ監督によるヒット作。

(註8) ゲルニカ

1937年4月26日、内戦状態にあるスペインで、バスク地方の町ゲルニカが、フランコ将軍を支援するドイツ軍により空爆を受けたという出来事をテーマに同年開催のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として描かれた。
 

(註9) アレサンドロ・サンチェス【A.Sánchez Alvarado】

1964年生まれ。カーネギー研究所の研究員としてプラナリア再生能力の分子機構を研究。



4. 実験は体で覚える職人の世界

中村

大学院時代に師事した江上不二夫先生(註10)の研究室には「江上語録」があるのですが、その第一は、「失敗したら喜べ」です。自然は人間が考えていることをはるかに凌ぐ。実験で自分の考えと違う結果が出たときは、自然の奥深いところに触れたのだから喜びなさいということですね。若い頃はよくわからなかったのですが、だんだん本質をついた言葉だと納得するようになるのです。

阿形

失敗を喜ぶためにも、僕の研究室では「コントロールを取れ!」と学生に言い聞かせています。若い人は、自分は失敗しないと思って実験を組むので、手を抜いてコントロール実験(註11)をやらないことが多い。それでは意外な結果が出たときに、それが単に実験上の失敗なのか、発見につながる予想外の結果なのか見極めがつかないでしょう。実は、僕もコントロール実験を重視するようになったのは三十代半ばで、いざって時のために、あらかじめ余裕をもってコントロール実験をしておくことを体で覚えたのが一つの転換点だったという気はします。

中村

体で覚えるという言葉は今日のキーワードの一つですね。

阿形

五感を使って体で覚える基本は子どもの頃の遊びにあると思いませんか。研究室では毎年四月になると、新人をプラナリアやイモリの採集に連れて行きます。道中、バスの中で一通り五感を使った採集法を説明して採集地に向かうのですが、同じ場所でもやはり捕れる人と捕れない人がいる。

プラナリアは日光を嫌うので日当たりの良いところはだめ。木陰や橋の影がよい。さらに季節や時間の違いで影がどのように動いていくかまで把握できれば上等です。学生は靴を履いて来るけど、教授はスリッパを履いてきてそのまま水に入るわけ。素足で水温を感じるんです。水に入った瞬間にプラナリアのいる水温かどうかがわかります。そうやって五感を総動員した人はプラナリアを捕れる。五感を使わずにポイントを逃してしまった学生さんは捕れない。

実験も同じで、実験室に入った瞬間に、僕は「バランスどうなってる」ってよく聞くんです。遠心機の音の微妙な違いがわかるんです。ほかの人はきょとんとしてますが、おかしいと直感でわかる。五感を使った経験値が違うんですね。

中村

体で覚えるのには、遊びが一番いいと言えるでしょうね。

阿形

子どもの頃に体で覚えた経験がないと、実験もマニュアルどおりにやるしかなくなる。今は、誰でもできるマニュアル方式が主流ですが、僕らは、純日本式の職人的実験スタイルで、五感を使い体に覚え込ませるという研究の進め方に拘っています。だからマニュアルはつくらない。例えば、83マイクロリットルってどのくらいの量なのかを体で覚えるまで実験をくり返すんです。細胞の初代培養なんか、細胞の気持ちがわからないと話しになりません。一日に一回培養液の交換と書いてあっても、翌朝一番に交換しなくてはいけないのか、夜に交換したのでよいのか、朝の観察(細胞のご機嫌伺いと呼んでいた)で瞬時に判断できなくてはいけません。僕らの若い頃は、第一線の日本人研究者はプロの職人でもあり、直感的に違いのわかる人が多かったと思います。

中村

昔は、電気泳動などがそうでしたが、研究に必要な装置を自分でつくるところから始めましたからね。今は、市販の製品を買ってデータを出し、それをコンピュータに入れて解析する。それは進歩ですけれど、本当のおもしろさが消えてしまうところもありますね。

阿形

昔は自分にしかできない実験でオリジナリティを出していました。今は、誰もが同じようにできる実験が増えた分、自分にしかできない研究にもっとこだわらないとオリジナリティは発揮できません。今の若い人はどこでオリジナリティを出すのか、もっと考えて欲しいですね。

中村

自分にしかできないということも大事な言葉ですね。誰でもできる仕事の一翼を担ってもおもしろさに欠けますし、研究も続かない。国も、お金や名誉で研究者を誘って競争させているので、本当の研究の魅力を若い人たちに与えていませんね。

阿形

学生の指導もなかなか難しい時代です。将来、個性ある研究者として活躍するにはどれだけユニークな経験をしたかの経験値が重要です。だから、大学院の修士課程は幅広い経験を積む方がよいのですが、最近は大学も実績主義となり、学生は修士の二年間で結果を出さないと学術振興会の研究費が当たらないとか、奨学金が免除にならないとか、目の前にニンジンをぶらさげられているので、修士では幅をつけろなんて言ってられない状況になりつつあります。「失敗もよい経験だ」なんて悠長なことを言っていては生活できなくなってしまう。本当は大切な遊ぶということが理解されない状況ですね。

中村

後の成長を考えたら、修士の二年ぐらいは余裕を与えるしくみになっているといいのにね。先生にも、学生に実績をあげさせる義務が出ている。

阿形

人間的に、遊びの幅をもてたところから新しいものが出てくるのに、今、日本は全体的に遊びがありません。

中村

このやり方を続けていると、十年、二十年後に大きなマイナスが出てくると思うのです。今、何とかもっているのは、昔、機械はない、お金もない、でも時間はたっぷりあったという時代に人々が培った財産で動いているからで、今、その余裕がどんどん失われていますでしょ。

阿形

僕らは、先駆者たちが始めた分子生物学の黎明期に、大学院生として研究室に入った最初の世代なのです。マニュアルもない試行錯誤の時代に、自分で制限酵素を精製して、プラスミドに遺伝子導入した経験があったので、扱いにくいプラナリアやイモリなどを分子生物学として扱えるようにしたところに自分の研究のオリジナリティがあるのです。

七〇年~八〇年代には、生物学の世界ではまだまだ「遺伝子なんかやって何になるんだ」って言う人が多かった。そんな時代に基礎生物学研究所に移り、まだ分子生物学的にアプローチできていない日本発のオリジナルな研究を共同研究で受け入れて、遺伝子クローニングを教えて、その技術を全国に広めていたんです。遺伝子までやると、ここまで研究を進めることができますよという宣教師的な役割を果たしたのです。

村田紀夫さん(註12)の研究でほうれん草で耐寒性の細胞膜をつくる不飽和脂肪酸の酵素をクローニングしたり、藤沢肇さん(註13)の研究で神経ネットワーク形成の制御をするニューロピリンの遺伝子をクローニングしたり、おもしろい仕事をたくさんやりました。

自分たちで開発した技術や海外から斬新なプロトコルを移入しては、日本発の研究を分子生物学の土俵に載せて世界に驚きを与えるという目標をある程度達成しましたね。

特に、海外でメジャーなモデル動物を使った研究じゃなくて、日本発のマイナー動物を使ったオリジナルな研究をメジャーへと押し上げていく上り坂にあるときはわくわくしましたね。今の若い人は、成熟してすっかりできあがった有名な研究室に行きたがるけど、そこではもうやることは決まっていて何もわくわく感がない。マニュアルに従って、期待通りの結果のでる実験してナンボなわけですから。

中村

上り坂で向こうが見えないときって本当にわくわくしますね。マイノリティのところを探して新しく始めるのが一番おもしろい。

阿形

マイナーがメジャーになっていくところがおもしろい。いみじくも日本のサッカーはマイナーだった。ところが最近は、日本代表のチケットを手に入れることが困難なほどメジャーになって、ついにテレビでしか見られない時代になってしまった。

(註10) 江上不二夫【えがみ・ふじお】

(1910~1982) 生化学者。核酸構造研究から日本における分子生物学の基礎を築いた。

(註11) コントロール実験(対照実験)

実験結果を比較検討する対照となる実験。ある実験で現象内に作用する因子を明らかにする場合、その因子以外を同一条件とする別の実験を行い両者の結果を比較する。

(註12)村田紀夫【むらた・のりお】

関連記事:生命誌ジャーナル15号「塩害に強い植物を作る」

(註13) 藤澤肇【ふじさわ・はじめ】

関連記事:生命誌ジャーナル48号「神経回路は試行錯誤で」



5. サッカー界に学べ

阿形

今、日本ではすべての分野で地盤沈下していく中でサッカー界だけが世界に躍進を続けているでしょ。日本のサッカー界の現在の繁栄をもたらしたものは何か。みんながどのように捉えているのかを聞いてみたいですね。そして、ここに僕らが学ぶべきものがたくさんあるということを知ってもらいたいですね。

中村

なでしこでみんな沸きましたね。

阿形

日本は、東京オリンピックとメキシコオリンピックの時代に、釜本邦茂(註14)を中心に、選抜したトップエリートを育成して、メキシコで見事に銅メダルに輝いた。このとき日本が世界の檜舞台に立てることを初めて示せたわけです。しかし、トップが抜けた後には散々な時代が続きました。日本のサッカー人口全体のピラミッド構造を作らずに、優秀な人だけを選んでトップ育成したために、トップがいなくなったら世界に通用するものは何も残らなかったんです。

このときエリート育成の屋台骨を支えたデットマール・クラマー氏(註15)が偉かったと思うのは、彼は、日本リーグの創設とともにヨーロッパのクラブシステムを導入して、日本サッカー界全体を底上げする種まきをしていたのです。その下地づくりのおかげで、釜本の時代以降三十年の積み重ねによって日本サッカー全体のピラミッド構造を構築して、現在のワールドカップのベスト16入り、なでしこのW杯優勝を果たしたわけです。

今日のテーマの遊びにもつながりますが、世界に勝つには広い裾野を持った全体の構造をもたないと力が出ません。ブラジルを見て下さい。巨大なピラピッド構造を作っているから、世界のトップ級のプレイヤーが次々とでてきます。僕はこれをエリート主義に対して、総和主義と呼んでいます。

中村

みんな道端でサッカーしているという状態ですね。

阿形

日本のサッカーは、三十年前は下支えが何もなかったからトップブレイヤーが抜けた後は何にも残らなかった。時間は掛かったけど、今は総和主義で力を発揮できるようになった。だから中村俊輔や中田英寿が抜けてどうなるのかってみんな心配していたにもかかわらず、続々と若い連中が出てきて、落ちるどころかさらに強くなっていった。本田、香川、長友…。まだまだおもしろいプレイヤーが出てきそうだ。

中村

22歳以下の若い選手たちもとても魅力的ですね。なぜ、なでしこが出てきたか。なぜ日本がワールドカップに出られるかを具体的に問えばいいという指摘、なるほどと思いました。

阿形

漠然と日本のサッカーは時代の波に乗っていると捉えている人が多いと思いますが、違うんです。そこに気づいて欲しい。

日本の研究を世界に通用させるには、時間をかけてピラミッド構造を大きく育てて全体で頂点を押し上げるという発想に転換しなくてはいけない。

日本の教育や研究のシステムでは、景気が悪くなると、世界から置いていかれないよう、どうしてもトップにだけ金をかけるようになる。その結果、全体として痩せ細っていき将来へと続かなくなってしまいます。

中村

本来、日本の社会は層が厚いのに、アメリカ型にしなくてはいけないと思い込んだ人たちがいてそのようなやり方になったんですね。その結果、余裕が全然ない。

阿形

今の大学は、サッカー界の反省を活かしてません。選択と集中しかないと言って、過去の積み重ねすら捨てていっています。大学こそ、一刻も早くサッカー界がやった総和主義を学んで欲しい。なでしこたちが優勝した後に、口を揃えて強調していたのが、過去の先輩たちの努力への感謝です。彼女らは過去の先輩たちの積み重ねの上にあることを良くわかっていました。大学も腐ったといっても過去の積み重ねがあるわけで、今一度ピラミッドづくりの精神を見直さなくてはいけません。

中村

サッカーの魅力の一つに地域スポーツをつくったということがありますね。よその国なら、誰でもふとスポーツやろうと思ったらすぐできるのに、日本の文化にスポーツがないから、未だに何十万払ってゴルフクラブやテニスクラブに入会し、予約しないとプレイができない。今日、時間が空いたから楽しみたいという遊びになっていませんでしょ。

サッカーは関係者が熱心で、そこをとても上手にやったと思うけれど、すべてのスポーツがそうあるのが先進国だと思うんです。

阿形

サッカーは、どんな田舎のチームでもトップの大会の決勝まで続くルートにあるのです。JFLで勝てばJ2に、J2で勝ったらJ1になれる。野球みたいに決まった6チームがあるわけじゃなくて、常に入れ替え戦をやって表舞台で自分が戦える道が一番底辺にまで開かれているのです。そうじゃないと世界に勝てないとわかっていたから。

中村

子どもたちが夢を持てますね。自分はトップにつながっている実感をすべての子が抱けますから。

阿形

もう一つ。日本では、ふつうピラミッド構造って中央集権的な搾取のイメージで捉えられるけど、Jリーグのピラミッドは上の稼ぎを下に還元する仕組みももっています。トトで集めた資金も各地の芝生化に還元しています。そのような積み重ねが国力となり、やがてブラジルのように常に世界のベスト4になることを目指しているんです。

ところが、京大が世界のトップにしようと言ってつくったiPSセンター(註16)は、各部局の間接経費をつぎ込んで作ったにもかかわらず、今のところ一方向にしか資金は動いていません。

iPSセンターがそのうち金を稼ぐようになり、その金が逆に各部局に還元されるようになれば、みんながサポートするようになるはずです。そうやって大学が新しい時代を迎えて欲しい。

中村

それはとても大事なことでスポーツだけでなく、社会のシステムをサッカーをモデルにすればいいということですね。

阿形

景気が悪くなったからといって、その場しのぎのエリート主義を続けていると、気がついたら日本中がみんな疲弊しきって、どの業界も世界のグローバル化の波からこぼれ落ちてしまうかもしれません。発想の転換が必要です。

中村

遊びは国力につながるとここで声をあげましょう。

阿形

遊びの部分をいかに保ったまま積み重ねを続けていい循環に入るかを考えなくてはいけません。今の日本のように、遊びを許さない雰囲気が強いと、確実に悪い循環に入ると思います。

中村

改めて伺っているとJリーグのしくみって本当にうまくできてますね。

阿形

どうやったらグローバライズできるか。僕ら研究者がサッカー界から学ぶことはいっぱいあります。僕らが子どもの頃、日本のサッカーがワールドカップに出るなんて夢のまた夢でした。それがピラミッド構造さえしっかりつくれば、あっという間に実現したのですから感動ものです。ピラミッド構造をつくれば世界に行けるんだということを目の当たりにした経験はむちゃくちゃ大きい。

中村

あらゆる場面でこのモデルを生かせばよいのですね。やはりJリーグをつくったのが転換点だったのですか。

阿形

初代チェアマンを務めた川淵三郎(註17)の存在が大きかった。Jリーグ100年構想という言葉もいいですよね。全国津々浦々まで、きちっとしたピラミッド構造をつくるために100年かけてやるという長期的に考える精神/ビジョンが現れているじゃないですか。

中村

うまく動いているから参考にすべきですね。

阿形

最初はうまく動くかどうかわからなかったわけですよ。

中村

最初のころのJリーグは、申し訳ないけどまだ発展途上でした。

阿形

ビデオに撮って1.5倍速にしなきゃ見られなかった。

中村

見ていてもおもしろくなくて、やっぱりヨーロッパの試合を見るとおもしろいなと感じましたけど、この頃の日本は上手になりましたね。

阿形

確かに、むちゃくちゃレベルが上がっています。しかし、それでもまだ、ヨーロッパの試合を見たら、まだこんなに差があるのかと思って愕然とします。

しかし、香川真司とかドイツで余裕をもってプレイしているから、個人レベルではだいぶ近づいてきていることは間違いありません。なでしこだって、宮間あやのようなキャラが出てくるなんて、あの余裕はすごいね。

中村

あのPK戦での宮間の打ち方。あの場面でちょっとはずすみたいなことができるとは思わなかったからびっくりしました。

阿形

また決めた後のポーズがいいですよね。あのキャラが大学にも欲しい。遊び心があります。所属チームの岡山湯郷ベルで何か超越するような転換点があったのでしょう。プレイに余裕がある。プロですよ。

中村

ほかの人たちが真剣に蹴り込んでる中で、彼女は、ちゃんと全体を見ていて、緩いボールをひょいっと。なるほど余裕であり遊びですね。

阿形

見ていて心揺さぶるじゃないですか。ほかの一生懸命とはまた違う味わいが出る。多くのプレーヤーがあれだけの余裕を持てるようになることがこれからの目標です。

中村

大物への期待ですね。

阿形

前に、ピカソやビートルズを持ち出して何が心を震わすかの話しをしましたが、スポーツでも似たようなことがあります。人々の心を震わすのは、ぎりぎりの頑張りをみせた場合と、もう一つは、プラスアルファの「遊び」の余裕の中から出てくる場合の、二種類あることに気づきます。宮間や香川のプレイは後者の範囲に到達しています。では、どのようにしたら「遊び」の部分が作れるのか。最近、韓国相手に「遊べる」ようになった日本サッカー界にそのヒントがある。日本の教育やサイエンスも学ぶものがあると思います。

(註14)釜本邦茂【かまもと・くにしげ】

1944年生まれ。早稲田大学二年で東京オリンピック出場。ヤンマーディーゼル入社後のメキシコオリンピックで得点王となり銅メダル獲得に貢献。現役時代のポジションはフォワード。2005年日本サッカー殿堂入り。

(註15)デットマール・クラマー【Dettmar Cramer】

1925年ドイツ生まれ。1960年日本代表コーチとして来日。日本サッカーの全国リーグ、コーチの育成、代表強化の礎を築いた。国際サッカー連盟コーチとして世界中を巡回。2005年日本サッカー殿堂入り。

(註16)iPSセンター

iPS細胞研究所。2010年4月、京都大学の附置研究所として設立。人工多能性幹細胞の可能性を追求し、再生医療の実現に貢献することなどを理念とする。初代研究所長は山中伸弥教授。現在の教職員数は約250名。

(註17)川淵三郎【かわぶち・さぶろう】

1936年生まれ。選手時代は、早稲田大学、古川電工サッカー部で活躍。東京オリンピックでは強豪アルゼンチンを相手にチームの逆転勝利とベスト8進出に貢献。JFA理事、Jリーグチェアマン、JFA副会長、会長などを歴任。日本サッカーの強化と、地域スポーツの振興に力を注ぐ。2008年日本サッカー殿堂入り。



6. 蹴ったらあかん

中村

阿形さんはずっと少年サッカーチームのコーチを続けていますね。毎週、通っていらっしゃるの?

阿形

毎週末、相生でサッカー界の底辺をやっています。小学一年から六年までで、だいたい三学年で一チーム組んでいます。

最近は、学会の用事が土日に入ることが多くなったのですが、少年サッカーに行けない週が続くと体調が悪くなる。ハードに体を使っているわけじゃないけど、子ども達と一緒にやっていると血液循環がよいのです。

中村

それこそ体が要求するのですね。

阿形

僕らが子どもの頃は、味方のゴール前で球を取って、もたもたしてると、すぐコーチに怒鳴られた。「蹴れ!おまえ、なんで蹴らんのか!」って。味方のゴール前でドリブルなんかして球を奪われ失点しようものなら無茶苦茶に怒られたものです。ところが今、僕らコーチが言うことは、「蹴ったらあかん!」です。「とにかく球を持て!持って、持って、持ちまくれ! 蹴ったらあかん! 」って逆のことを言っています。

今の考え方では、子どもの頃に、まず足技をつくることが大事なのです。球をもらってすぐ蹴っていては足技が身につかない。どこまで球を持ったら敵に取られるかをまず体に覚え込ませるのです。今はサッカー界全体のピラミッドの考え方が全国のコーチングレベルで田舎のチームにまで浸透していますから、みんなが当面の試合に勝つことじゃなくて、ワールドカップに勝つことを目標に練習しているのです。だから幼稚園の頃からみんなマラドーナやメッシを目指して練習しています。

中村

サッカーは蹴っちゃいかんですか、なるほど。まずは足技を体で覚えれば蹴るのはいつでもできるということですね。この間もテレビで、なでしこが被災地の子ども達を訪問して教えている様子を見ましたけれど、小学生も上手に足を使っていましたね。

阿形

日本が次に直面している課題はゴールゲッターの育成です。今サッカーでは、わがままなやつをどこまで育てられるかが問題なのです。中間層の優等生はいっぱいいる。だから日本の試合を見ていると、パス回しはうまいし、攻めてるんだけど、なかなか点が取れなくてイライラする。そういうとき、僕らは、ここに釜本がいればと、釜本一人いれば楽勝じゃんって思うのだけど、その釜本が育たない。

昔、クラマー氏は、とにかく勝つために、釜本を鍛えに鍛えた。周りと違っていい、お山の大将でいいからどんどんやれっていう風潮が日本の文化の中にないのでそれは簡単なことではない。子どもの頃からやんちゃ坊主でわがままなやつを、どこまで目をつぶって許せるか。普通のコーチが「パスしろ!」って言うところで、ゴール前まで一人で持って行ってしまうようなわがままなプレイヤーをどうやって育てたらよいのか。

たまに学会などで色んな国から集まった研究者仲間でサッカーやることがあります。すると、パスしないで勝手に一人だけでシュート打って、「ハッハー!」とか言っているのは必ず南米の人です。ゲームはみんなでやってるんだぞって腹も立つけど、彼らにとっては、球をもったらひたすらゴールを取りに行ってしまうのはもう本能みたいなもんで、周りから何を言ったってだめ。全然感覚が違います。それをどうやって育てるか。

中村

毎週、子ども達のコーチをしているのは、そういう文化を育てようという意識だったんですね。でもやはり阿形さんが楽しくなかったら続きませんでしょう。

阿形

楽しんでる。子ども達はどこかで変身するからそれが楽しい。今まで、なんか、かったるそうに練習していたやつが、どこかでおもしろみを見つけたときに、突然、目覚めて、自分で練習するようになる。彼らもどこかに転換点があって、目覚めた瞬間というのはどんどんうまくなって、えっ、こいつがここまで伸びるのっていうことになる。それを見るのが一番の励みですね。

大学も同じですよ。やる気なく研究室に入ってきた学生が、途中で目覚めて、急に実験するようになったりして、そうやって自分で転換点を見出すまで成熟させる余裕のある場を提供したいのです。

今の若い人たちはやる気を出すきっかけさえ与えれば、しっかり自分で世界に通用するレベルになる。ところが教育の現場は、どうしても上から目線でやらせるという風潮が抜けない。

中村

自分の中から自分のものを出させるのは本当に大変ですね。

阿形

若い人は、やらされている、から、自分からやる、になった瞬間に変わります。それには子どもの頃に経験しておく遊びの幅が極めて重要で、その経験値が将来、勉強でも仕事でもものを言うわけ。

中村

遊ぶと言えば、昔は、留学とは言わずに、遊学と言いましたね。

阿形

今の留学のことを遊学と言ったのですか。

中村

明治の頃、夏目漱石が英国へ行ったのは、留学とは言わず、離れたところへ行って新しいことをやるわけだから、遊学でしたでしょ。一つ所に留まるのでなく、どこへでも動いて新しいところへ広がっていくから。

阿形

留まるに対して、いろんなところを回って幅をつくるという意味で、遊学と言ったのですか。すごいね。

中村

日本人の感覚として、遊ぶという言葉に、当時そういう意味を持たせたのだと思います。留学ではいけない。

阿形

だけど、今、学生を遊学させたいとか言ったら、学生を遊ばせる気かって、すぐに怒られそうだな。

中村

遊学なんて言ったら予算カットされますね。本来は日本の文化の中に、その余裕はあったのだと思います。それが最近は、実用化をキリキリ言うわけ。研究の成果は余裕があって初めて出てくるものなのにね。学問と遊びとは違うものではないんですね。

阿形

遊ぶということに関連して、もう一つ、科学の世界に必要だと思っているのが、いわゆるサポーターの育成です。つまり寄付金やチャリティで研究をやるという文化を日本でどうやって育むかです。サッカーでピラミッド構造を支えているのは選手だけではありません。いわゆるサポートと呼ばれる選手以外の方々の強い気持ちがあって世界と戦えているのです。選手とサポーターはほとんど一体化して強固なピラミッドを形成しています。世界と戦うためには、科学の世界にもサポーターとの強い絆が必要です。そういった意味において、アメリカのサイエンスは飛び抜けています。ご存知のように、寄付金や各種財団の豊富な資金で基礎研究を支えています。日本は、昔には遊びの部分としてのタニマチ文化があったのに、いつの間に消えてしまいました。

中村

そこは税制の問題が大きいと思いますね。

阿形

いや、それだけではないと思います。昔のタニマチは相撲や芸能界にあっても、あまり科学の世界では聞かない。おもしろい研究はあっても、「富国強兵のための研究」みたいなイメージが定着していて、贔屓になろうという感じがしない。

中村

お相撲だって、かつてあったタニマチ的なものをなくしているわけでしょう。今、日本の流れは逆ですね。

阿形

魅力あるプロがいて、それを支えるサポーター/タニマチがいて、それらが一体化することで、高みに行くというのが理想形ですね。サイエンスも大学もそのような方向性をもっと模索していいと思んです。

中村

日本のサッカーはなぜワールドカップに行けるか、なでしこがワールドカップで優勝したかという具体例を示すことは大事ですよ。今日お話を伺ってよくわかりましたし、研究も同じということもわかりましたから。

阿形

なでしこの選手たちは口々に昔の人達を評価し、そしてサポートに感謝の言葉を述べている。先輩たちやサポーターが支えてくれて今があるんだと、みんなそういう言い方をしてたでしょう。その背景を理解して欲しいのです。

写真:大西成明

 

対談を終えて

中村桂子

阿形さんはBRH創設の時から強力な仲間として何かとお世話になってきました。熱血漢で研究を見ていても思いこんだら一直線なのですが、ふしぎなことにその中にどこか遊び感覚があるのです。もう一つまっしぐらぶりを見せてくれるのがサッカー。忙しい中、週末には子どもチームのコーチを続けていて、その情熱と体力には舌を巻く他ありません。今回、研究もサッカーも体で感じ、五感を全開する生き方に支えられているとわかり、なるほどと思いました。未来を明るく見通せる社会を作る方法がここにありそうで、なんだか元気になりました。
 

阿形清和

遊びとは
辞書で<遊び>と引くと、1. 遊ぶこと、2. 物事にゆとりがあること、とある。これは<遊びの経験を積む>ことで<物事にゆとりができる>ということだ。例えば、ピカソも基礎のデッサンの経験の上に遊び心を加えることで、彼独特のデフォルメした絵を描き上げた。ビートルズもアルバムが売れるようになった余裕の上で、新たな音楽を創造していった。どちらも基礎がしっかりした上での話しだが、人々の心を震わすのは、@ ぎりぎりの頑張りをみせた場合(ただし、これは短期感動でしかない)と、A プラスアルファの<遊び>の余裕の中から出てくる場合(実はこれが長期感動をもたらす)の2種類あることに気づく。では、どのようにしたら<遊び>の部分が作れるのか。最近、韓国相手に<遊べる>ようになった日本サッカー界にそのヒントがある。日本の教育やサイエンスも学ぶべし。

阿形清和(あがた・きよかず)

1954年大阪生まれ、東京育ち。京都大学大学院理学研究科生物物理学教室卒業。大学院時代に岡田節人研究室で薫陶を受ける。基礎生物学研究所助手、姫路工業大学(現兵庫県立大学)助教授、岡山大学理学部教授、理研CDBグループディレクターを経て、現在、京都大学大学院理学研究科生物物理学教室教授。専門はプラナリアやイモリを用いた再生研究。1994年より矢野スポーツクラブのサッカー監督。

季刊「生命誌」をもっとみる

オンライン開催 催しのご案内

レクチャー

2025/1/18(土)

『肉食動物の時間』